生きる上での目的は 【2】
「どういう意味だ。 俺は用事があるんだって」
「成瀬が言う「用事」ほど信用できない言葉はないですね……」
おい真顔で失礼なことを言うな。 お前に言われると結構傷付くんだぞ。 信用って言葉を全面的に否定したその格好をまず止めてから言え。
「マジだって。 妹に早く帰って来てねお兄ちゃんって言われてて」
「え? 妹居るんですか! 会ってみたいです! 成瀬の妹ですかぁ……顔怖いんですかね?」
……失敗したな。 ついつい見栄を張って可愛らしい妹が居るアピールをしてしまったが、実際居るのはガサツで乱暴で俺のことをゲームで言うところの村人くらいにしか思っていない鬼だ。 あんな奴を会わせるのは、さすがの俺でも気が引けるぞ。 しかしそれは置いといて、顔が怖いってなんだよ。 殴るぞお前。
「あーっと、そのだな……生まれつき病弱で、人と会えないんだよ。 だから」
「あ……それは、その……大変なんですね。 ごめんなさい、わがままを言ってしまって」
しゅんとなり、申し訳なさそうにクレアは言う。 素直にそう謝られると、悪いことなんて全くしていないのに悪いことをしている気分になってくるな……。 悪いことなんて全くしていないのに。
「あれ? 成瀬くんの妹さん、この前元気に走って学校に行っていたけど……」
やべえ。 そういや西園寺さんは俺の妹を見たことあるんだった。 というか、朝早くに来たときなんか外で雑談してるくらいだった。 すっかり忘れてた。
「……成瀬?」
「嘘に決まってるだろ。 俺を誰だと思ってるんだ」
「そこまで綺麗に開き直られると、最早何も言えませんね……」
呆れ顔で言うクレア。 俺もついに呆れられる人間になってしまったようだ。 最初からだった気は否めない。
「つか、真昼に早く帰って来いって言われてるのは本当なんだって。 だから俺は意地でも帰るぞ!」
「分かりました」
よし、分かってくれたか。 物分かりが鶏並みに悪いクレアでも、こうして理解が早いこともあるんだな。 感激だ。
「なら、その妹に連絡してください。 私が話します」
「……は?」
妹、連絡、私が話す。 繋がりが見えない。 なんの繋がりだ……? というか、こいつは一体何を言っている? 日本語、だよな。
「早くしてください。 携帯ないんでしたっけ? それなら、私のを貸します」
クレアは言うと、俺に携帯を差し出す。 可愛らしいピンク色のスマートフォンを。
「いや、待て待て! お前と真昼じゃ絶っ対に話が合うわけねえ! 確実に喧嘩になるから!」
そうだ。 我が道を行くタイプのクレアと、我が道を行くタイプの真昼だ。 相性は誰が見ても最悪で、そんな二人が話なんてしたらどうなるかは目に見えている。 絶対に、何がなんでもそれは駄目だ。
「西園寺」
「……成瀬くん、お願い!」
クレアの指示を受け、西園寺さんは両手を合わせて俺に頭を下げる。 いやいや、いくら西園寺さんの頼みであろうとそれだけは駄目だ。 てか、二人はいつからこんなに仲良くなったんだよ。
「よし分かった、西園寺さんの頼みなら」
と、考えとは全く真逆の言葉が口から出ている俺だった。 言っておくが、西園寺さんに頼まれて引き受けない男子はいない。 これだけは言える。 だから俺が変というわけではない。
「あっさり折れるとムカつきますね……。 まぁ良いです、早く番号を押してください。 そして私に託してください」
「……どうなっても知らないからな」
渋々、俺はクレアに番号を教える。 押して渡せと言われたが、操作方法が分からないので真昼の携帯番号を教えた形だ。 個人情報がどうとか言うが、あいつは馬鹿だからそんなの気にしないだろう。 あいつの電話番号なんて、聞かれたら即教える。 明らかな不審者にでも教えてやろう。 現に半分不審者のクレアにも教えてやるしな。
「どうもです。 そうしましたら、成瀬は外で待っていてください」
「え、なんで?」
「良いから早く」
……納得がいかん。 だが、どうやら今回は西園寺さんもクレア側だ。 一対一でも圧倒的に俺が不利だというのに、二体一になったら正直話にならない。 いきなりラスボスが二人に増えたようなものだ。 なので、俺は素直に大人しく部室から出る。 このまま帰ってやろうかな。
まぁ、そうは言っても結果は明白だ。 どうせ帰るなら、その結果を聞いてからでも良いだろう。
そして、数分後。
「オッケーです、話が付きました。 今日は良いみたいですよ」
部室の扉を開き、廊下で大人しく体育座りをしていた俺にクレアがそう言った。
「はぁ!? 嘘だろ!?」
「嘘じゃないです。 西園寺も聞いてましたよね?」
クレアは満足そうに笑うと、西園寺さんに顔を向ける。 すると、西園寺さんも「うん」と、笑って頷いた。
……あり得ないあり得ないあり得ない。 いくら西園寺さんの言うことでも、それだけはあり得ない。 だって、今日は。
「ほら、そうと決まれば行きますよ!」
しかし、頭を抱える俺を他所にクレアは歩き出す。 手には既に荷物を持っていて、どうやら行く気は満々らしい。 行き先は……カラオケか。
というか、一体何が起きた? どういう理由でどういう経緯でそうなった? 真昼が承諾するなんて、今日に限っては絶対にあり得ないはずなのに。 それこそ、真昼が「お兄ちゃん」と俺のことを呼ぶくらいあり得ない話だ。 ねえよ、絶対にねえ!
