クレア・ローランドの課題 【3】
朝、窓から差し込んできた陽の光が私の顔を照らした。 眩しすぎるくらいのそれは、私を目覚めさせるには充分だ。 自慢ではないが寝相の良い私は、寝る前と起きたあとで姿勢はほぼ一緒。 だからいつも仰向けで寝て、丁度良い時間に光が入ってくるように寝ている。 天然の目覚まし時計は心地良くもあるし、目覚めも良い。
「ふぁあ……」
小さく欠伸をし、体を起こす。 まだぼやける視界を手で擦り、目をぱちぱちと数回瞬かせた。 すると、ようやく私の部屋だ。 昨日と変わっているところはなし、物の配置も全て一緒。
……そういう風に、見てしまう。 もうこれは癖というか、習慣なのだ。 寝る前と起きた後で、物が動かされていないかとか、誰かが入った形跡はないかとか、そういうのを確認してしまう。 もっとも、誰かが入って来た時点で私は目を覚ますと思うけど。 そういうのにはわりと敏感な方で、それにはきっと私が小さいときにどんな生き方をしていたのか、というのが関係してくる。
他にも、些細なことは沢山ある。 日常生活に支障をきたすほどではないが、背後から聞こえた物音だとか、すれ違った人の挙動とか、そういうのがどうしても気になってしまう。 それはもう、変えることはできないと思う。 そしてそれもまた、私にかけられた呪いなんだ。
別にそれ自体が嫌というわけではない。 ただ、他の人はどういう風に暮らしているのかということに興味があるだけ。 後ろで聞こえた物音に、普通の人は何を思うのかとか、すれ違った人をどう観察しているのかとか、そういう一般的ならどうするみたいなことが気になるだけだ。 もしかしたら、それこそ間違いで普通に暮らしている人はそんなことに一々気を取られたりしないのかもしれないけど。
「眠いです……」
別段低血圧ということはない。 でも、最近は疲れがたまることがあったから。 もう、そんな原因は切ってしまったけど。 これからは悩むことも、考えることも、躓くこともない。 大丈夫、私は大丈夫だ。
「……」
私も忘れて、彼らも忘れた。 それで終わりで、もう私と彼らの話が始まることはない。 私はただのフリだけど、彼らのは狐男がしたことだ。 元に戻すには多分、私が奔走しなければならない話だ。 でも、それをする気が私にない以上……この話は、もう始まらない。
今日は三月二十二日。 残された時間は一週間と二日。 僅かしかないこの時間で何をしよう? とりあえず、お世話になった人に挨拶……。
と思ったけど、私がお世話になった人なんて、両手の指で数えられるほどしかいなかった。 それに、そこに分類される成瀬たちはもう私のことを知らない。 知らないのだから、私が言っても「こいつは誰だ?」という顔をされるのが目に見えている。 で、そういうわけで成瀬たちには申し訳ないけど、黙って消えよう。
そうなると、残されたのは両手どころか片手で数えられてしまう人数しかいない。 あまり話したくない人物である神田と、私が一番大切にしているリリア。 最後にもう一人で、合計三人。 十六年生きてきて、挨拶するべき人がこれだけって。 自分のことながら笑えてきてしまう。
……死に間際の挨拶かぁ。 考えたこと、なかったな。 自分が死ぬなんてこと、これまでここまでハッキリと意識したことはなかった。 私の呪いは確実に、着実に終わりへ向かっている。 普通ならば鼻で笑ってお前は何を言っているんだ、くらいは言いそうだけど……生憎、あの狐男は嘘を吐かない。 回りくどく分かりづらい言い方をするけど、嘘だけは吐かない。 それはもう、昔成瀬が証明してくれた。
つまり、私は死ぬ。 三月から四月へ移り変わるそのときに、死ぬ。
「ま、こうして部屋に居ても仕方ないですね。 散歩でもしましょう」
誰に言うわけでもなく呟き、私はベッドからようやく出た。 パジャマは着崩れていて、とても女子らしいとは言えない。 神田にはよく「お前は慕いたい兄貴って感じだな」とか言われている理由がなんとなく分かってしまった。 成瀬も確か、似たようなことを言っていたっけ。
まずは、出かける準備。 今日は特に知り合いと会う予定もなければ、彼らと遊ぶわけでもない。 だから、適当に髪をといて適当に服を着て適当に化粧をして。 それだけで、良いか。
基本的に髪を結んだりしない私は、髪をとくだけで終わりだ。 癖毛でもないから、こればっかりは本当に楽でいい。 西園寺は確か、寝癖で結構悩んでいるみたいなことを以前言っていた気が……と、違う違う。 もう、彼らは私のことを知らないんだ。 私も知らないんだ。
ということで、支度完了。 目的地のない散歩は結構するから、この街をもう一度散策するということにして、歩いてみよう。
「……それでなんで居るんですか、リリア」
「ふふふ……貴様と我は光と影、つまるところ一心同体である。 故に、貴様が現界する折には我も現界するということよ、ふはははは」
