移り変わる年と変わらぬ考え 【1】
人の気持ちは分からない。 今になっても、俺は結構な確率でそう思う。 遠回しに何々をして欲しいといった気持ちだったり、本音は全く違ったことだったり、本当にして欲しいことはああだった、本当はそんなことを言うつもりじゃなかった、騙す気はなかった、嘘を吐くつもりはなかった、喜ぶと思った、ごめん、ありがとう、嬉しい、悲しい。
そんな、多すぎる気持ちは分からない。 分かれないし、分かるのは難しい。 同じ言葉でも、その当人が違った気持ちを抱いていることだってある。 それを全て理解できる人なんて、この世には存在しないだろう。 もしも一人のことを全て理解できるとしたら、それは自分自身に他ならない。 けれど、俺はそんな自分のことですら分からないのだ。 人の気持ちは分からない、自分の気持ちは更に分からない。 この世の中、分からないことだらけで成り立っている。 だから、俺はそれが知りたい。
だけれど、それはきっと茨の道。 どうしてかというと。
例題その一。 仲の良い女子がバレンタインデーにチョコを渡してきた。 渡しながら「義理だから」という素っ気ない言葉とともにだ。 これは本命か否か。
ごく普通の男子高校生なら、否と答える。 しかし、その答えの中には「もしかしたら」とか「照れ隠しか」とかそういうのが含まれての答え。 そう思うのが当然だし、それが普通なんだと俺は思う。 だから正解は「本当のことは聞くまで分からない」が正解となる。
問題はここで一歩踏み込めるかどうか、だ。 踏み込める奴も居れば、踏み込めない奴も居る。 そんなのは知っている。 だが、俺は絶対に踏み込まない。 この問題の重要な部分は「チョコを渡してきた」という部分でも「本命か否か」という部分でもないのだ。 この問題文でもっとも重要なのは「仲の良い女子が」という部分。
もしもそれで聞いたとして、それが違った場合は当然その関係は崩れて消える。 そりゃもう、真夏日に氷を外に放り出して溶けて消える速度なみに一瞬で。 そしてそれがそうだった場合でも、結果は一緒なのだ。
その瞬間「仲の良い女子」という関係から「恋人同士」という関係になるのだから、結果はどうあれ結末は一緒だ。 その関係が消えたという事実は、何一つ変わりやしない。
俺がもしも同じ状態に置かれたとしたら、俺はそれを義理で済ませる。 その後の関係も、その後のやり取りも、何一つ変化なく。 人と人との関係は、天秤のように危ういから。 些細なことで釣り合いは傾き、些細なことで均衡は破れる。 そんな関係を壊したくない所為か、それともただ臆病なだけなのか、その自分の気持ちすら分からない。
ここで本題。 本題の問題だ。
俺、成瀬陽夢が人の気持ちを知れることができるか? イエス、オア、ノー。
「……せめて金くらい置いとけよ」
大晦日の朝十時。 俺、成瀬陽夢は困り果てていた。 それもそう、現在この家には俺しかいない。 母親と妹二人は、母親の実家へ帰省中で、海外から戻ってきている父親はその足で実家へと向かうとの置き手紙があった。
本来なら、家に一人っきりというのはこの上なく幸せなことだ。 どれだけ騒いでも文句は言われず、思い思いの過ごし方ができるからな。 けどそれ以前に緊急事態だ。
俺は置き手紙をくしゃっと丸め、ゴミ箱に放り投げる。 無風プラス僅か一メートルの距離だったが、紙玉は外れ、床へと落ちた。 後で良いや。
「えーっと」
まずは日数計算。 母親たちは、三が日は実家で過ごすらしい。 つまり、今日を入れて四日間の間、俺は一人暮らしとなる。 四日間耐えれば勝ちというわけだ。
しかし……重大な問題が一つあるのだ。 というのも、その間の食事である。 冷蔵庫、空っぽ。 カップラーメン、ストックなし。 残金、千三百二十七円。 さて、どうしたものか。
「あ、そうだ」
なんだ、問題解決しちまったよ。 大晦日ならまだATMが動いてるはずじゃん。 やったね。
……そこまで思い、口座なんて持ってないことを思い出した。 特に金を使う予定がない所為で、妹に俺の貯金管理任せてるんだった。 俺から見ても客観的に見ても、妹に資産管理させるとか物凄いダメダメっぷりだな。
さて、そうなると問題はなんら解決していないことになる。 一応食べられそうな物を引っ張りだしてみたが……。
コーヒー豆、ザラメ、グラニュー糖、上白糖、粉砂糖、顆粒糖、黒糖、後は生クリームなどなど。
改めてこう並べてみて、どんだけ砂糖の種類が豊富なんだ俺の家は。 いやまぁ殆ど俺が買って俺が使っている物だけど。 この中で唯一食べられそうなのはコーヒー豆だが……ぽりぽりとコーヒー豆を食べる姿を想像したら、とてつもなく悲しくなったから却下だ。
はて、本格的にどうしよう。 外は雪が降っているし、積もった雪でも食ってみようかな。 なんて考えまでいったとき、家の電話が鳴り響く。
人が生命の危機に瀕しているときになんだよ。 それに大晦日の朝に電話をかけてくるとか絶対ろくでもない奴だ。