騙している……というのも、さすがに考えられないよな。 クレアだけならまだしも、西園寺さんがそれに加担するとは思えない。 ってことは、つまり。
そういうことに、なってしまうのか。
「それじゃあまたあとで。 ばいばい、成瀬くん、クレアちゃん」
「はい、分かりました」
下駄箱で外靴へ履き替え、傘を差して校門を出たところだった。 西園寺さんとクレアは何故かそんな挨拶をしたかと思うと、西園寺さんは自宅方向へと向かって行く。 対するクレアは、西園寺さんに手を振っていた。
なんだ、実はこのあとの予定とかありませんでしたーっていうドッキリか。 成瀬は妹との約束を破って酷い奴でーすってことか。 それドッキリじゃなくてイジメって言うからな、覚えとけ。 明日から学校行くのやめようかな……。
「なにボケっとしてるんですか。 行きますよ」
クレアは俺に向けて言うと、西園寺さんが歩いて行った方向へと体を向ける。 なんだ、西園寺さんの後をつけるのか? さすがの俺でもその行動の意味がまったく分からないぞ。
「西園寺さんを尾行してどうすんだ?」
そう思い、俺は聞く。 すると、クレアから返ってきたのは予想外の返事だった。
「……何を言っているんですか? 私たちが行くのはカラオケですよ、カラオケ」
「カラオケって駅前のだよな? 浜無駅の」
「ええ、勿論です」
……こいつ、もしや。
「なぁクレア、お前が行こうとしてる方向、西園寺さんの家方向だぞ。 駅は真逆だ」
「……し、知ってますよそのくらい! まったく」
あからさまに動揺し、あからさまに向きを百八十度変えるクレア。 そのあとを苦笑いしながら付いて行く俺。
クレアが重度の方向音痴だと、俺はこのとき理解した。
雨は降り続ける。 土砂降りのような雨は、止む気配はまったくない。 そんな雨の中、俺はクレアと並んで歩く。
「それで、どうして俺まで呼ばれたんだよ。 帰って良い?」
「良いわけないです。 歩き出して五分で帰宅を提案しないでください。 成瀬を呼んだのには……少し、事情があるからです」
なんだよ、良い提案だと思ったのに。 クレアの素っ気なさはあの人狼ゲームから変わらないが、ここまで冷たく拒否られるとさすがの俺でも心にダメージを負ってしまうぞ。 帰りたい病が出てる。 もうかなり。
「そりゃすいませんでした……って、おい?」
言いながら歩いていたところ、隣でクレアが足を止めた。 なんだ、やっぱりお前も帰りたくなったのか。 なんて思いつつ、クレアの次の行動を待つ。
「あそこ、知ってますか?」
「ん?」
クレアが指さした先にあったのは、テナント募集中という張り紙がされた巨大なビル。 この辺りでは飛び抜けてでかいビルだ。 確か昔はどこかの会社が使っていたみたいだが、立地条件の悪さなどから数年前から放置されているビルだ。 今となっては、夏休みに肝試し場と化している。
「屋上、凄いんですよ。 夜だと、星が凄いんです」
「へぇ」
「今度、行ってみてください。 この辺りは殆ど散策しましたが、あそこが一番好きです」
まぁ、行くことは多分ない。 星に興味がなければ、屋上なんて寒いだけだ。 よっぽどのことがない限り、俺が上ることはないだろう。 それこそ、上らなければ死ぬくらいのことがない限り。
「俺の気が物凄い向いたらな。 猫が空でも飛んだら行ってやるよ。 それよりなんか面白い話でもしてくれ」
「にゃ、ネコ……。 はぁ、面白い話……ですか」
「そうそう」
クレアは考え込む。 こいつの人生は知らないけれど、案外面白い話も聞けるかもしれない。 そんな期待を込めて、俺は聞いた。 アメリカ人はユーモアセンスがあるという勝手な思い込みもあった。
「あ、それなら「中学生のときに不良をボコった話」とかどうですか?」
「それを面白い話に分類してるお前が怖いな……」
