七月十四日【1】
あの日から、早くも一週間が過ぎた。 今日は七月十四日、天気はいつも通りの雨。
案外、俺も西園寺さんもそれを受け入れてからは、普通に暮らすことができていると思う。 いつまでも続くか分からない七月を受け入れてから。
不思議と、あの日からはそれまでの七月通りだった。 天気も気温も、人々の言葉も。 今まで通りで、いつも通り。 そう考えれば、今まで一々変わった天気や気温や言葉に対して一喜一憂していたのがなんだか馬鹿らしくも思えてしまう。
「それでね、成瀬くん。 わたしも成瀬くんを見習って、お菓子作りをしようと思うの」
「へえ、何を作るつもりなの?」
そして今は、下校中。 俺と西園寺さんの家は正反対だが、帰っても二人して特にすることがない所為で、こうして適当な時間になるまで散歩をするのが日課になりつつある。 というか、最近では家族と居る時間より西園寺さんと一緒に居る時間の方が圧倒的に多い。 俺がそうなのだから、西園寺さんもそうなのだろう。
「えーっとね、まずは成瀬くんが作ってたのと同じ、クッキーかな。 実は昨日、ちょっとだけチャレンジしたんだけど……」
「おー。 結果は?」
「……焦げちゃった。 えへへ」
ま、最初はそんなもんだろう。 俺だって作り始めのときは、そんな失敗ばかりだった気がするしな。 というか、こうやって普通に話しているけど……俺が菓子作りをしていること自体、武臣にすら言ってないんだよな。 そう考えると、俺が西園寺さんに対してそれを言ったのは……多分、仲間意識的なものかもしれない。
「その内作れるようになるよ。 ところで、どのくらい焦げたの?」
俺が聞くと、西園寺さんは顔を若干赤くして答える。 それはきっと恥ずかしさから。
「……なんだか、炭みたいになっちゃって」
典型的な料理下手なのか……もしかして。 漫画とかでは見たことがあるが、目の前に居るとは。
前の自転車に乗りながら歌っていた一件もあるし、西園寺さんはもしかして生きる典型的おっちょこちょい女子なのかもしれない。 これからに期待だ。
「だからね、成瀬くん。 今日は成瀬くんにお願いがあります!」
「あー大体想像できた。 だから言わなくても良いよ」
「ほんとに!? 本当に、わたしに毎日お菓子作ってくれるの!?」
いや待て。 それはさすがに予想外だ。 俺の予想だと「お菓子の作り方を教えてくれ」みたいなことだと思ったのに、どういう紆余曲折な道を辿ればそんなお願いになるんだ。
「西園寺さん、それはさすがにちょっと……」
男としては前言撤回をするのは嫌なのだが、これから毎日お菓子を作り続けねばならないとなれば、話は別だ。 一ヶ月そこらならまだ良いが、いつ終わるかも分からないループに居る今では、大問題である。 俺の家が間違いなく甘い匂いで満たされてしまう。 それはなんだか嫌だ。
「えへへ、冗談だよ。 成瀬くんの想像通り、お菓子の作り方を教えて貰いたいの。 良いかな?」
「……西園寺さんの冗談って、マジで分かりにくいな。 まぁ良いよ、どうせすることもないしさ」
冗談みたいなことを本気で言うし、かと思えば本気で言っているようなことを冗談だと言うし。
「あはは、ありがとうございます」
時間は皮肉なことに、飽きるほどある。 いつかはきっと、全てのことに飽きてしまうだろうけど。 それまではせめて、俺も西園寺さんも笑っていたい。 この状況を最大限、楽しんでおきたい。
「成瀬くん、どのくらい頑張れば、成瀬くんみたいに上手に作れるかな?」
「ん? あー、西園寺さんなら……後五十回くらいループを繰り返せば、作れるんじゃないかな」
「……もう、いじわる」
頬を膨らませ、いつものように怒る西園寺さん。 怒るとは言っても、優しい優しい怒り方だ。
それは一週間前とは違っていて、そんな些細なことがなんだか笑えてきて、俺はついつい笑ってしまう。
もう二度と、あんな顔を西園寺さんにはさせないようにしようと、そう思いそう決める。
「冗談冗談。 ちゃんと練習すれば、すぐに作れるようになるって」
「……良かったぁ。 本当にそんなにかかるのかなって思っちゃったよ。 えへへ」
相も変わらず、純粋だなぁ。 そんなんだと、いつか悪い大人に騙されるぞ。 俺みたいな良い人ばかりではないからな、世の中。
「それじゃあ、今度のお休みに成瀬くんの家に行こうかな。 お菓子作りを教えてもらいに」
