七月十八日【2】
「え!? ゆで卵じゃ駄目なの!?」
「いやそりゃそうでしょ……」
とりあえずは一旦状況を整理し、リビングにあるテーブルを挟んで俺と西園寺さんは座っている。 そしてクッキー作りにはゆで卵を使わないということを説明したときの反応がこれである。 むしろどうやってゆで卵を使うつもりだったんだよ。 ポテトサラダでも作るつもりか。 クッキーですよクッキー。 俺たちが今日作ろうって話していたのはクッキーですよ西園寺さーん。
「まず、どうしてゆで卵を買ったんだ……?」
聞くのは動機。 まずはこれを聞かなければ何も始まらない。 ひょっとしたら、俺が納得できるだけの動機が隠されているのかもしれないからな。
「……それはね、えっと。 茹でられていた方が、茹でる手間が省けるからだよ?」
なるほど。 確かに予め茹でられている卵を買えば、生卵を茹でる過程が省けるな。 それには同意しておこう。 けどね、けどね西園寺さん。
「そもそも、クッキー作りにゆで卵を使う行程はないからね……?」
「……そうなんだっ!?」
むしろどう使う予定だったんだ。 そっちの方が俺は気になるぞ。 茹でるのか? クッキーを茹でるのか? つうか前に一回作っていたよな!? ゆで卵をどうやって使ったんだ!? そっちの方が気になるよ俺!
「待って、西園寺さんってもしかして……料理下手?」
「そ、そ、そ、そんなことはないよ?」
あるんだな。 そんなことはあるんだな。 嘘を吐きづらい性格って辛いな。 前に一人で作ったときに炭にしたと言っていたし、可能性は考えていたけどな。
「……いやもう良いや。 それを買っちゃったのは仕方ないし。 それで、生卵は?」
「えっと……ないです」
しゅんとなりながら、西園寺さんは答える。 確実に俺は悪くないのに、やはり襲ってくるのは罪悪感だ。 西園寺さんって案外恐ろしい生き物なのかもしれない。
「……じゃあまぁ、今日は止めておこうか。 生卵がないなら、クッキーも作れないしさ」
言いながら、俺は立ち上がる。 目的を失ったのならこの家に居ても迷惑だろうとの考えから。
しかし、そんな俺を見て西園寺さんは慌てて立ち上がり、言った。
「待って! 今日……今日じゃないと、駄目なの。 お願い、成瀬くん」
……どうやら、少々ワケありのようである。
「で、理由は話せないけど今日じゃないと駄目ってことか」
それから俺は西園寺さんに理由などを尋ねたのだが、一切答えられないとのこと。 ただ菓子作りをしたいだけなんじゃないかとも思ったが、この西園寺さんがそんな自分勝手な理由で行動するとは思えないな……。
「……うん」
申し訳なさそうに、西園寺さんは俯く。 そんな姿を見て、俺は自分のことを棚に上げているかもしれないと、そう思った。 あの日、俺に問題を突きつけてきた番傘の男のことだって、未だに何も話せずにいるのだから。
そんな意識からか、それとも違う何かか、気付けば俺は再び椅子から立ち上がっていた。
「……えへへ。 やっぱ、理由も言えないんじゃ駄目だよね」
俺が帰るとでも思ったのか、笑って西園寺さんは言う。 まったく……本当に西園寺さんと話していると、罪悪感がどんどんと蓄積されていくぞ。
「何言ってるんだよ。 買いに行くんじゃないのか? 卵」
その言葉に、西園寺さんはパッと顔をあげた。 驚きとも、呆然とも見えるその表情はどこかおかしい。
「い、いいの? 成瀬くん」
「別に良いって。 時間はあるし、俺だって家に帰ったって暇だから。 それと……人のことはあんま言えないしさ、俺も」
「……えへへ、ありがとうございます、成瀬くん」
最後の言葉の意味は、きっと西園寺さんには分からなかっただろう。 いつか伝えないといけないことだとは思うのだが、いざ言おうとしてみると、なんて言葉にして伝えれば良いのかがさっぱり分からないんだ。 俺が西園寺さんだったとして、どう伝えられるのが一番良いのか……それすらもまた、分からない。
「成瀬くんって、優しいよね。 それに頼りにもなるかも。 えへへ」
俺を見て、俺の顔を見て、西園寺さんは言う。 そんな言葉に俺は返事をすることも、目を合わせることもできなかった。
違うんだ。 違うんだよ、西園寺さん。 俺は優しいわけでも、頼りになるわけでもないんだ。 ただただ、臆病なだけなんだよ。
しかし、彼女は笑う。 俺を優しいと、頼りになるとそう言って。 そんな彼女に俺はやっぱり罪悪感を感じるのだった。
「おっかいもの、おっかいもの。 わったしが手に取る夕飯メニュー。 きょーうのごーはんは奮発しーましょ」
エコバッグを持ち、歌を歌いながら歩く西園寺さんと、その横を歩く俺。 前々から気になっていたことを聞いてみようかな。
「西園寺さん、ちょっと良い?」
「はーい。 なんだろ?」
にっこり笑顔を俺に向ける西園寺さんに向け、俺は尋ねた。 もしかしたら触れてはいけない部分なのかもしれないそれに。
「西園寺さんの歌って、毎回食べ物が必ず絡んでるよね」
「……そうかな?」
えーっと、最初はおにぎりだろ? 次にお菓子で、最後が今のだ。 見事に食べ物だらけじゃないか。
「うんそうだよ」
「……気のせい気のせいっ!」
顔を赤くして、その顔の前で両手をぶんぶん振って否定する西園寺さん。 素直に可愛い生き物だと思う。
「へえ……」
「……食いしん坊さんだと思ってるでしょ、成瀬くん」