と思いつつも、俺は電話を取る。
「はいもしもし成瀬です」
『も、もしもひっ! わ、わわわ私ですぅ!』
「あー、詐欺なら間に合ってます」
言って、電話を切る。 ほらな、ろくでもない奴だった。 というか、詐欺初心者か。 噛み噛みだったぞ今の女。 もっと練習してからかけてこいっての。
……にしても、今流行りのオレオレ詐欺にも女バージョンがあるんだな。 詐欺は日々進化している、気をつけよう。 とは言ったものの、随分と若い声だったし他の仕事をすればいいのに。 将来を捨てるには早過ぎる年齢だった気がしたな。
そんな見ず知らずの他人の心配をしながら受話器を置こうとしたところ、再び電話が鳴り響く。 なんだ、近頃の詐欺はしつこかったりするのか。
「……もしもし」
ここは一肌脱いで、詐欺がいかに人の道を外れた行為なのか説いてやろう。 そう思い電話に出たのだが。
『いきなり切るってどういうことですかっ! 声からして成瀬ですよね!? クレアですっ!』
その先には、ぷりぷり怒っているであろうクレアの姿が容易に想像できて、どうやらこの調子だとさっきの詐欺犯はクレアだったらしい。
「なんだよクレアかよ……。 噛み噛みだったから全然分からなかった」
『べ、別に噛んでないですし。 それより成瀬、今日は暇ですか?』
いや噛んでただろどう聞いても。 そう言おうとして、止める。 クレアが話したいのはそういうことではなくて、今言った「今日は暇かどうか」といった質問の方だろう。
大晦日に暇も暇じゃないもないけどな。 一年の最後の日に「暇ですか?」と電話をしてくるのは、人としてどうだろうか。 中学のときは「一緒に年越ししようぜ」と言ってくれる友達は居たけど、俺が「特に用事はないけど家で過ごしたい」と言って以来、俺は誘われていない。 むしろ他のことでも誘われなくなった。 友達をなくす方法の一つ、下手な理由を付けずになんとなく誘いを断る。 を会得したのはあのときだったっけ。 どう考えても役に立ちそうにない特技だ。
それにまぁ、そんな友達がいたのも中学一年のときだけ。 あとの二年は、武臣以外には友達なんていなかった。 少し、嫌なことがあったから。
「暇だけど忙しい」
『暇なんですね。 なら、とりあえずは今から家に向かいます』
おいなんでだよ。 俺の遠回しな断りが伝わらなかったのかよ。 普通の神経なら今の言葉で察するだろ。 押しかけ女房かこいつ。 住み着いたら困るから施錠をしておこう。
「いやだから忙しいんだって」
主に、俺の食料危機で。 後四日間、どうやって難を凌ぐか考えなければならない。 死活問題だ。 この問題が解決しない限り、平穏は訪れないといっても良い。
『……そうなんですか?』
電話越しの声は、心なしか弱々しくなった気がした。 こう、なんつうか……そういう風な声を出されてしまうと、悪いことをしている気分になる。 これが噂の弱々しい乙女ボイスか……。 一瞬でもクレアのことを乙女と思ってしまった俺を殴りてぇ。
「……はぁ、分かったよ。 時間がないってわけじゃないから、良いよ」
そして結局は、押し切られる俺である。 まぁ、あれだ。 三人寄れば文殊の知恵とも言うし、妙案が出る可能性もある。 しかしクレアか……途中で野生動物とか狩って持って来ないだろうな? イノシシとかタヌキとか、片手で引きずりながら持って来そうで怖い。
『了解です!』
先ほどまでの元気のなさはなんなのか、もしかして俺って騙されてる? いきなり元気になったのも良く分からないし……女心と秋の空とか言うし、クレアも例に漏れずそんな感じなのだろう。
「よっす。 なんか着ぐるみみたいだな」
「会って第一声がそれですか……。 それより家から出る気皆無ですね」
それから、本当に俺の家を訪ねてきたクレア。 外が身に刺さるようなに寒さの所為なのか、ふかふかもふもふとした格好だ。 ちなみに血まみれの野生動物を引きずってくることはなかった。 一安心だ。
思いながら、俺はクレアの姿を見る。 まず、白色のニット帽だ。 間から出ている金髪に雪が積もっていることから、外が如何に過酷な環境なのかを理解する。
それに白い手袋。 当然のように毛みたいなのでふかふかだ。 ファーって言うんだっけか? それに加えてニットワンピと黒ブーツ。 さっきまではショートコートを着ていたが、既にそれは脱いでいる。 たかが俺の家に来るのにこの気合いの入れようは一体なんだ。 どんだけ寒いの外は。 下半身が寒そうなのは女子の特性かなんかなの。
ちなみに俺は上下スウェットという家着スタイル。 今日は絶対に家から一歩も出ない。 クレアがそう言ったのも、俺の格好を見てのことだ。
「まぁとりあえず上がれよ。 コーヒーくらいなら出せるから」
くらいと言ったが、他に出せるものは水くらいだ。 あ、一応砂糖水もいけるかな。 結構な種類の砂糖水出せるじゃん。 カブトムシと比べて異なる部分は足の本数と角がないことくらいだし、それでも良いんじゃないかと思えてきた。 そうでもないかな?