「俺の家? 俺の家は……悪い、ゴミ屋敷みたいになってるから、止めた方が良いかも」
でっかいゴミが二つな。 母親と上の妹。 下の妹はまだ世間知らずな部分があるから、特別に除外してやろう。
「そうなんだ……。 成瀬くんのお部屋って綺麗かと思ってたから、意外かも」
「ははは」
一応それなりには綺麗だとは思うが、それを言ったら西園寺さんのことだ、確実に俺の部屋に遊びに来たがるだろう。 それ自体は別に嫌というわけじゃないが、年頃の男子の部屋にはそれなりのブツもあるのだ。 だから断固として拒否である。 もしもそのブツが見られた場合、俺の人間的立場が終わりを迎えると共に、この絵に描いたような天然お嬢様な西園寺さんがどれほどのショックを受けるのか分かったものではない。 なんと言っても、キセルを大犯罪だと評する人だ。 いやまぁ、犯罪だけどな。 そんな風につらつらと理由を述べてはみたが、要するに俺のイメージ的な問題といえば分かりやすいか。
「でも、それなら仕方ないね。 わたしのお家で教えてもらって良いかな?」
「ああ、勿論」
そしてそれから、菓子作りの予定や、他のどうでも良い話などを延々と続けたあと、俺たちはそれぞれの家へと帰ることにした。 別れるときには既に日が暮れており、夏で日が長いはずなのにそんなに話し込んでいたということは、俺も西園寺さんも結構夢中になって話していたということだろうな。
「……暑いな」
一人になると、途端にそれを感じ始めた。 住宅街を歩く中、電柱の灯りをいくつもくぐり抜けながら、俺は家へと向かっている。
雨は既に上がっており、雨上がり独特の匂いが辺りには満ちている。 俺は結構、その匂いが好きだったりもするんだよな。 俺と西園寺さんの現況も、雨降って地固まるとなればいいのだが。
先が見えないループと、終わりが見えない七月。 もう、俺と西園寺さんの部屋にあるカレンダーがめくられることも、きっとないんだろう。 西園寺さんの、海しか見れないカレンダーは。
そんなとき、一瞬だけ寒気がした。 まるで、真冬にでもなったかのような寒気。 そして、背中側から声がかかる。
「挨拶。 こんばんは」
「……は? えっと……こんばん、は」
先ほど通り過ぎたばかりの場所。 具体的に言えば電柱の下。 真っ白な髪を腰の辺りまで垂らし、場違い……というよりかは、時代違いか? その男らしき人物は、番傘を持って俺の方を向いていた。 その表情は見えない。 傘の所為ではなく、その男が付けている面の所為で。 口元が割れた、狐の面。
「質問」
男は言い、続ける。 そして男が次に放ったその言葉は、俺にとってはあまりにも衝撃的なもので。
「ループ世界はどうでしょうか?」
あまりにも、見知った言葉。
「……ループ、世界」
それは、その言葉は。
俺と西園寺さん以外では、知らない言葉のはずだ。
「……あんた、何者だ?」
俺の質問に、その番傘の男は特に気にする様子も見せずに答える。
「回答。 あなたたちをループさせている者」
こいつが……こいつが、俺たちをループさせているっていうのか? こんな見た目は全然普通の人間っぽい奴が。 だが確かに、いきなり現れた感じではあったし……。
「回答。 姿は作っただけ。 私は実体がないので適当な姿を作っているんです」
……おいおい、思考を読まれたのか? 勘弁してくれよ。
「回答。 読んだのではなく予想しました。 それだけ。 本当にそれだけ」
そうやって何度も言われると言い訳がましくて仕方ない。 台詞だけ見れば、ふざけているようにも捉えられる。 けど、その口調は酷く淡々としたものだ。
「そうかよ。 で、俺になにか用事か? こんな時間に」
精々平静を装いながら、俺は言う。 今目の前に居るこいつは、俺と西園寺さんをループさせている元凶なのだ。 本音を言わせてもらえば、怖くて怖くて仕方ない。
下手をすれば、もっと面倒なことになる可能性だって高い。 例えば、何か違うルールが定められた世界にされる、とかな。 まさかとは思うけど。
「質問。 理由を尋ねないのはどうしてですか?」
「ん? このループに閉じ込めた理由をってことか?」
「……」
番傘の男は黙ったまま、頷く。 なるほど、そういうことか。
「理由なんか知ったって、何にも変わらないだろ。 それに教えてくれるなら、この世界を抜け出す方法を教えてくれよ」
