七月十八日【1】
「お邪魔しまーす」
「どーぞ。 えへへ」
それからまた数日が過ぎ、今日は七月の十八日。 この前交わした約束通りに、俺は西園寺さんの家へと菓子を作りにやって来ている。
「そう言えばね、成瀬くん」
靴を脱ぎ、その脱いだ靴を揃えている最中に西園寺さんが口を開いた。 ちょっとだけ嬉しそうな顔と、そんな感情がこもっているような声で。
「今日、お母さん出かけていて家に居ないんだ」
「帰る」
聞いてないぞ!? 俺はそんなことは聞いていない!! なんで女の子の家で二人っきりで仲良く菓子作りをしないといけないんだ!? というか、そういう重要なことはあらかじめ言っておけ!! 超重要なことじゃねえか!!
「待って! どうしたの成瀬くん!? 帰らないで!!」
揃えた靴を履き始める俺の肩を掴み、西園寺さんは必死に引き止める。 健気ではあるが、さっきのこともある所為で無性に意識してしまう。
「と、とりあえずくっつくの止めてくれ!! 危ないからっ!!」
「あ、そ、そうだよね! 怪我したら大変だよね!」
言って、俺から離れる西園寺さん。 正直に言うと違う意味での「危ない」だったが、そういうことにしておくか。 わざわざ説明するのは絶対に嫌だし。
……それにしても、西園寺さんは俺が知る限りでは香水を付けていないと思うのに、なんだかやけに良い匂いがする。 まるでお風呂に入った直後のような。 そう思って改めて見ると、なんだか髪も少し濡れているようにも思えるが……。
「……成瀬くん、帰っちゃうの?」
そういうことなのか!? そういう意味なのか西園寺さん!?
あ、ああ、ああいや、落ち着け落ち着け落ち着け俺。 まだそうと決めるのには早い。 まずは落ち着いて、状況を整理だ。 えっと、西園寺さんの家へと俺はやって来ていて、西園寺さんの母親は外出中。 よって、今この家には俺と西園寺さんのみ。 そしてなぜか、西園寺さんはお風呂に入ってたらしい。 つまり……どういうことだ!? マズくないかこの状況!?
「……成瀬くん?」
そう言う西園寺さんの顔を見た瞬間、俺は無理だと悟った。 いやだって、胸に両手を置くポーズに加えて上目遣いときたんだから。 顔は可愛い西園寺さんにこれをやられてしまったら、冷たい対応をするのは不可能である。
「……分かった分かった帰らない。 悪かったよ、帰るとか言って」
「えへへ、やったやった」
……喜んでくれてなによりだ。 俺は一刻も早く帰りたい一心だよ。 けど、無邪気に喜ぶ西園寺さんを見たおかげで幾分落ち着けた……と思う。 よし、大丈夫だ俺。
「それより、西園寺さんって風呂にでも入っていたの?」
その落ち着いたおかげもあり、俺は聞くことができた。 その返答次第によっては、再び落ち着けない状態へとなるんだけどな。
「あ、えっとね。 さっきお庭のお花に水をあげてるときに転んじゃって……」
なるほどそうですか。 ちょっとだけ、本当にちょっとだけ期待してしまった俺を殴りてぇなぁおい。
「それじゃあ成瀬くん、どうぞ」
言いながら、西園寺さんはスリッパを取り出し、俺の元へと置く。 別にその行動自体は良いと思う。 客人が来たときの対応としては、模範的だ。 けど、そのスリッパがウサギってどういうことだ。 ふっかふかだぞこのスリッパ。 結構履き心地良いし今度買おうかな……じゃない。 危うくウサギさんスリッパの魅力に取り込まれるところだった。 案外恐ろしい場所だな、西園寺家。
「可愛いよね、ウサギさん」
そして西園寺さんは猫のスリッパ。 それがとても良く似合っているよ。 西園寺さんは猫のように人懐っこい部分もあるから余計に。 そうだとすると、俺がウサギなのは……寂しがり屋なのか俺。
「できれば普通のが良かったかな」
「むー。 似合ってるのに」
西園寺さんとしては褒めているつもりなのだろう。 でも、そう言われて喜ぶ男子はきっと居ない。
「ちなみにね、お母さんはライオンさんだよ。 また可愛いんだぁ」
「へえ……」
……にしても、それで思い出したが、西園寺さんの母親って結構若いように見えたけど一体何歳なのだろうか。 俺と西園寺さんが十五歳……ああ、西園寺さんはもう十六歳か。 そう考えると最低でも三十二歳か? いやそれにしては若すぎるような。 もしや俺たちより若くして身ごもってしまったとか。
「あ、成瀬くん成瀬くん。 今成瀬くんが何を考えているか当ててあげようか。 えへへ」
マジか!? マジでそんな芸当ができるのか!? だとするとやべえ、俺今結構洒落にならないことを考えていたんだけど。 今の内に謝った方が良いのか? 頭を下げた方が良いのか?
