七月十八日【4】
それから西園寺さんの家へと帰っていく俺たち。 しかし、家へ着いたときには既に西園寺さんの母親が帰って来ていたこともあり、結局のところは菓子作りを中断することになってしまった。
西園寺母はそのことをとても気にしている様子ではあったが、俺がなんとか説得して落ち着いたようである。 親子揃ってなんで俺が話をしないといけないんだと思いつつな。
「……成瀬くん、今日は本当にありがとう」
母親が居る前では作れないとのことで、今はこうして西園寺家の玄関で話をしている。 その理由は気になるものの、俺は聞けない。 自分が隠しごとをしているという後ろめたさから。
「いや、良いって。 なんか、ぐだぐだで申し訳ないよ、逆に」
「ううん、良いの。 また次の七月でお願いしようと思うから」
言って、西園寺さんは笑う。 その顔は夕日に照らされていて、とても綺麗に輝いている。
……次の七月、か。 西園寺さんが望んでいる次の七月、それはもう。
「西園寺さん、これ貸しておくよ」
俺は嫌な方にいきそうになった思考を止めて、鞄の中から一冊のノートを取り出す。 表題は「料理本」だ。
「これって……」
「誰にも言わないでくれよ? 俺の趣味で、菓子とか料理の作り方とかコツをまとめてるんだ。 んで、今日はそれ見ながら一緒に作ろうって思ってたんだけどできなかったから……それ、貸しておく」
「わ……わ、すごい。 成瀬くん、字綺麗なんだね」
ぱらぱらとそのノートをめくりながら、西園寺さんは言う。 着目するべきところはそこなのか。 もっと「まとめるの上手いね」とか「コツが分かりやすいね」とか、そっちを褒めて欲しいんだけど……。 いやでも、字が綺麗と褒められたのは嬉しいけどな。
「わたしね、すっごい嬉しい。 大切にするね」
「……そこまで大事な物じゃないから別に良いって」
俺がそう素っ気なく言うと、西園寺さんは俺の手を握る。 いつものように、両手で俺の片手を包むように。
「大事な物だよ! だって、成瀬くんが知っている知識がここには書いてあるんでしょ? それで、成瀬くんはその知識を大切にしているんだから……これは、大事な物だよ」
迷いなく、西園寺さんは俺の顔を見て言う。 これは西園寺さんと半月ほど一緒に行動をして気付いたことなのだが、西園寺さんは人と話すときはじっと目を見つめてくるのだ。 俺もその行動をすることはあるが……それは「相手に嘘を吐き辛くさせる」という、理由あっての行動。 それに比べて西園寺さんのはきっと「真剣に気持ちを伝える」と言ったところだろうか? そんで、毎回根負けするのは俺の方だ。
「それは、なんというか……ありがとうございます?」
恥ずかしさから、目を逸らしながら俺は返す。 今の一度も、この勝負では勝てたことがない。
「えへへ。 どういたしまして」
俺の言葉に納得したのか、西園寺さんはにっこりと笑った。 夕日に照らされたその笑顔は、いつものよりも綺麗に見えてしまう。 気のせいだとは思うけども。
「それじゃ、また明日」
そう言って、手を軽く上げて西園寺さんに別れの挨拶。 夏休みは目前に控えているということもあり、そろそろ俺も決断しなければならないな。 決めることを決めなければならない。 そんな時期はとっくに来ているんだ。
「うん、また明日」
そして、俺は歩き出す。
さて。
……とは言ったけど、どうしたものか。 未だに俺は何も決められずにいる。 このループを脱出する方法も思い付かなければ、あの番傘の男の件だってそうだ。 西園寺さんにそのことについてはまったく話せずにいるし……。 当然、西園寺さんが死ぬかもしれないということだって、話せていない。
落ち着こう。 とりあえずは状況整理。 何をするにしても、まずは状況を把握することから。
俺が考える一番良いパターン。 最善のパターンだ。 それはもう言う必要もなく、西園寺さんが死なずに、そしてその母親が病気に倒れることがないまま、八月を迎えること。 それを達成することが今回の七月での最終目標となるだろう。
そして、最悪のパターン。 それは俺が七月を繰り返す世界のまま、西園寺さんが死ぬというパターンだ。 当初はまた七月一日に戻れば西園寺さんも生きている世界になるのではと思ったが、その考えはあまりにも安直すぎるし、楽観的すぎる。 よって排除。
今俺が考えているパターンはその二つのみ。 成功すればそれはもう最高だが、失敗した場合は……俺はもう、全てを諦めてしまうだろう。 少ない時間ではあったが、俺の予想以上に西園寺夢花という存在は、俺の中で大きなものになっている所為で。
……誤算だなぁ。 本当に誤算だ。 西園寺さんがもう少しトゲトゲしている人ならば、こうはならなかったかもしれないのに。 西園寺さんと知り合えたことは良いことではあったけど、ここまで考えさせられることになるとは思いも寄らなかった。
「結構涼しいな」
薄暗くなり始めている住宅街を歩きながら、ふと呟く。 夏にしては冷たい風が気持ち良く、いつもよりも考えに没頭できる環境だ。 俺は一度深呼吸をして、再び思考。
やはり、西園寺さんには話すべきだったか? 俺が出された問題とその内容を。 けど、それを話したところでどうなる? 何かが変わるのか? 余計に西園寺さんを悩ませるだけではないのか?