「回答。 それは不可能。 私の楽しみがなくなってしまう。 それはとても悲しい。 悲しくて泣いてしまう」
……楽しみ、か。 そのひと言で、大体の理由は分かったよ。 だからもう、尋ねることはないな。
無視して帰っても良いと俺は判断し、そのまま背中を向けて歩き始める。 だが、その背中に再び声がかかった。
「質問」
そして男は言った。 淡々と、言葉を区切ることなく。
「今回のループを失敗したら西園寺夢花が死ぬとした場合はどうします? 頑張ります?」
「……は?」
何を言っているのか理解できずに俺が尋ねるも、男は構わず言葉を続ける。
「提案。 それを阻止するためには問題を解いて下さい。 これが最後の問題です」
番傘の男は言うと、真っ黒な『手紙』を俺に差し出した。 それは間違いなく、俺と西園寺さんが何度も挑戦し、解いてきた『手紙』だ。
そしてその差し出す動作があまりにも自然で、先ほどの言葉が未だにうまく飲み込めていない俺だったのだが、素直にその『手紙』を受け取ってしまった。
「成立。 ではお元気で。 次に会うのは答えを見つけたときでしょう。 あなたの回答を聞きに参ります」
そう言い残すと、文字通り番傘の男は霧散していく。 まるで最初から、そこには何もなかったかのように。
「……なんなんだよ」
その場に残されたのは、一枚の『手紙』だ。
俺が今回の七月で、数回挑戦した問題。 ループ世界を脱出するために、頭を使い続けてきた壁と言っても良い。
そして、あの番傘の男は言ったのだ。 これが最後の問題だと。
つまり……この問題さえ解ければ、ループ世界を脱出できるということか? いや、もしもそれが叶わなかったとしても、あの男の言うとおりならば、西園寺さんは今回のループで……。
抜け出せば西園寺さんの母親が死に、抜け出せなければ西園寺さんが死ぬ。 俺が選ぶべき二択。
「くっそ……まさしく最悪なパターンだな、こりゃ」
言いながらも、俺は『手紙』を開く。 選択は後回しにするとして、まずはその問題に目を通さないことには始まらない。 しかし、そこに書いてあった問題は。
『問題その肆。 ループ世界を抜け出し たいですか? この世界を抜け出し たいですか?』
……おいおいおい。 これが問題とか、さすがに破綻しすぎだろう。 答えれば良いのか? 抜け出したいのかどうかを。 というかそれ以前に、ちゃんとした文を書いて欲しいものだ。 なんだこの半角スペース。
そんなのに対する答えは決まっているが、簡単に結論を出すのはマズイか?
……それに、それにだ。
状況も一度整理しなければならない。 もしもループ世界を脱出することができたとしても、その場合……西園寺さんの母親はどうなるんだ? 選ぶべき二択の片方の結末だ。 何かが変わって生き延びる……というのは、楽観的すぎるだろうか。 けど、ループを脱出しなければ西園寺さんが死ぬ……。
まずは、そうだな。 俺が進むべき道、選ぶべき選択を考えることだ。 それが解決しなければ、安直に、思うままに答えを出してしまうのも危険かもしれない。
でも、でもだ。 だからと言って悠長に構えていることはできないか。 この問題にかかっているもの……強制的に賭けのテーブルへと乗せられたもの。 それは。
――――――――――――西園寺さんの、命だ。
西園寺さんに言うのは……避けた方が良いよな、やっぱり。 本人が聞いたとしたら、混乱して事態がややこしくなる可能性が高い。 それに問題を提示されたのは俺で、取り組むのも俺だ。
この問題を解く場合、それは西園寺さんに母親との別れを受け入れろということになる。 ループを脱出するとはつまり、そういうことだ。
そして、問題を解かない場合、それは西園寺さんの死。
要するに、俺に選べということだ。 西園寺さんを生かして、現実と向き合わせることと、西園寺さんを殺し、夢を見せ続けるのかを。 ついこの前にループをし続けようと言った手前、再びそれを話すのは少し気が引けてしまう。 だから、話すとするなら真実を話すべき。
……こんな場面で、格好良い奴ならきっと、西園寺さんを生かす道を選ぶんだろうな。 西園寺さんをなんとか説得して、生きる希望を見つけるように。
けど、そんな真似は俺には無理だ。 俺の唯一の取り柄は物事を理解することで、それ以上でも以下でもないのだから。 そんなんだから、今もこうして現状を理解してしまっていて。
……やっぱり俺は、自分が一番嫌いだな。