クレア・ローランドの課題 【8】
「……ねむい」
目が覚めて、最初に放った言葉はそれだ。 とてもじゃないが眠れるわけもなく、これだけ目覚めが悪い朝も中々にない。 勿論、良い意味ではなく悪い意味で。
……さて、そう文句を述べてもどうしようもない。 今日はどうしようかと考え、ベッドの上で体だけを起こす。 三月はもうすぐ終わる。 今日は三月二十八日、今日を入れてあと四日間の命だ。
「あ」
ふと、視界の隅に携帯が映った。 それを手に取り、今の時間を確認する。 時刻は七時を少し回ったところ。 それは良い。
それよりも、私の視線を吸い寄せる表示だ。 新着メール、一件。
慌ててそれを開く。 もしかしたら、もしかしたらなんて淡い期待を抱きながら。 が、所詮はもしかしたらだ。 ただの夢物語で、期待はきっと裏切られるためにある。
「リリアの馬鹿」
メールはリリアからで、内容はこの前のことに対するお礼だった。 期待ハズレのメールだったけど、それでもそれは、少しだけ心が晴れたような気がする。 どんなときでも、近くに居てくれる人が居るのは嬉しいことだ。 それにしてもメールでお礼だなんて、直接言った方がよほど早いのに。 恥ずかしがり屋なところは、私そっくり。
……数年前の私なら、そんなことは思いもしなかっただろう。 だが、今はそれを思いすぎてしまう。 私はいつから、こんなにも弱くなってしまったのだろうか。 いつからこんなに人との関係を大切にするようになったのだろうか。
多分、彼に出会ったからだ。
「神田、ちょっと良いですか」
「んー、珍しいなお前から。 俺はいつでもオールオッケーだぞ、見ての通り」
階段を降り、喫茶店の中へと入っていく。 すると、カウンターの中でいつものように神田は新聞を読んでいた。 コーヒーの香りと、朝ご飯用のトーストの香り。 朝、毎日私が嗅ぐ良い匂いだった。
「お願いがあります」
「……内容によるな。 基本的にお前の頼みは全部叶えてやりたいけど、今はちょっとな。 今日に限っては聞くか聞かないかは聞いてからってことなら、良いぞ」
やはり、少なくとも真実にまでは行き着いていないものの、私が妙な状態になっているということは分かっているようだ。 そして、それが分かっているにも関わらず思いっきり踏み込んでくるようなことはしない。 その距離感は他人だからというものではなく、家族だからだ。 家族だからこその、距離感だ。 そのくらいはもう、分からない私ではない。
「友里に会わせてください。 今、日本に居るんですよね」
神田友里。 私とリリアが、施設でお世話になった人だ。 彼女のおかげで、私とリリアは今こうして一緒に居ると言っても過言ではない。 そして、神田の実の姉だ。 その人が今、日本に居る。 その情報は持っていた。
正確に言えば、リリアが得た情報だけど。 施設でも友達が多かったリリアが、その友達からの連絡で友里が来るということを教えてくれたのだ。 だからここで、会わないわけにはいかない。 私がお世話になった、数少ない人たちの一人だから。 そして私が挨拶すべき最後の一人。
「クレア、残念ながらそれは駄目な方のお願いだ。 あいつと会ってどうするんだって話だかんな」
しかし、神田はそれを拒否する。 分かっていたことだったし、私は大して驚かない。 神田にとっては、私とリリアが切っ掛けで友里との仲は最悪なのだ。 そんな最悪な仲の姉に、会わせたくないという気持ちを持って、神田は言っている。
「なら、聞かなくても良いです。 私が勝手に会うだけの話です」
「そうかよ。 だったらクレア、もしも今日、この家から一歩でも出たらお前の家はなくなったと思え。 良いな」
神田は新聞を折りたたみ、それをカウンターへと置くとそう言った。 いつになく真剣に、いつものようなふざけた感じは全くと言って良いほどにない。 私は神田の顔を見て、それが本気で言っていることだと理解する。 雰囲気で、嘘ではないと理解する。
「……それでも。 それでも、私は行きます。 もう会えないかもしれないのに、黙って待っていることはできません」
何を隠そう、明日には友里はアメリカに居る。 今日、この日本を立つのだから当然だ。 その情報を持っていたからこそ、私は会わなければならない。 友里が居る場所なんて知らないし、県内には居ないかもしれない。 会うと口では言っても、場所なんて一切知らないのだ。
けど、それでもこの喫茶店に居るよりは会える確率は高い。 街中を歩いて、偶然出会える確率なんて天文学的な数字かもしれない。 それでも私は、その確率に今は縋りたい。
神田には恩がある。 私とリリアを引き取り、ここまで育ててくれたという一生分の恩がある。 別にそれと友里に会うことを天秤で比べているわけじゃない。 だが、ここであの人に会わなければ、私は素直に死ぬことだってできやしない。 だから。
「勝手にしろ。 俺はもう何も言わねえ」
「……ごめんなさい」