いくら考えても、その答えは出ない。 俺一人のつまらない考え方では、その答えが出ることはないだろう。 思えば今回の七月、西園寺さんには案外助けられていたよ。 西園寺さんの持っている物は、俺にとってはとても大切な物なんだ。 その点で言えば、あんな落書き帳みたいなノートなんかよりもよっぽど。
そんな西園寺さんが生きて、悲しまないで八月を迎えられる方法。
……やはり駄目だ。 必ずどちらかが死んでしまう。 最早それは、逃れられないことでもあるかもしれない。
「馬鹿か俺は」
馬鹿だ。 ついこの前は、西園寺さんに「母親は諦めろ」と同じようなことを言っていた癖に、何を今更悩んでいるんだ。 俺が取るべき行動はきっと、西園寺さんを説得することなんだ。 そのくらいはもう、とっくに分かっている。 百も承知だ。
けど、だけども。 それは絶対に、西園寺さんを悲しませることになる。 西園寺さんは自分を殺してでも、母親を生きさせるという道を選ぶはずだ。 少なくとも俺が知っている西園寺さんなら、そうなるはず。
ここまで考えて、俺に選べる道は二つ。
一つは西園寺さんに全てを黙ったまま、西園寺さんを生かすべく、あの『手紙』の問いに対して「イエス」と答えること。 そうすれば無事に八月を迎えられ、西園寺さんは死なずに済む。
もう一つは西園寺さんに全てを話し、一緒に何か策はないかと考える道。 しかし、恐らくこっちを選べば最悪のパターンになるのは必須だ。 一言で言ってしまえば、愚策にもほどがある。
だから、俺は。
「……成瀬くんっ!」
そんなときだった。 先程別れたばかりの西園寺さんが、俺の背中に声をかけてきた。
「西園寺さん?」
振り返って見ると、肩で息をしながら額には汗を浮かべている西園寺さんの姿。 涼しい日ではあるけど、そりゃ走ればそうなるだろう。
「成瀬くん、成瀬くん。 あのね、わたし、言わなきゃいけないことがあるの」
「……」
なんだろうか? 西園寺さんから俺に言わなきゃいけないこと……もしや。
「わたしが、今日成瀬くんとお菓子を作りたかった理由。 お母さんが居ると、作れない理由」
「……聞くよ。 けど立って話すのもあれだから、あっち行こうか」
どういう風の吹き回しかは分からないが、聞いておいて損な話ではなさそうかな。
俺はそう結論を出して、近くにあった公園を指さす。 時間も時間なので、人気はない。
「あのね」
俺と西園寺さんは公園にあったベンチに並んで座る。 ついでに近くにあった自動販売機で飲み物を買ったのだが、俺はコーラで西園寺さんはミネラルウォーター。 その選択肢はさすがに珍しいなと思いつつ、西園寺さんの次の言葉を俺は待っていた。
「わたし、わがままを言いました」
そのミネラルウォーターを握る手は少しだけ、震えている。 さっき武臣に会ったときのように怖がっているのか、それとも俺が怒るとでも思っているのか。
……まぁ、その理由を聞かずにはなんとも言えないけど。
「ワガママ?」
「……うん、わがまま。 本当は、別に今日じゃなくても大丈夫だったの。 今日じゃないと駄目な理由はないの」
と、言うと……どういうことだ? 俺が考えるに、西園寺さんには何かしらの事情があって、それが理由で「今日」と言っていたものだとばかり思っていたが……その理由がないとは、一体どういうことだろう?
「あの、あのね。 ただわたしは、お菓子を作りたかっただけなんだ。 成瀬くんと一緒に、少しでも一緒に居たかった」
それを聞いて、俺は一瞬だけヒヤッとする。 もしや、あの番傘の男が西園寺さんにも『手紙』を渡したのではないかと。 だから西園寺さんは、自分に残されている時間を知っていて。
しかし、すぐに頭の中で否定。 西園寺さんが言っている言葉はきっと、違う意味だ。
「……別に、まだ時間は沢山あるじゃんか。 今回の七月が終わっても、次の七月があるんだし」
だから俺は試すように言ってみた。 本当はそんな物は存在しないのに、今回の七月で全てが終わるのに、嘘を吐く。
「そうじゃないよ。 違うんだ。 わたしは……成瀬くんと居るときは、大丈夫だから」
「俺と居るときは? てか、大丈夫って一体何が?」
さすがにその意味が咀嚼できずに、俺は尋ねる。 俺と居るときは大丈夫で……ってことはつまり、俺と居ないときは大丈夫じゃないってことだよな?