絶対に流血描写があるじゃねえかそれ。 ていうか、まずお前が不良だと俺は言いたいよ。 転入してきて既に何回進路相談室へ連れて行かれているんだ、お前。
「ワガママですね。 それなら「柔道の教師を倒した話」はどうでしょう?」
「その暴力系から離れようか。 もっと他にないのかよ」
こいつに倒された柔道の教師、かわいそうだな……。 少しそれには興味があるが、その教師の名誉のためにも聞かないでおこう。
「うーん……。 あ! それなら「ナンパをされた話」とかどうでしょう!?」
「オチが最終的に暴力になりそうだから却下だ」
てか、こいつってナンパとかされるんだな。 顔立ち整っているし、それもそうか。 良く言えば西洋人形みたいで、悪く言えば人形みたいな悪魔だし。 ま、友達としてだとか性格を抜きにして見るこいつは、可愛い部類に入ると思う。 西園寺さんを「美人」だとすると、クレアは「可愛い」部類だろうな。 そこに成瀬陽夢視点を加えると「金髪悪魔クレアちゃん」って感じ。 笑いながら刃物で刺してきそうだ。
「注文が多いですね……レストランですか。 それならとっておきの「私に黒を付けたゴミ」の話とか」
「それ登場人物に俺が居るだろ。 やめろ」
つうかゴミとか言うなよ、泣くぞ。 泣くのは俺の得意技のひとつだからな。 真昼と喧嘩をしたときとか良く使う。 今後のことを考えると、クレアの前で泣く日もそう遠くはない。
「なんかムカついてきました。 そう言う成瀬はどうなんですか? 面白い話」
「俺か。 そうだな……」
なんかあったっけか。 面白い話、面白い話……。 ああ、そういえばひとつある。
「俺が猫に懐かれた話とかどうだ?」
「聞きたいですっ!!」
「うお……」
すげえ食い付きだ。 そんなに面白そうか? 猫に懐かれた話が。 まぁ、そこまで興味を持たれたら仕方ない。 俺も話すのがやぶさかではなくなってくる。
「んじゃ、話すか」
「はい!」
わくわく、といった風にクレアは俺のことを見る。 目がめっちゃ輝いているな……。
「……これは俺が中学生のときの話なんだけどな。 毎日通学路で使っている道に、捨て猫がいたんだ」
咳払いをひとつして、俺は話始める。 あの、猫の話を。
「は、はい。 捨て猫……」
横を歩くクレアは、手を貧相な胸の前へやり、祈りのポーズ。 少女趣味の大きなお友達が作れそうな図だな。
「で、当然そこで俺が取った選択は」
「助けたんですね!」
「いいや、見て見ぬ振りをした」
「死ねッ!!」
クレアはその場で一回転をし、同時に回し蹴りを放つ。 何やら嫌な予感がしていた俺はギリギリで反応し、その攻撃を顔寸前で回避した。
「あ、あぶねえなお前! 今の当たってたら確実に意識飛んでたぞ!?」
「ニャン……猫の恨みです」
こいつ今、ニャンコって言おうとしなかったか。 気のせいか。 まぁそれはともかく、スカートで回し蹴りはやめた方が良いと俺は思う。 おかげで何かが見えてしまった。 言ったら今度こそ意識を刈り取られそうなので、心の内に秘めておこう。 イメージ通りの白だった。
「だって仕方ないだろ? うちじゃあ知識もないから面倒なんて見れないだろうし、そんなんで中途半端に飼ったって、猫にとっちゃ良い迷惑だろ。 俺よりも、ちゃんと世話をできる奴が拾った方が幸せなんだよ」
「……そうかもしれないですけど」
事実だし、真実だ。 知識がないというのは嘘じゃない。 本やネットで学べるような知識ではなく、経験することで得られる知識が俺にはない。 そして、それ以上の理由が責任を持てないから。 面倒を見る責任ではなく、そのペットが死期を迎えたときの責任だ。
ずるずると引きずってしまうのもそうだし、胸にぽっかりと穴が空いたような気分になるのが嫌なんだ。 俺は多分、ペットを飼うのに向いていない。 そんなことを小学生のときに、学んだ。
「でも、一応は毎日見てたよ。 帰っても特にすることなかったしな。 友達も武臣だけだったから」