「いやいや全然」
適当に流したところ、西園寺さんは俺のことをポカポカと叩き始める。 叩くと言うよりかはじゃれるといった感じで。 やっぱり猫だな。
「絶対思ってる! 今、成瀬くんそんな顔してるもん!」
ぷりぷりと怒る西園寺さん。 怒るというよりかは、恥ずかしさから来ているそれだろう。 照れ隠しってやつだ。
「いてて……。 あ、やべ。 骨折れたかも」
それに対して、定番的な冗談を言う俺なのだが。
「え、えぇ!? ほんとに!? 大丈夫!?」
それが通じない西園寺さん。 そこはさすがに分かって欲しいぞ。
「冗談だって。 今ので骨が折れるって俺どんだけ貧弱なんだ」
「そ、そっか……良かったぁ」
言いつつ、胸に手を当て心底ほっとした顔をする。 また一つ、罪悪感が蓄積されたな。 俺一回死んだ方が良いんじゃねってくらい蓄積されているが、このままではマジでどうなることやら。
「ところで西園寺さん。 財布は持ってきた?」
「えへへ、大丈夫大丈夫。 ほら!」
ここまで定番的な天然キャラである西園寺さんだとその可能性があったので、俺は念のために確認。 すると西園寺さんは何故か自信たっぷりでエコバッグの中から財布を取り出した。
「おお、さすが」
可愛らしいクマがプリントされている。 小学生か……? いやそれよりも、この財布どこかで見たような。
「あ! 思い出した!」
そうだそうだ。 その財布はあれだ。 俺の妹が持っている物と同じだ。 幼稚園児と高校生の財布が一緒だ。 言わない方が良い事実かこれ。
「可愛い財布だなぁ」
「えへへ、そうでしょ?」
「うん。 とても良く似合ってるよ」
「ありがとうございます。 えへへ」
「どういたしまして。 あはは」
うむ、実に良い空気である。 ただ純粋な西園寺さんと、ただ捻くれた俺がそこに居るだけだ。
「あ、見えてきたよ。 あそこがいつもわたしが行っているスーパーなんだ。 成瀬くん」
西園寺さんが指さす先には地元のスーパー。 というか、俺もたまに利用する場所じゃないか。 まぁ、俺と西園寺さんの家から丁度中間くらいの場所だから、不思議ではないか。
「えっと、生卵を三つだよね?」
「そ。 クッキーって結構卵で決まるから、良いのが欲しいかな」
「それじゃあ……卵は成瀬くんにお任せします!」
なんと、任せられてしまった。 別に俺は卵の目利きができるわけじゃないぞ? なのに良いのか? それになんか引っかかるな。
俺が言ったのは「良いのが欲しいね」という提案だ。 そして、それを聞いた西園寺さんは「成瀬くんに任せます」という依頼をした。 そこがまず、おかしい。
西園寺さんの発言は、まるで俺が卵の目利きができることを前提としているから。 俺の言動からではそんなのを把握するのは不可能かと思われるのに。 だったらどうなるか……ここで考えられるのは二つだ。
一つは、西園寺さんが俺は本当に卵の目利きができるのでは。 と、勘違いしている可能性。
これについては否定できる。 理由はいくら西園寺さんと言えど、俺の言った言葉の意味は理解できたはずだ。 西園寺さんは馬鹿だけど、学校での成績は良いので、その使い方が間違っているというだけ。 つまり頭の良い天然だ。 そんな西園寺さんこの程度、理解できないわけがないのだ。 だから、ありえるとしたらもう片方。 それは。
西園寺さんが、俺の方が卵を間違わずに買うことができると感じた可能性。
前者と似たような理由だが、その真意はまったく違う。 前者は勘違いというある意味で知らないとも言えるもの。 だが、後者はその言葉の意味を理解している……要するに、知っているのだ。 俺がどこまで卵について分かっているのか、西園寺さんが知っている状況。 なのになぜ、西園寺さんは俺に卵を選ばせようとするのか。 答えは簡単。
「西園寺さん、ひょっとしてさっきのゆで卵って、生卵と間違えて買ったの……?」
「あ、え、いや、えっと、それ、それはね。 あ、あはは。 えへへ」
これまでにない焦り方である。 目は泳ぎまくっているし、言い訳を考えながら手を動かしている所為で、なんだか踊りみたいになっているぞ。 頑張れ西園寺さん、俺は西園寺さんのすばらしい言い訳に期待しよう!
「な、生卵を買ったよ? 本当だよ?」
「いやそれならどうしてあれはゆで卵だったの!?」
「あ、んと……」
……実は、最近西園寺さんをちょっといじるのが楽しみだったりもする。 反応を見ていると癒されるからな。
「な、成瀬くんがこっそり茹でた……とか?」
「俺の所為にするのか!?」
ビックリだよ俺。 そりゃまぁ西園寺さんが「赤」を「青」といえば、俺は全力で支持したいけどな。 西園寺さんに悲しい顔をしてもらいたくない一心で。 言わば奴隷根性ってやつで。 もうそれは仕方のないことなんだ。 一度でも西園寺さんの笑顔をまともに見た俺からすれば、守りたいという本能的な何かが訴えているんだ。 世の中の男なんてそんなものだろ。
「だ、駄目かな?」
恐る恐るといった感じで西園寺さんは言う。 あ、これ無理なパターンだ。
「いや、多分俺が茹でたと思う」
「ほんとに茹でてたのっ!?」
「めっちゃ茹でてた。 多分」
「いつの間にっ!?」
そんな馬鹿な会話をしながら、俺と西園寺さんはスーパーの中へと入る。 ちなみに最後には西園寺さんが「成瀬くん許してっ!」と、若干涙目になりながら俺の体にしがみついてくるのだった。