クレア・ローランドの課題 【2】
番傘、そして割れた狐の面。 私やその友達が、何度となく異常に巻き込まれた元凶だ。 今回の異常も、こいつの仕業で……私たちの、敵でもある。
「リリア」
「……」
咄嗟にリリアの名前を呼び、自身の後ろへやろうとした。 が、その体が微動だにしない。 抵抗されているわけではなく、なんだかそれは、まるで石像を動かそうとしたときのような重さがあった。
「リリア?」
もう一度名前を呼び、今度はリリアに顔を向ける。 向けて、分かった。 今この瞬間、時間が止められているということに。 リリアはおろか、周りの時間全てが止まっている。 石像のように動かないリリアと、そして風も音も、全てが止まっている。
「補足。 大多数に見られても面倒なので止めました。 クレアさまもそうでしょう?」
「……」
事実、そうだ。 面倒というよりかは、巻き込みたくないというのが正しいが。 けど、一体なんだろう? 私の前へ現れたということは、私にだけ用事があった? 今日の出来事と……無関係では、ないかもしれない。
「提案。 本日はクレアさまに提案をしに来ました。 クレアさまにとっては大変ありがたい提案かと思います」
「提案……ですか? それは?」
「返答。 話が早くて助かります。 成瀬さまの場合はわざと話をややこしくしてきますから。 話が早い方は好きです」
「お前に好かれても嬉しくないですね。 それより話が早い方が良いならとっとと提案を言ってください。 私にとって都合の良い提案、と言ってましたけど」
変に話を逸らすより、変に探りを入れるより、リリアの安全を考えるなら刺激はしない方が良い。 私がこの状況でもっとも嫌なのは、狐男の機嫌を損ねてリリアに危害が及ぶことだ。 それだけは絶対に避けなければいけない。 それに、その提案というのも気になった。 両者にメリットがあるということだ、この狐男の言い方から察するに。
「回答。 クレアさまの願いを聞き届けます。 聞いて叶えます。 ただし私が提案する願いのみです」
「……願いを、お前が? なんです、それは」
狐男は言う。 相変わらず、表情も心情も全く読み取れない。 何も感じないのだ、この男からは。 それが同時に、人ではない何かと話しているという不安を私に与えてくる。
「仲を取り持つのです。 クレアさまと成瀬さまの。 簡潔明瞭に言えば成瀬さまの気持ちを別方向に持っていくということです」
「別方向に?」
聞き直したが、その内容はすぐに分かった。 やはり、私の置かれた状況というのを理解した上で、言ってきているんだ。
それは、つまり。
今、西園寺に向いている気持ちを私に持ってくるということ。 成瀬が西園寺に抱いている好意を私に向けさせるということだ。
そうすれば、私は救われる。 好きな人と結ばれることができる。 それは、それは私にとって……確かに幸せなこと。 これ以上ないくらい、幸せな。
なるほど。 つまり私にとってのメリットが大きい。 というより、私が幸せになるためならばそれが最善かもしれない。 この男のすることは意識の書き換えだ。 成瀬も、他の誰も気付かずにそれを成すことだってできるはず。 私にとってそれ以上幸せなことは……きっとない。
「ご理解頂けましたかクレアさま。 私にとってもそれは面白い方向へとなるのです。 現状少々イレギュラーが起きていますので」
イレギュラー? それが多少気になったものの、私の頭からはすぐに消え去った。 今ここで、ほんの少し我慢をして頭を下げて、この狐男に「そうしてくれ」とひと言放つだけで全てが変わる。 全て、私にとって幸せな方向へと向かうのだ。 たったそれだけの我慢、私は。
「断ります。 お前に頼み事というのはちょっと、プライドが許しませんね」
「悪い話ではないはずですが」
「かもしれません。 ですけど、そんな小さなプライドでも私なんですよ。 それに私はそこまでして成瀬に振り向いて欲しくはないです」