「サラッと悲しいことを言わないでくださいよ……。 それで、どうなったんですか?」
その後、俺は毎日の帰りに数十分間を猫のために使った。 まるで漫画か何かのように子猫はダンボールに入れられていて、その前に座り込み、話しかけたりもしていたと思う。
「通報されなかったんですか? その顔で猫に話しかけていたって、相当ヤバイ人ですよ」
「聞く気ないなら話すのやめるぞ……」
茶々を入れてくるクレアを窘め、俺は続ける。
それからは、一日の楽しみだったりもした。 人並みには俺も猫が好きだったし、俺にも素直に懐いてくる猫が可愛く思えたんだ。 幸いにも丁度梅雨明けの季節で、道端に放置された子猫が雨に降られることもなかった。
綺麗な銀色の毛を持つ猫で、多分猫業界では美人の部類だったと思う。 猫業界にそんな概念があるのかは分からないけどな。 それでも、人間の俺から見ても綺麗な顔立ちだった。 まぁよく「にゃーにゃー」と鳴き声をあげる猫だったよ。
一応は人並みの優しさは俺も持っているから、特に使うことのなかったお金で餌を買っていったりもした。 その所為で付いてこられるかもとは思ったが、体の小さいそいつはそれが出来なくて、毎日しっかりそこで待っていたんだ。
俺以外にも、その猫に気付いていた人は居たと思う。 小さな玩具だとかが、たまに置いてあったから。
「世の中には、私のように優しい人もいるんですね」
「俺のことか?」
「はぁ?」
うわ、そんな目で見るんじゃねえよ。 可愛い部類の外見でそんな目をされると、自分がすごく嫌な奴に思えてくるぞ……。 全然そんなことはないのに。 俺は良い奴なのに。 ちなみにこれは嘘だけどな。
「一応首にリボンとか付けてあげたんだぞ……で、まぁ。 そうやって日課になりつつあったんだ。 けど、それも長くは続かなかった」
一年三百六十五日、俺が猫を見てきた日のように晴れてるわけなんてない。 人が毎日違う気持ちを感じるように、鳥が毎日違う場所を飛ぶように、世界が少しずつ動いているように。 天気も、変わっていく。
簡単に言えば、大雨だった。 ここしばらくの快晴が嘘のような、大荒れの天気だ。 警報なんかも発令されて、俺は教室の窓からずっと外を眺めていた。
……あの日も確か、今日みたいな天気だったっけか。 夕立のような土砂降りが、延々と続いていて。
そんな雨の中、授業終了のチャイムと同時に、俺は教室を出た。 柄にもなく走って、いつもの場所へと向かった。 誰か親切な人が傘を置いてくれているかもしれない。 雨が当たらない場所に移してくれたかもしれない。 そんな当てもないことを考えながら、俺は猫のもとへと走った。
「結果から言えば、会えなかったよ。 その日が別れの日だったんだ。 別れの言葉もなにもない、つまらない別れ方だったけど」
「……そうですか。 けど、その子猫は今でも感謝していると思いますよ。 成瀬に」
「どうだかな」
クレアは、その猫が生きているという前提で話をしている。 その前提自体が誤りかもしれないのに。
恐らく真実は、見かねた誰かが保健所かどこかに連絡したのだろう。 俺以外に見ていた奴が拾っていったとも考えられるけど、しばらくの間拾わなかったのだ、そこまでうまくは行っていないと思う。
「成瀬はなんだかネガティブ思考ですよね。 良い方向に思い込むのはタダじゃないですか。 ポジティブが一番ですよ」
「お前を見てると良く分かるよ、それ」
「失礼なことを言われた気がしますね……。 ですけど、今日のこのカラオケだってポジティブに考えれば良いじゃないですか。 妹との約束が後回しにされた、という考えよりも……予定がぎっしりで楽しいな、くらいに考えるんです」
「また無理矢理だなおい。 俺はカラオケ好きじゃないんだって」
「私は好きですよ! 前は月に四回は行ってました! 毎週日曜日に!」