「……成瀬くん、わたしの秘密、聞いてくれますか?」
いつになく真剣に俺の顔を見る西園寺さん。 そんな彼女の想いを拒絶することなんて俺はできずに、頷いた。
そして、西園寺さんの口から語られたのは、過酷なもの。
「……男性恐怖症?」
「うん。 わたし、それなの。 なんでそうなったのかも、いつからなのかも、どうして怖いのかも分からない。 男の人が怖くて怖くて、話しかけられるだけで、体の震えが止まらなくなっちゃう」
だからか。 納得がいった。 さっきのスーパーで武臣のことを怖がっていたのは、尋常じゃないくらいに怯えていたのはそれが原因か。
……やっぱり駄目だな。 人のことに関してだけは、うまく頭が働かない。 しっかりそれに気付いてあげられれば良かったのに。
「友達を作らなかったのも、それが本当の理由?」
「……うん」
うまく噛み合っていなかった歯車が、ようやく噛み合ったようなそんな感じだ。 西園寺さんが必死に隠していたものと、その不自然さから抱いた俺の違和感が、まるで綺麗さっぱりと、洗い流されたかのように消えていく。
「それで、俺と居るときは大丈夫ってのは?」
「分からないの。 他の人だと駄目なのに、成瀬くんだけは大丈夫なんだ。 震えもでないし、こんなに近くに居ても全然平気。 それどころか、安心できるんだ」
そう言ってもらえるのは大変ありがたいことだけど……勘違いしてしまいそうな台詞だな。 相手が俺で良かったと思うよ心底。
「そっか」
「……成瀬くん、これは謝っても良いかな? 嘘を吐いていて、成瀬くんのことをずっと騙していて」
それを聞くのかよ。 西園寺さんはどこまで優しいのだろうか、どこまで純粋なのだろうか。 俺にはもう、それが全然分からない。 西園寺さんがその罪の意識を持って、持ち続けていたこと。 一体それはどれほどのものだったのだろう? これだけ真っ直ぐに想える人が、嘘を吐き続けていて。
それがどれだけ西園寺さんを苦しめていたのだろうか?
「いや、謝らなくて良いよ。 それに西園寺さん、俺と西園寺さんは、友達だ」
俺は前を見ながら言う。 西園寺さんの顔を見ることはできなかったから。 今の俺には、隠すことをせずに正々堂々と言ってくれた西園寺さんの顔を見ることができないし、その資格もきっとない。
「……友達」
「ああそうだ。 それにこれだけは言っておくけど……別に、俺に嘘を吐いたって構わないよ。 いくら仲が良くてもさ、いくら分かり合えていたとしてもさ、本当のことを話さないといけないなんてルールは、この世界にはないだろ」
それはときに言い訳だったり、誤魔化しだったり、嘘だったり。 人ってそうやって、うまいことやっていってるんじゃないかな。
「でも、成瀬くん。 わたしの吐いた嘘は……成瀬くんのことを騙していたんだよ。 わたしは沢山、沢山嘘を吐いたの。 いくら友達だからって……それは」
許されないことだ。 西園寺さんはそう言いたいのだろう。 だったら俺はこう返そう。
「俺だって同じくらい嘘を吐いているって。 西園寺さんに対して。 俺はそのときに冗談だって言ってるけど」
「違うよ。 成瀬くんのそれは違うんだ。 わたしのとは、全然違う」
西園寺さんは言いながら、ミネラルウォーターを握りしめる手に力を入れる。 震えはさっきよりも気持ち、弱まっていた。
「なら、こうしよう」
ここまで言って納得しないなら、仕方ない。 俺が西園寺さんに吐いている大きな嘘を言うとしよう。 この七月が今回で終わってしまうという、真実を。
そろそろ俺も決めなければならないしな。 機会としては、タイミングとしては丁度良い。 それに、西園寺さんがそれで納得してくれるのなら是非もない。
……なんて、俺も結局自分を騙しているのかな。 本当はただ、こんなにも真っ直ぐに生きている人に、助けてもらいたかったのかもしれない。 俺一人では答えが出そうにないこの問題から。 逃げずに立ち向かった西園寺さんの強さに、惹かれたのかもな。
「西園寺さん、大事な話があるんだ。 聞いてくれるか?」
さっきの仕返しと言わんばかりに、俺は告白じみた感じで西園寺さんに向けて言う。
「大事なお話……なんだろ?」
しかし当の本人はまったくそれを理解していないようで、これだと仕返しの意味が全然ないって。
「きっと、俺がこれを言ったら西園寺さんは悩むと思う。 苦しむと思う。 辛くなると思う」
「それでも、聞いてくれるか?」
俺が、本当に心配していること。
それは西園寺さんが生きるか死ぬか、西園寺さんの母親が生きるか死ぬか、俺と西園寺さんが七月を脱出できるかできないか。
そんなことでは、なかったのかもしれない。
俺が本当に心配していること、それは。
「うん。 わたしは大丈夫だよ、成瀬くん」
俺とは真反対のような性格のこの一人の少女に、傷ついてもらいたくなかっただけなのだろう。
だって、西園寺さんは俺の右手を掴みながら、笑ってそう言ったのだから。




