七月十八日【6】
この世界には、様々なルールがある。
小さな遊びで、当人同士で決め合うルール。
自分自身に課す、守るためのルール。
法律という、法の下に定められたルール。
西園寺さんと俺が取り決めた、約束という名のルール。
他にも沢山のルールがある。 それらを守り、そのルールに則った上で俺たちは生きている。 どんな物事にもそのルールが定められており、原則的には絶対に破られないルールだ。
そう、原則的に。
この物事を進める上でのルールってやつには大きな穴があるんだ。 簡単に抜け出せる必勝の穴が。
それは、ルールを破るということ。 遊びならズルをして勝てば良い。 自分自身に課しているならそれをなくせば良い。 法律なら犯罪を犯せば良い。 俺と西園寺さんの約束の場合は……その場合は、どうだろう。 今の俺ではそのルールを破るつもりもなければ、約束を破るつもりもないから、それに関しては今の段階では分からない。
けれどまぁ、どちらかが約束を破れば、それはルールを破るということになる。 簡単な話だ。
しかし、俺は知らなかった。 この世界に、破れないルールが存在するだなんて。
「挨拶。 こんばんは」
目の前に居る番傘の男が、俺たちに課したルール。 繰り返す世界を脱出するために試行錯誤するという、絶対のルール。 それはどうあがいても破ることができず、そのルールそのものこそが、俺たち二人の目的でもあるのだ。
俺はそれを知ったとき、この世界に来たとき。
心底、面白いと思った。 そんなルールがあるのなら、そんな知らないことがあるのなら、延々に付き合ってやっても良いと思うほどに。 けど、今は。
「こんばんは……って成瀬くん!! この人今、すっごくいきなり出てきたよ!?」
「でも一応挨拶はするんだ……」
それを変えてくれたのが、西園寺さん。 俺だけが閉じ込められていたと思い込んでいたループ世界に居た、もう一人の被害者。 そしてこの時間の檻を作り上げてしまった本人だ。
彼女のおかげで、俺は気付けた。 人の暖かさも、真っ直ぐな想いも、真剣な悩みも。 俺はそんなのを持っていなくて、彼女にはそれが沢山あって。 だから俺は多分、西園寺さんのことをもっと知りたかったのだろう。 西園寺夢花という少女は、知れば知るほどに世界が無限にも広がっていくような、そんな感覚を与えてくれる人だったんだ。
「回答。 お見事です。 その手紙の問題の件は正解となります」
男は番傘を持ったまま、頭を下げる。 顔には前に会ったとき同様、口元が割れた狐の面。 そして俺はこの一瞬、正直言ってほっとした。 もしも不正解だった場合、本当に最悪のパターンになっていただろうから。
「あの、あなたは?」
横で西園寺さんが言う。 ああ、そう言えば西園寺さんは初めて会うんだっけか。
「回答。 あなたたちをループさせている者」
「……成瀬くんが言ってた人だね。 今分かったよ」
今分かったの!? 俺めっちゃ丁寧に姿とか容姿とか喋り方とか言ったのに!? 本人に聞いて今分かったのか!?
「質問。 成瀬陽夢。 あなたはどうして西園寺夢花に事情を話したのですか?」
俺が西園寺さんに何かツッコミを入れようかと思ったところで、番傘の男から声がかかる。 どうして事情を話したか、か。
「気が向いただけ……って言っても納得しないんだろうな。 俺が持ってない物を西園寺さんは持っていて、それとまぁ、俺も半分詰んでるって思ってたから、投げやりになってたってのもあるかもしれない」
「……諦めちゃ駄目だよ? 成瀬くん」
横で俺の顔を覗き込みながら、西園寺さんは言う。 そうだな、もうそれは分かっていることだよ。
「返答。 なるほど。 私としては充分納得が出来る答えです。 さて」
言い、男は依然として傘を持ったまま、俺たちに向けて淡々と言う。 まるで感情が込められていない声で。
「祝辞。 おめでとうございます。 目の前にある物だけが真実ではありません。 様々な角度から物を見て判断することが大事なのです。 成瀬陽夢さまと西園寺夢花さま。 あなた達はやはり、見ていて飽きない」
「えへへ」
「照れるなよ」
褒められた……と言えるのかは分からないが、照れる西園寺さん。 得体の知れない男を目の前にしているというのに、いつも通りの西園寺さんである。
ん? 男? 今、俺たちの目の前に居るのは男……だよな? だとしたら変じゃないか? だって、西園寺さんは確か。
「西園寺さん、平気なのか?」
そう思い、俺は尋ねる。 しかし当の本人は。
「え? 何が?」
……なんつうか、このひと言余計に言わないと駄目な感じが本当に西園寺さんだな。 結構疲れる。
「いやだから、西園寺さんって男が怖いんだろ? なのに、今は平気そうだから」
「あれ? そういえば……わたし、普通にお話できてる!!」
驚く西園寺さん。 俺も一緒に驚いた。 それは西園寺さんが今それに気付いたという事実に対して。
「でも、なんでだろ?」
首を傾げる西園寺さんに答えを教えたのは、番傘の男。 淡々とこいつはこう言ったのだ。
「回答。 これは私の仮の姿。 私に性別は存在しないのです」
あー、そういえば前に会ったときも、そのようなことを言っていたっけ。 だから西園寺さんは平気なのか。 てか、そう言われると本当の姿ってのがどんなものか気になってくるよ。
「……話を戻すぞ。 それで、俺たちは八月を迎えられるのか?」
しかし、さすがに場違いすぎるそんな好奇心は飲み込む。 俺は西園寺さんではないのだ。 呑気にそんなどうでも良い話に花を咲かせている場合ではない。
