七月十八日【3】
「成瀬くん、今日の晩御飯はどうしよっか?」
「んー、そうだな。 今日は暑いし、冷やし中華とかどうかな」
「うん、良いね! それじゃあ、今日の夜ご飯は冷やし中華にします。 えへへ」
何をやらされているのかと言えば、夫婦ごっこである。 マジで何をやらせているんだ西園寺さん。 誰か助けて。 この歳にして夫婦ごっこをするとは思わなかったよさすがに。 しかも西園寺さん嬉しそうだしな……俺は恥ずかしいだけなんだけど。
「あ、成瀬くん。 おつまみとかいりますか?」
「なんか一気に熟年夫婦っぽくなったな……。 てか、呼び方は「成瀬くん」のままなのか」
別にそれはどっちでも良かったんだけど、どうせなら徹底的にやってみたい。 そんな思いから、俺は尋ねてみた。
「やっぱり変かな? だったら、わたしは名前で呼んでみるから、成瀬くんも名前で呼んでみて。 良い?」
良い? いや良くないよ? けど残念ながら、俺はそれを断る術を持ち合わせていない。 早いところ、対西園寺さんの接し方を会得しなければならないな。 でないと命の危機だ。 毎度冷静に解釈しているけど、俺の心臓はいつだって破裂しそうなのだ。
「……一回だけな。 んじゃあ」
俺が言うと、西園寺さんはにっこり笑って口を開く。 俺もそれに合わせ、言ってみた。
「……陽夢くん」
「……夢花さん」
なんだこれ!? すげえ恥ずかしいよ!? 無理だよこれ、続けるの不可能だよ!? やっぱりこうなるじゃねえかアホ! もうヤダ!
「え、えへへ……なんかちょっと恥ずかしいから、やっぱり成瀬くん」
「それじゃあ俺も西園寺さんだな。 やっぱりこれが一番しっくり来る……」
一ヶ月足らずだが、慣れというのは恐ろしいものだ。 俺も西園寺さんも、すっかり苗字で呼び合うのに慣れてしまっている。 けど、どうしてか……きっとこれは俺の勘違いなのだけど、西園寺さんの名前を呼んだとき、少しだけそっちの方が呼びやすいかもしれない、だなんて思った。
「た、卵だね。 卵を買わないと」
ああ、そうだった。 すっかりその本来の目的を忘れていたよ。 折角スーパーで買い物をするんだから何か新しいことをやってみよう。 という西園寺さんの意味がまったく分からない提案で、危うく忘れるところだった。
「お、これ結構安いな」
卵が置いてある場所へとやって来た俺たちは、品定め。 まず俺が手に取ったのは、ワンパック十個入りで九十九円。 特売価格だ。
「……そんなに沢山使うかな?」
「……使わないな」
西園寺家ではどうやら、西園寺母が卵アレルギーということもあり、卵を使った料理は出ないらしい。 稀に出ることもあるとのことだが、そのときは母親とメニューが変わるので、西園寺さん自身が嫌がっているとのこと。 なのでまぁ、十個入りを買っても余らせてしまうだけなのだ。
「お。 成瀬くん成瀬くん、この卵美味しそうだよ」
「あー、それか。 それは確かに結構美味しいよね。 弁当にミートボールと一緒に串で刺さってたりするよね。 うずらの卵」
気を付けないと俺まで西園寺さんの世界に飲み込まれるな。 西園寺さんの頭の中では既に「クッキーを作るための卵」ではなく「美味しそうな卵」探しになりかけているから恐ろしくて仕方がない。
「……えへへ。 冗談冗談。 これはどうかな?」
絶対に冗談ではないような顔をしているけど? なんてことを思いながら俺は西園寺さんが手に取った卵を見る。
「赤卵か」
「赤いのって美味しいんだよね。 わたし、こっちの卵の方が好きなんだ」
「……西園寺さん、一つ良いことを教えてあげる」
きらきらとした目で卵を見ている西園寺さんの横顔に、俺は一つの非情な事実をぶつけてみる。 教訓として活かしてくれるのなら、結構結構。
「白卵と赤卵って、別に味に違いはないんだよ」
「……えぇ!?」
「卵を産んだ鶏の色で大体が決まるから。 だから別に栄養が高いってわけでもない」