なんで月単位で言うんだよ。 一週間に一回で良いだろそれ。 約分しろ約分。
「それって、友達と?」
「いいえ、一人です」
ああそう。 多分最初は友達と一緒だったが、こいつの高すぎるカラオケ頻度に付いて行けなくなったのだろう。 そうして気付けば、一人でカラオケに行くクレア。
……うわ、なんだかこれ真実すぎてやばいだろ。 一気にクレアから哀愁が漂い始めた。
「あぁ……無性に帰りたくなってきた。 話をしてたら疲れたわ」
「西園寺が怒ってましたよ。 成瀬くんはすぐに帰ろうとするから殺してやりたいって」
「それ若干お前の願望が入ってるからな。 ったく」
そうは言うも、いつの間にか目的地であるカラオケ店へと到着。 ここまで来たなら仕方ない、今日はどうやら付き合うしかなさそうだ。 そして、雨は気付けば止んでいた。 灰色の雲の間から、陽が差し込んでいる。
店に入ると、クレアは何故か店員に向かい「西園寺の連れです」と言っていた。 すると店員はクレアと俺に部屋番号を教えて、クレアは会釈しその部屋へと向かって歩き出す。
なんだ? 西園寺さんはこのカラオケ店のVIPだったりするのか。 なんか嫌な情報だなこれ……。 カラオケ店でVIPって、あまり自慢できることじゃない気がする。
そんな馬鹿な考えも、部屋の扉を開けたことによって霧散していく。 目の前にあった光景は、俺がこれっぽっちも考えていないことだったんだ。
部屋に居たのは、家に帰ったはずの西園寺さん。 テーブルの上には、手作り感満載のケーキ。
「成瀬くん、誕生日おめでとう」
驚いて横を見ると、クレアは満足そうに笑っている。 これは、やられた。
それ自体は知っていた。 十月の十五日、俺は今日この日、誕生日だということは知っている。 だから、真昼が祝いたいと言っていて、そのためにも早く家へと帰りたかったんだ。
……クレアの奴はきっと、真昼にこのことを話したのだろう。 あいつは馬鹿だけど、人当たりはわりと良い。 真昼が折れるには充分な理由だ。
しっかし、それにしても。 まさか、西園寺さんが俺の誕生日を覚えていたなんて思いもしなかった。 言ったのは一回切りだし、当然忘れられているものだとばかり思っていた。
「あーっと……なんだ、その、なんて言うか。 とりあえずは、ありがとう」
「ふふ。 ほらぁ、だから言ったじゃないですか。 ポジティブに考えましょうって」
「……うっせ」
まぁ、たまにはそんな風に考えるのも良いかもしれないか。
「えへへ、それじゃあケーキ食べよ。 ちょっと甘いかもしれないんだけど」
「問題ないです! 私甘いの大好きですっ! というわけで成瀬、早く切り分けてください」
「俺が切るのかよ……」
普通、俺の誕生日を祝ってくれているんだから他の人が切るんじゃないのか。 別に嫌だとは言わないけどさ。
そんな雑用をこなしながら、俺はふと思う。
生きる上での目的は。
死ぬことも、そのうちのひとつかもしれない。 最終的には誰もがそこへ辿り着く。 一生の終わりに辿り着く場所だ。
けれど、こうやって一年一年を噛み締めて、生きているというのを実感するのもまた、目的なのだ。
俺にもいつか、夢というやつが見つかるのを夢に見て。 今日はとりあえず、二人に感謝をしておこう。
それから。
それから、俺たち三人は思う存分遊んだ。 西園寺さんが歌って、クレアが歌って、俺が曲を入れて。 西園寺さんが歌って、クレアが歌って、俺がドリンクバーで飲み物入れてきてな。 確実に主賓の扱いじゃないんだけど、もうどうでもいいや。
そんな騒がしい光景が、俺は案外気に入っているのだ。 これからきっと、寒さは厳しくなっていく。 後半月もすれば、十一月だ。 しかし今年の冬は、暖かい冬になるかもしれない。
「……生きていると良いな、あの猫」
「成瀬くん、何か言った?」
「いいや、なんでもない」
その年の誕生日ケーキは、少し甘かった。