そんな俺がしたのは根本的な質問。 そして、最重要な質問でもある。 この男の返答次第では、俺と西園寺さんは再び考えなければならない。 それは同時に全てのやり直しも意味する。
「回答」
男は言って、続ける。
その瞬間は、とても長いものだった。 ひょっとしたら俺が過ごした十一回の七月よりも、西園寺さんが経験してきた三十八回の七月よりも長く、永遠にも感じられる瞬間。
そのひと言で、俺と西園寺さんはどれだけ救われただろうか。
「迎えられます。 おめでとうございます」
俺も西園寺さんもしばらく何も言えずに、その余韻に浸っていた。
「終わったんだ」
最初に口を開いたのは、西園寺さんだった。 その声は少し震えている。
「……やった。 終わったんだ、終わったんだ成瀬くん。 わたしたち、八月に行けるんだ!!」
「ああ……そうだな。 終わったんだ」
俺も多分、声色は西園寺さんと同じもの。 これが案外、自分では分からないものなんだ。
つうか……本当に、終わったのか? こんな簡単に、全てが終わったのか? いや、簡単ではなかった……か。 俺は一年近く、西園寺さんは三年と少しの間、この世界に閉じ込められていたのだから。
「発言。 残されたのは課題。 鍵の使い方。 つまり」
「課題その壱。 ループ世界を脱出しましょう。 あなたたちがこの世界を抜け出せることが決まったのはいつでしょうか?」
「……え? それって、今じゃないの?」
西園寺さんの言葉に、番傘の男は笑う。 さぞ面白そうに。 愉快そうに。 狐の面から少しだけ見える口元に笑みを浮かべて。
「発言。 回答は七月三十一日に。 それではまた」
そして、番傘の男は消える。 一方的に跡形もなく。
「どういう、こと?」
「深くは考えない方が良いかもしれない。 今はとりあえず、西園寺さんが死ぬことがなくなったってのが……嬉しくて」
本心だ。 その最悪のパターンが消えただけで、俺にはもう嬉しさが込み上げてきている。 それを態度に表せばそれはもう万歳三唱するレベルだが、いきなりそんなことをしたらただの不審者だから、我慢我慢。
「でも、でもだよ成瀬くん。 その課題に答えないと、終わらないってことだよね? 八月にならないってことだよね? そんなの、あまりにも……」
「大丈夫だ」
俺の中ではもう、答えは出ている。 それも二つ、正解と不正解が明確に分かっている答えが。
「正解は、今。 さっき西園寺さんが言ったように、今日のあの瞬間だ」
俺が西園寺さんに真実を話して、西園寺さんが俺に秘密を打ち明けて、西園寺さんが母親の死を乗り越えようと頑張って。 それで、その最後の問題に答えた瞬間だ。 そうやって全てを頑張って乗り越えたその瞬間が、明確な「ループを脱出した瞬間」かと思われる。
「……それなら、どうしてあの人はわざわざそれを最後の日まで待つようにしたの? その意味って」
そうだ。 それが明らかに不自然で、妙なんだ。 答えが分かりきっている問題を先延ばしにする理由、それは。
「俺と西園寺さんが、答えを変える可能性」
「……え?」
俺の言葉に、西園寺さんは怪訝な顔をする。 かなり珍しい表情だ。 それほど、俺の言った言葉の意味が分からないのだろう。
「……何か理由があって、俺たちが答えを変える可能性だよ。 それで」
俺は、その不正解を選ぼうとしていた。 それを今この場で言うことはできない。
「……そうだ。 西園寺さん、三十一日って暇?」
「うん、暇だけど……どうして?」
そう言って、西園寺さんは首を傾げる。 その仕草と夕日に照らされた顔は、なんだかとても色っぽく見えてしまい、ついつい俺は西園寺さんから顔を逸らした。 そして、続ける。
「あーっと、三十一日って夏祭りあるだろ? 神社の方で。 それ一緒にどうかなって思ったんだけど」
うーむ、こうやって女子を誘うというのは生まれて初めてだ。 かなり恥ずかしいもので、かなり緊張するものなんだな。 というか、これって断られた場合はどうするんだろう……? 逃げるのか? 走って逃げれば良いのか?
よし。 そう思い、立ち上がる。 西園寺さんに「ごめんなさい」されたときのために、すぐに走って逃げられるように。
「本当に!? わたし、お祭りに行ったことがないんだよね! この前の花火大会も、あそこまで近くで見たのも実は初めてで……それで」
西園寺さんは言葉に詰まる。 それは言葉が足らない所為ではなく、言葉が溢れ出てきている所為で。 嬉しそうに次の言葉を出そうと頑張っている西園寺さんを見てそう思う。 てか、そうだと良いな。 ここでもしも俺の立場的なアレを意識して懸命に言葉を出していたのだとしたら、もう俺立ち直れないかも。
「とにかく! とにかくわたし行きたいよ! 成瀬くんと一緒にお祭り!!」
手を掴んで、顔を近づけて、西園寺さんは言う。 というかやっぱちけえよ!? マジでどうして恥ずかしくないの!? そうやって大きな声で「行きたい!」と言ってくれるのは一向に構わないけど、俺の恥ずかしさというやつも考えてくれ頼むから!
「あ、ああ分かった。 なら行こう、祭り」
「えへへ、うんっ」
こうして、俺と西園寺さんは三十一日に祭りに行くことになった。 その日までは本当にあっという間で、気付いたらその日がやって来ていて、俺は約束通りに午後の六時、学校の裏門で西園寺さんのことを待っていた。
「お待たせ、成瀬くん」
「……浴衣かぁ。 やっぱ西園寺さんって、そういうの似合うよなぁ」
「えへへ、そうかな? ありがとうございます」
さてと。
いよいよ、この話も大詰めだ。