「そうなのっ!?」
西園寺さん、驚愕である。 目を見開いて、かじりつくように俺の顔を見ている。 まるで俺が変な顔をしているみたいだから、ちょっとやめて欲しい。
「でも、でもね成瀬くん。 それなら赤い方が高いのはなんでなの? 味も栄養も一緒なら、白い卵より赤い卵の方が高いのはなんで?」
西園寺さんは頭の上にクエスチョンマークを浮かべる勢いで俺との距離を詰めながら尋ねてくる。 そこまでがっつかなくても、しっかり理由はあるんだから落ち着いて欲しい。
「生産コストと生産量の違いだよ。 白卵よりも赤卵の方が作るのに労力がかかって大変なんだ。 それも些細なものだけど」
「へぇぇええ……。 でも、いくら作るのが大変って言っても中身は同じなんだよね? それなら、ただ作るのが少しだけ大変で、色が違うってだけで高いの?」
西園寺さんは言いながら、白卵と赤卵のパックを持ち、見比べる。 疑問に満ちた顔だな。 今の西園寺さんは歩く質問量産人だ。
「いや、理由はもう一つある」
俺は言い、その西園寺さんが持っていた赤卵のパックを取る。 西園寺さんはそんな俺を見て再び口を開いた。
「……なんだろ?」
「簡単だよ。 西園寺さん自身も、さっき言ってたじゃん」
「え? わたしが?」
腕組みをして、悩む西園寺さん。 無意識というか、そういうのだと信じ込んでいたならば仕方ないか。
「赤卵の方が美味しい。 好きだって思い込んでいたよね、西園寺さん」
「え? あ、うん。 それは……あっ!」
どうやら、その様子だと西園寺さんは気付いたか。 普通は俺が話した部分まででは理解できないと思うんだけどな。 その辺りはやはり、頭が良い。
「そう。 そう思い込んでいたんだ。 だからみんな買うんだよ。 味も栄養も大して変わらないってのに、その事実を知らないから」
迷信とも言える。 もしくは……呪いか。 そういう噂がどこかで立ち、みんながそう思い込み、そう感じているのだ。 本来ならば何も変わらなく、色だけが違うそれに差を生み出しているのだ。 それは他の誰でもない、自分自身が。
「なるほど……。 都市伝説、みたいな感じかな」
そうだな。 そう例えるのが一番近いかもしれない。
「けどま、買った人が納得してるなら良いんじゃないかな。 騙されているってことに気付いていないなら。 問題はやっぱり本人が納得するかどうかだろうしさ」
「……なのかな? そういうのはやっぱり、わたしは駄目だって思うけど。 それだと真実に気付いた人はつまらない思いをすることになるよ」
真面目だなぁ……と、つくづく思う。 西園寺さんがその都市伝説に対してそう思うなら、俺はこう思う。 西園寺さんとは真逆のことだ。
「そうか? 俺は面白いって思うけどな」
「……成瀬くん?」
なんだ? どうして西園寺さんは、少し怯えたような目をしているんだろうか。
それが少し気になったものの、俺は続ける。
「だってそうだろ? 知らない奴が馬鹿を見て、知ってる奴は特をする。 こんなにも分かりやすいルールなんてそうそうない。 どれだけ些細なことでも、くだらないことでも、知っているってのはそういうことだろ? すげえ面白いじゃん、それって」
そうだ。 この世界は知っている奴が上に行けるようにできているんだ。 そして知らない奴はいつまで経っても下を見ることしかできない。 上を知らずに生きていて、下だけしか知らないのだから。 世界はそういう風にできているんだ。 それが絶対のルールとも言える。
しかし、そんな俺に言葉をぶつけるのは西園寺さんだ。
「わたしは、わたしは……違うと思うよ。 知らないってことは、知ることができるってことにもなるんじゃないかな?」
それってきっと、素敵なことだと思うよ。 そう、西園寺さんは言って俺の顔を見る。 その真っ直ぐな瞳と真剣な表情を見る限り、本心からの言葉だろう。
「西園寺さん」