「へ、へえ……。 聞いておこうかな」
俺がそんな西園寺さんの発言に冷や汗を垂らしながら返すと、すぐさま西園寺さんは口を開く。
「えーっとね、成瀬くんは……」
「俺は……?」
「早くわたしとお菓子作りたいなーって、思ってます!」
思ってません微塵も。 良かった、馬鹿で。
……ああいや、今のは失言だな。 訂正しよう。 正しくは「良かった、西園寺さんはやっぱり西園寺さんだった」だ。 今日も西園寺さんは元気に西園寺さんしていて微笑ましい限りである。
「うん、大体合ってるよ」
「ほんと? 良かった、わたしと一緒のこと思ってくれてたんだ」
どうにも……どうにも西園寺さんと話していると、罪悪感的な何かがどんどん蓄積されていく。 今までの分を合わせると、床に額を擦り付けても足らないくらいになってるんじゃなかろうか。
いつか何かしらの形で詫びておくとするか。 それもまぁ、今俺が取り組んでいる問題の糸口が掴めたらの話だけども。
「おーかしおかしーふんふーん。 クッキーケーキーまーかろんっ」
「……機嫌良いなぁ」
上機嫌で菓子作りの準備をしている西園寺さん。 前に自作の歌を意図せず披露したときとは違って、今はこうして俺の前でお構いなしに歌い始めることが多い。 歌声はかなり綺麗だし歌唱力もかなりあると思うから良いんだけど、作詞のほうはもうちょっと頑張れと思わなくもない。
「はい、じゃあこれ材料だね。 まずは……強力粉だよ」
「強力粉……!」
マジかよ……! 二回目のマジかよだよ……! 今日ってクッキーだったよな? 確か。 それで強力粉とは。
「……もしかして、違った?」
不安そうに尋ねる西園寺さんに、俺は答える。 なるほど、こうやって罪悪感が蓄積されていくのか。
「ま、まぁ、普通なら薄力粉かな。 強力粉でもできないってことはないから、大丈夫大丈夫」
うん、大丈夫大丈夫。 多分。
「良かったぁ……」
胸に右手を当てて、西園寺さんは息を吐く。 そこまでほっとしたのか? なんだかそれが妙な感じだが、別に良いか。
「それで、俺が知っている西園寺さんだと、ここで卵を買い忘れていたってことになると思うんだけど、どうかな」
「むー、ひどいなぁ、成瀬くんは。 しっかり買いましたよっ!」
頬を膨らませて言って、西園寺さんは冷蔵庫へと駆けていく。 そして扉を開き、仕舞ってあった卵を三つ取り出した。 俺に向けている顔は少々自慢げで、にっこり笑顔。
「……おぉ」
「えへへ」
得意げな顔をし、卵を三つ持ったまま俺の方へと戻ってき、西園寺さんは滑った。
ん? あまりにも自然な流れで分からなかったか? 仕方ない、もう一度言おう。 西園寺さんは冷蔵庫から卵を取り出して俺の方へと戻ってきて滑った。 どうだ、分かったか。
……じゃねえ!? そんな冷静に考えてる場合じゃねえ!! あまりにも自然的な流れすぎて、俺ビックリだよ!?