「分かりました。 では」
お邪魔しますと少し声量を大きくしてクレアは言うと、家の中へ入る。 そして玄関にある靴をしばし眺めたあと、硬直した。
「どうした?」
「あ……いえ。 あの、家族は?」
「ああ、言ってなかったっけ。 今は全員実家に帰ってて誰も居ないんだよ」
「帰ります」
「お前それ酷くねえか!? いきなり俺の家に来るって言ったと思ったら、今度は帰るかよ!?」
あれ、なんだ。 なんかすごいデジャヴを感じた。 その昔、似たようなことがあった気がする。 確か夏くらいに。
「……なら、お邪魔します」
そうだそうだ。 寒いから早く玄関扉を閉めて上がれ。 このままでは家の中まで冷えてしまう。
そんな一悶着を終えて、クレアは俺の家へと上がる。 脱いだ靴を丁寧に揃える辺り、意外にもしっかりしているのが伺えるな。
「それで、結局なんなんだよ? なんか用事あったか?」
「……用事がないと駄目ですか」
「ん? なんつった、今」
ごにょごにょと言うので良く聞こえない。 再度俺が聞き直すも、クレアはつんと顔を逸らしてしまう。
「なんでもないです。 それより暖かいものが飲みたいです」
「へいへい」
リビングに着くと、クレアはソファーへと腰をかけ、辺りをキョロキョロと見回す。 面白いものなんて一つもないのに、その表情はどこか楽しそうにも見えた。 ま、気持ちは分からなくもないけどな。 他人の家ってどうしてかこう……ワクワクしたりするもんだ。
「クレアのとこの喫茶店に比べたら美味しくないけど、ほら」
適当なカップにコーヒーを淹れ、クレアの前へ。 クレアはそれを持つと、ちびちびと飲み始めた。
それを見て、俺は一人分ほどの隙間を空けて腰をかける。 そして、尋ねた。
「それで、急にどうした? 老後の相談か?」
「えーっと、あの、実はですね、初詣に行こうと思いまして」
「やだよ」
「……まるで条件反射みたいな即答ですね」
そりゃそうだ。 このクソ寒い中、どうして外に出なければならない? それも真夜中という最大限寒さが強まったときにだ。 それで得られるものは人混みの鬱陶しさと疲労だけと来たもんだ。 誰が好き好んであんな場所に行くというのだ。 なんだか勿体振って言うので何事かと思ったが、そんなことかよ……。 つうか、俺はそれよりも「老後の相談か?」と言ったことに対してクレアの反応が皆無だったことについて聞きたいよ。
……聞いたら殴られそうだ。 やめておこう。 仕方ないので、俺は初詣のことについて話すことにした。
「良いかクレア、良く考えろ。 まず、初詣に行って何をする?」
「それは当然、お参りです。 新年の無事と平安を祈り、破魔矢を受け取って」
「駄目だな。 まずそれが駄目だ。 良いか、あれにはなんの効果もない。 初詣なんて外国には存在しないだろ? なのに、世界はうまく回っている。 つまり行かなくても問題は何一つないと言うことだ。 現に俺だって最後に行ったのはもう本当に小さい頃だけなんだ」
「それは分かりますけど……。 ですが、日本の大事な風習ではないですか?」
「あーあーあー、そういうのが駄目なんだよ。 風習だからなんだ? 行かないといけないのか? そうじゃないだろ? もしかしたら、この先百年後には初詣には行かないのが風習になっている可能性だってある。 要するに、俺は百年先を生きていると言っても良い。 未来を生きる男、成瀬陽夢ここにありだ」
「なんだか、成瀬って基本クソ野郎ですよね」
「……お前は基本口が悪いよな」
丁寧口調で言うから、余計ぐさっとくる。 そりゃもう西園寺さんがたまに言う「駄目だよ」くらいにはぐさっとくる。 このままじゃ俺の命が絶対持たない。
「まぁ、その代わりいざというときは頼りになりますけど。 うまく吊り合っているんですかねぇ」