神田に頭を下げ、私は背中を向ける。 別れがこんな形になってしまうのは、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。 それは嘘偽りなく、本心で。 神田は暮らせる場所を用意してくれて、手続きやらで連日連夜寝ずに駆け回ってくれて、唯一の家族であった姉とも対立を余儀なくされて。 この日本を選んだのも、平和だったからだ。 戦争や犯罪、それらが限りなく少ないからだ。 最初は運が良いなくらいに思っていたけど、それは神田の気遣いだったと気付いたのは少し経ってからのこと。 そういういろいろがあって、神田には返しきれない恩がある。
だから、こんな別れ方を選ぶ私はきっと、最低だ。
「クレア」
そんな背中に、神田は声をかける。 私がそれを聞いて振り返ると、一枚の紙が飛んできた。
綺麗に畳まれた紙を顔寸前で取り、それを開く。 すると、そこにはどこかを指し示す住所が書かれていた。
「俺に分かるのはそこまでだ。 正確な場所は分からないから、あとは自分でなんとかしろ」
「……ありがとうございます。 行ってきます」
これが最後の優しさだと思うと、涙が出そうになる。 出そうになって、けれど出ない。 もう泣かないとは思っていたし、今回のこれを受け、それは分かった。
こんなにも恩を感じ、私の唯一無二の家族である神田とリリア。 その人たちと別れるときでさえ、私は泣かなかったのだ。 私はこのとき、理解した。
私にはもう、人の心がなくなっているのだと。 まだかろうじで残っていたとしても、もうなくなる寸前なのだと。
別れがあれば出会いがある。 どこかで誰かは言っていた。 その言葉の意味は、簡単に考えてしまえば忘れるということだ。 別れというマイナスの記憶を出会いというプラスの記憶で埋め合わせる。 そうすることによって、自分自身が楽になろうとしている。 それが別れがあれば出会いがある、という言葉の真の意味なのではと私は思う。
「この辺りですね」
マイナスはプラスによって相殺されている。 嫌なこと、忘れたいこと、落ち込むこと、頭にくること、苛立つこと。 生きていれば、そんなマイナスが沢山襲い掛かってくるのだ。 そしてそれらをプラスで打ち消していく。 朝起きたときの目覚めが良い。 今日はなんだか気分が良い。 失くし物の場所を思い出した。 美味しい食べ物を見つけた。 学校に行くまでの道で信号に引っかからなかった。 風が気持ち良い。 風に乗って好きな匂いが飛んできた。 そういうプラスで打ち消している。
「えっと……確か……あ」
今日、友達に酷いことを言ってしまった。 すぐにでも謝らなければならないが、どうにもその一歩を踏み出すのに苦労しそうだ。 ならばこうしよう。 今日の夜ご飯が和食だったら明日しっかりと謝る。 洋食だったら思い切って今から謝りに行く。 私は洋食が好きだから、それで相殺といこう。
「すいません、ちょっと良いですか?」
……洋食だった。 よし、そうなってしまったら相殺された。 だから、今から足を動かすことにする。 気持ちの整理も付いたし、自分自身に課したルールだ。 それは、守らないと。
「えっと、この場所なんですけど……ここからだと、あっちで良いんですか?」
そんな風に、良いことと悪いことを一緒に考える。 そうすることで、難しそうな問題も厄介そうな課題も楽になっていく。 そして同時に、過去の嫌なことを忘れられる。 忘れたいことを忘れられるのだ。 そういう意味で考えれば、私が今こうして友里に会おうとしているのも同じだろう。 友里に会うというプラスのことで、今現在私が置かれている状況というマイナスを打ち消そうとしているのだから。 それが本当に打ち消せるのかは、分からないけど。 それでも何もしないでいるよりかは、何倍もマシだった。
「え?」
もう一度言う。 嫌なことは誰しも忘れたいし、誰しも思い出したくはない。 そんなのは万国共通、言ってしまえば人類共通のことである。 嫌なことをずっと覚えていたい人なんていないし、思い出したくないことはみんな忘れてしまいたいだろう。 だから人は趣味に打ち込むし、遊ぶのだ。 まぁ私はその割合が極端すぎると、結構言われてきたのだけど。
私の場合、たとえば一の嫌なことがあったら百の良いことで忘れる感じだ。 足の小指をタンスの角にぶつけたら、良いことを咄嗟に頭の中に十個くらい浮かべる感じだ。 それを全て実現できるかどうかは置いといて、それでもその後には結構な確率で良いことが起きたりする。
突き詰めていけば、そういうのは多分、悪いことがあったから良いことの記憶、経験がより鮮明になるのだとの答えになると思う。 でも、それでもそれらを素直に、実直に感じられるということは……それがもう、プラスのことではないだろうか。
「……ありがとうございます」
私は意外と忘れっぽい。 忘れっぽいよりも忘れたがりっぽい。 前へ前へ進むために、足を引っ張りそうなことはすぐに置いていくのだ。 例えば、これはリリアしか知らないことだけど、虫が物凄く苦手なこととか。 見てしまえば思い出すけど、それまで忘れるようにしていることである。 更に、冷え性なことだとか。 それも冬にならないと思い出さないようにしている。 実害が出てくるのは、寒くなってきた頃だし。
それと、それと更に。
……実は、泳げなかったりする。
「すっかり忘れてました……はぁ……」
そんな忘れたがりっぽい私。 例の如く、たった今人に道を尋ねたことによって、思い出したことがある。
私は、極度の方向音痴だった。