横を並んで歩く小さな姿、それを横目で見ながら私は言う。 すると、そんな良く分からない返答が来た。 話しづらさで言えば、あの狐男の次にあたるリリアだ。 言っていることの詳細はまったく分からないけど、多分私に付いてきたいとかそんなところだと思う。 私が出かける姿を見たら、大体後ろを付いてくるリリアのことだから。
「めんどくさいですね……。 別に来るのは構わないですけど、遊びに行くわけじゃないですよ? つまらないと思うんですけど」
「問題なし。 我も余興になど興味はない。 地の利を活用すべく、居住する地を把握するのは至極当然のこと」
……まあ良いか。 一人でも二人でも、することには変わりない。 リリアは妙に秘密の場所というのに精通しているし、逆に面白い発見もあるかもしれない。 私のお気に入りの場所であるビルの上だって、元々リリアが見つけてくれた場所だ。 ひょっとしたら、新しく気に入る場所が見つかるかもしれない。
それが見つかったところで、という話にはなってしまうけど。 それでも、そうしたい気分だから良いだろう。
「我が従者よ」
「従者ってもしかして私のことですか。 そのほっぺた引っ張っても良いですか?」
小難しい言葉を好むリリアだけど、従者という言葉は私も知っている。 それというのも、リリアがそういう言葉ばかり使うから私も詳しくなっているのだ。 漢字でどう書くのかは分からないけど……それくらいなんとなく意味は分かる。
で、それでそんな馬鹿にしたことを言うリリアの正面に立ち、ぷよぷよと柔らかいほっぺたを両手で挟む。 心地良い感触。
「……ごめんらはい」
「よろしい。 それで、どうかしましたか?」
素直に謝ったリリアを解放し、私はそう尋ねた。 私を呼んだということは、私に用事があったということ。 用事があったということは、何かを言いたかったということ。 何かを言いたかったということは、なんらかの提案があるということ。 そこまでの繋がりで、大体何を言うのか分かった。 だから、リリアが口を開くのと同時に私も口を開く。
「お腹が空いた」
オーケー、今日も息はぴったり。 寸分違わず同じセリフだ。 第一、起きてすぐに家を出て行った私にリリアは付いてきたのだ。 そして、リリアは私が支度をしている段階で起きてきたから、朝ご飯を食べる時間なんてなかったはず。 そういう前提もあったから、それで間違いないと私は思ったのだ。
……それに、私もお腹が空いたし。
「さすがおねえ! ごっはっん、ごっはっん!」
「はいはい分かりました。 何か食べたい物とかありますか?」
一瞬で笑顔になり、一瞬で私の手を掴み、ぶんぶんと振り回し喜ぶリリア。 こういう部分はまだ子供っぽくあり、リリアが言うところの「別の人格」が出ているときとはまるで違う。 私としては、こっちのリリアの方が自然で好きだったり。
「あれ! 小麦粉に水と油脂とお塩とお砂糖と牛乳と卵を入れてこねて焼いたやつ!!」
「……えっと、あー、パンですか?」
「イエス! パン!」
なんでこう難しい言い方をするんだろう……。 普通に「パン」と言えばすぐに言い切れるのに、早口言葉のごとく言い切ったリリアを見て、私はそんなことを思う。
「パンだと短すぎて、なんだかかわいそう。 だから、小麦粉に水と油脂とお塩とお砂糖と牛乳と卵を入れてこねて焼いたやつ!」
「長ったらしすぎますよ、逆にそれだと」
「そう? 小麦粉に水と油脂とお塩とお砂糖と牛乳と卵を入れてこねて焼いたやつが?」
「そうです。 小麦粉に水と油脂とお塩と牛乳と卵を入れてこねて焼いたやつがです」
「……」
私が真似して言うと、リリアはにたりと笑う。 その笑みを見て、私が言い切れていなかったという事実に気付いた。 確かお砂糖が抜けていた気が。
「……いきますよ、ベーカリーショップが駅の方にあったはずです」
「わたくしの勝ち。 おねえの負け。 おーけー?」
くるりと向きを変えて歩き出したところ、後ろからリリアの声が聞こえた。 そんな、舐め腐った声が。 この妹、少ししばいた方が良いですかね。
「リリア、別にそれでも構いません。 ですが、パンを手に入れるためのお金は私が持っています。 リリアの貧相なお財布に入っている見るに耐えない少額の金銭は、私のこの紙幣一枚にも及ばないのですよ」
言って、自身のお財布から千円札を取り出して見せた。 すると、リリアの顔はみるみるうちに青ざめていく。 ようやく自分の置かれている状況に気付いたみたいだ。
「おねえ、さっすがおねえ! わたくしじゃ勝ち目ないから、おねえの勝ちで!」
「はっはっは! そうそう、それで良いんですよ。 身分を弁えてくださいね!」
「ははー」
……なんだか、逆に自分が情けなくなっている気がする。 気のせい……だと良いけど。 でも、やっぱり気のせいじゃないですよね。 年の離れた妹に対して、紙幣を見せて従わせるって。
「それでは、ベーカリーショップへ!」
「うぃー!」
ともあれ、こうして私とリリアの一日は始まった。