「遠い目をして言うんじゃねえ」
でも、頼りになると言われたのはちょっと嬉しかった俺である。 問題は基本クソ野郎という誤解が定着している辺りだな。 定着というか固着か。 某接着剤よりもしっかりと固められていそうだ。
「もう、分かりましたよ。 初詣には一人で行きます」
「分かってくれて何よりだ」
よし、これでもう一日家に篭もることができるな。 初詣問題解決っと。
「あ」
「どうかしました?」
心なしか、クレアの言い方と表情が先ほどよりもキツくなっている気がする。 俺の家に入ってきたときは割りと機嫌が良さそうだったのに、相変わらずころころと表情や気分が変わる奴だ。
「いや、食料危機なのを思い出した」
「はぁ、食料危機……ですか?」
流れは流れ。 会話の流れで俺の身に起きていることを説明する。 家にある食べ物はコーヒー豆くらいだということと、手持ちの金は千三百二十七円ということと、三が日が終わるまで誰も家に帰ってこないということを。
「なるほど、それは深刻ですね。 頑張ってください。 それとですが、コーヒー豆は食べ物ではないですよ」
「え、今のってお前が何かしら助けてくれる場面じゃなかったのか……」
「初詣に行かない人に差し伸ばす手は持ち合わせておりません」
クレアの中でどれだけ初詣は重要行事なんだよ。 お前のそのルールの所為で、人が一人餓死するかもしれないんだぞ。
「良いじゃないですか、西園寺を頼れば。 きっと西園寺ならご飯を作ってくれますよ」
なんだか刺々しい言い方のクレア。 だが、その案は俺も一瞬考えたものだ。 しかし、それは実行不可能なんだよ。
「西園寺さんも実家帰省中だろ。 母親と一緒に」
「……そういえば、そうでしたね」
「それに、西園寺さんは料理が苦手だ。 寿命が縮まる」
「……意外ですね。 成瀬は得意なんですか?」
「ん? 俺は、まぁ……普通だよ、普通」
クレアは未だに、俺が菓子作りを趣味にしていることは知らない。 というか言えない。 こいつ馬鹿にしてきそうだし……。 西園寺さんにも一応口止めはしてあるが、その内バレそうで怯えている俺である。
とまぁ、それは置いといて。 というわけで、俺が頼れる人と言えば残されたのは柊木雀なのだが……生憎、俺は彼女と連絡を取り合う術を持ち合わせていない。 それに怖い。
「うーん……学校に行けばあいつには会えるだろうけど……」
一人呟き、外を見る。 先ほどから降り続けている雪は止む気配がなく、しんしんと積もり続けていた。
「今外に出たら死ぬな」
「絶対そこまで深刻じゃないですけどね。 ……っはあ」
流し目で俺のことを見て、クレアはため息。 ため息吐きたいのは俺の方もだけど、クレアに先を越されたので我慢しよう。
「仕方ないですね。 それなら、私がご飯を作りますです」
「マジか!? いやぁ、クレアから電話あって良かったよ。 天使だな、天使」
「手のひらの返しっぷりがウザいですね。 よし、そうと決まれば食材を買いに行きましょう」
「……だな」
そうだ。 結局、俺の家に何もないのは変わりないのだ。 変わったことと言えば白いもふもふ女が一人増えたくらいで、食材は何一つとしてない。 つまり、俺は外出しなければならない。 くそ、何か良い策は……。
「なぁクレア、俺は家で待ってるから……」
「……」
睨まれた。 思いっきり睨まれた。 ついでに眉がぴくっと動いていた。 次同じことを言ったら殴るぞオーラが出ていた。 俺は素直に従うことにした。 この間、約一秒。
「じゃ、じゃあ着替えてくるから待っててくれ」
「はい、分かりました」
こうして、大晦日の一日……俺は白いもふもふ女こと、クレアと過ごすことになったのだった。