「きゃっ!」
そんなことを考えている間にも、足を滑らせ天井を見始める西園寺さん。 そして俺の方に飛んでくる卵三つ。 なるほど、これは試練だな……。
ルートA。 それは、西園寺さんの方を助けるルート。 卵なんてほったらかしにして、このままでは床と衝突するであろう西園寺さんの体を支えるルート。 男なら迷わずそうするべきルートだ。 しかしその場合、卵たちを見捨てることになる。
ルートB。 それは、クッキーを作る上では欠かせないと言っても過言ではない卵を助けるルート。 俺が知っている西園寺さんならば、卵は必要分しか用意していないはずだ。 つまり、この卵が割れてしまったら今日はお開き、また次回となる。 そしてそうなるのは俺の望みでもある。 だが、それは同時に西園寺さんを見捨てることとなる。
俺は。
「危ないッ!!」
俺が選んだのは。
「な、成瀬くん……あ、ありがとう」
ルートA。 西園寺さんを助けるルート。 卵のことは残念だが……これで下手に怪我をされてしまったら後味が悪すぎる。 もしも滑ったのが別の人ならばそこまで心配はしなかったかもしれないが、西園寺さんとなれば話は別だ。 彼女の場合、打ちどころが悪くて意識不明とかいうパターンもありそうで、心底心配になってしまう。
「もう少し落ち着いてやろうって。 マジでそこまで天然だとは……」
「えぇ? わたし、普通なのに……天然って言われたの初めてだよ」
俺はこのとき、素直に卵を助ければ良かったと思ったのは内緒だ。 天然物の天然とは、さすがは西園寺さんというだけはある。 まぁ、これが作られた天然ならば俺は女性恐怖症になってしまいそうだから、その点で言えば良かったかもしれないけど。
「そうですか……っと、あれ?」
そんな西園寺さんはもう諦め、俺は西園寺さんの身代わりとなった三つの卵がどうなったかを知るために、その方向へ顔を向けた。 きっとそこには無残にも潰れてしまった卵たちがいる……と、思っていたんだけど。
「……奇跡か!?」
すげえミラクルだッ!! 卵がまさかの全員生存だッ!! 卵は三つとも床に落ちてはいるものの、定番のグシャッとした感じはなく、形を保っているではないか!! これを奇跡と呼ばずになんと呼ぶ!?
「お、おぉー!」
そしてパチパチと拍手をする西園寺さん。 なんだか今日この日、この瞬間の拍手だけは腹が立つな。 誰のせいであの卵たちは命の危機を迎えたと思っているんだ。
「マジか……こんなことってあるんだな……」
俺は言いながら、西園寺さんを支えていた手を離し、卵の方へと歩み寄る。
結構な高さと速度で放られたと思ったが……何か、神秘的な力でも働いたのだろうか。
「……ん?」
その中の一つを手に取ったとき、違和感。 とんでもない違和感だ。 てっきり割れていないと思っていた卵は割れていたのだ。 何を言っているのか分からないと思うから、解説しよう。
まず、卵の状況。 これはさっきも言ったように、グシャッとはなっていない。 卵の形を保っている。
しかし、問題はその殻だ。 何かの間違いかと思って確認したが、三つが三つとも全てにヒビが入っているのだ。
普通ならば、ヒビが入った時点でアウトと言っても良い。 中身が液体でもある卵は、少しでもヒビが入ればその中身を無残にも曝け出すのが普通。 だけど今回に限ってはそれが起きていない。
つまり、それが何を示しているかと言うと。
「ゆで卵じゃねえかこれッッ!!!!」
ありえない、これはさすがにありえない。 まさかとは思うが、西園寺さんの手から離れた一瞬で茹でられたのか? いや、何馬鹿なことを考えているんだ俺。 落ち着け。 考えたくはないが……本当に、心底ありえない可能性だが……残されている可能性は一つしかない。
そして、その俺が辿り着いた可能性を裏付けるように、西園寺さんが言った。
「あ、そうだよ。 茹でられていた方が効率的かなって思ったの。 えへへ」
……よし、それじゃあ西園寺さんに事情聴取といこうか。