本気でそう思っているのなら、西園寺さんは一生上を見ることはできない。 西園寺さんは下しか知らないんだな。 そんなことを言おうとしたときだった。
「成瀬っちじゃん! 何してんのこんなところで……は!? 西園寺!?」
……俺が一番鬱陶しいと思う奴が来やがった。 しかも、タイミングとしては最悪かこれ。 周りから見たら普通にカップルが夕飯を選んでいる光景じゃないか。
「ひっ」
大きな声に驚いたのか、西園寺さんは俺の後ろに隠れる。 そしてそれを見て、落胆するのは武臣だ。
「……お前らいつからそんな仲良くなったんだよぉ!? つうか成瀬っちひどくない!? ずるくないっ!?」
俺の胸倉を掴み、前後にぶんぶんと振りながら武臣は言う。 というか止めろ、西園寺さんがすごく怯えているぞ。
「落ち着け落ち着けっ!! 別に仲良くってわけじゃない!! たまたま一緒のスーパーで会ったから、話してただけだっ!!」
「……本当かぁ?」
言いながら、武臣は俺の後ろに隠れている西園寺さんの方を見る。 対する西園寺さんは武臣がよほど苦手なのか、俺の服を掴んで顔を背中に埋めている。
「めちゃくちゃ仲良いじゃん!?」
「それは勘違いだって!!」
つうか西園寺さんも西園寺さんでビビリすぎだろ!? 確かに何十回も七月一日に絡まれていたら怖くなるのは仕方ないかもしれないが……それにしては、少々怖がりすぎなような気もする。
「……西園寺ー。 俺のこと知ってるー? 野田武臣だけどー?」
「や、やめてくださいっ! 近づかないでくださいっ!!」
ぶるぶると震え、西園寺さんは俺を引っ張りながら後退。
「……おいお前、西園寺さんに何したんだよ。 尋常じゃないくらい怖がってるぞ」
「いやいや何もしてないよ!? てか成瀬っちの方こそ何かしたんじゃないの!? 俺の根も葉もない悪口を吹き込んだとか……」
馬鹿か。 そんな無駄なことをして何になるんだ。 別に西園寺さんの中で武臣の評価が落ちようと上がろうと、俺にとってはどうでも良いことだ。 俺だって別に、西園寺さんのことを特別意識しているわけではないし、特別仲が良いってわけでもないしな。
「……」
そんな会話をしている最中にも、西園寺さんは依然として俺の後ろでぶるぶると震えている。 やっぱりネコよりウサギか……?
「……まぁ怖がられてるなら仕方ないかぁ。 今度何かしらの形で埋め合わせな成瀬っち!! 分かったな!?」
「その意味はまったく分からないけど、分かったよ……。 それでお前が消えてくれるなら、それで良いや」
「マジで、成瀬っちいつか天罰当たるからな……覚えとけよ……」
と、そんな呪詛を吐きながら武臣はトボトボと歩いて行く。 俺から言わせれば、今まさにその天罰の真っ最中とも言える状況なんですけどね。
「おーい、西園寺さん? 大丈夫?」
未だに俺の背中を掴んでいる西園寺さんに向けて聞くと、西園寺さんはパッと顔をあげた。 なんだか、若干青ざめた顔にも見えるが……大丈夫か? いきなり具合が悪くなった、とか。
「あ、う、うん。 ありがとう、成瀬くん」
「いや、別に俺は何もしてないけど……」
敢えて言うなら、西園寺さんが勝手に俺の背中に隠れただけである。 というか、西園寺さんはもっと社交的な人だと思ってたんだが……そうでもないのか? あるいは、本当に武臣が西園寺さんに対して何かをやらかしたか。
「……西園寺さん、武臣に何かやられたのか?」
「え? う、ううん。 そんなことはないよ。 野田くんは、良い人だと思うよ?」
ふむ……。 西園寺さん的に解釈すると「野田くんは良い人だけどストーカーみたいで怖い」ということか……?
「それより成瀬くんっ! ほら、卵買って帰ろう?」
「ん、あー。 そうだな」
なんだかしっくり来ない解釈だが……横でさっきまでみたいに笑っている西園寺さんを見たら、そんな考えもいつの間にか霧のように消えていたのだった。