嘘だった。 前者は本当だけど、後者は丸っきりの綺麗事だ。 事実、私はそこまでしてでも成瀬に振り向いて欲しい。 成瀬に私を見て欲しい。 そのくらいには思っている。 そんな楽な手にすがりたいほど、私は成瀬のことが好きだった。 この場面で簡単に断って、簡単に諦められるくらいの気持ちだったら、どんなに楽だったか。
……そんな私を止めたのは、成瀬自身の気持ちだ。 それを変えてしまうのは嫌だった。 少し前までなら、そんなことは思わなかったかもしれない。 けれど今は、もうその程度で片付けて良い問題でもない。 自分のことより人のことを。 自分がいくら傷付いても、人のことを。 私から見た成瀬陽夢とはそういう人間で、本人は恐らく否定するだろうが、そんな成瀬に惹かれ、気付いたら私自身も影響を受けていた。 何があっても、私が死ぬことになったとしても。 成瀬だけは、傷付けたくない。
「狐男。 お前が言う面白い状態にするのには、まだ他に手はありますよ」
「質問。 それはなんでしょうか? 勿論つまらなければ蹴りますが面白ければ飲みましょう」
狐男に言われ、私は一瞬だけ考える。 ほんの、数秒のことだ。 そして私は結論を出した。 こうするのが、私にとっては良いことだと。 そして、誰も傷付かなくなる方法。 まさか、成瀬がしたようなことを私がすることになるなんて。
「この印を消してください。 私にかかっている呪いを表す、この刻印です」
「返答。 お言葉ですがクレアさま。 それは不可能です。 一度かかった呪いを消す方法は前にも言いました通りです。 クレアさまの場合は夢を叶えることです」
知っていますよ、そんなことは。 だから違うんです。 私のしている提案は、つまり。
「見た目、だけですよ。 実際にかかっているのには変わりなく、見た目だけ呪いが解けたようにして欲しいんです」
「……なるほど。 それはそれでありかもしれません」
口元に少し、笑みが浮かんでいた。 割れた面の隙間から見えるそれは、得体の知れない気持ち悪さを感じる。 そして、私の呪いの目印である刻印は、綺麗さっぱり消えた。
無理だ。 無理だ無理だ無理だ。 私には、無理だ。
「おはよう」
今日はそう言われた。 朝、私と会って彼はそう言った。 私も私で精々笑顔を作って「おはようございます」と返したが、それだけだ。 昨日のことを話すことはなく、お互い無言で校舎の階段を上っていった。 彼は何かを切り出そうとしていたが、そのタイミングを失っているようで……それは私も一緒だった。
「……えっと、それじゃあ私はあっちなので」
「ん、ああ」
目的の階に付き、私は左へ、成瀬は右へと向かう。 それぞれが別の方向へ行き、もう放課後まで顔を合わせることはないかもしれない。 そう思ったらなんだか少し寂しくなり、昨日の夜にいろいろと決意した心は早速折れそうだった。 今の段階では一応、狐男に消してもらった刻印のことはバレていない。 放課後、部室で集まることになっているらしいから……これはそのときに切り出せば良いだろう。 それよりも問題は、このざわつきをどうするかだ。
胸の辺りに手を置き、珍しく着てきたワイシャツを掴む。 くしゃりとシャツは歪み、同時に心は少し落ち着いた。 忘れて、決めて、前へ進む。 たったそれだけのことはどうしようもなく難しく、どうしようもなく途方もないことだ。 それでも、しなければならない。 やってやらなければならない。 でないと、傷付くのは彼と、そしてその周りだ。 今まで散々守られて、今まで散々迷惑をかけて、もうそれはやめにしよう。 頼ることも、迷惑をかけることも、心配をかけることも。
「……最後」
ぼそっと呟き、私は立ち止まった。 成瀬はもう、教室へ着いてしまっているだろう。 もしかしたら、もう既に教室へ入っているかもしれない。 でも、最後に一度だけ、その姿を見たかった。 これで最後、これで終わりにしよう。 だから、私が私に許す最後のワガママだ。
「……」
私は振り向いた。 真っ直ぐに長く伸びる廊下はとてつもない距離で、歩く生徒たちはまるで壁のようで。 だけど、私は彼の姿をすぐに捉えることができた。 真っ先に、きっと誰よりも早く見つけることができたのではないだろうか。
でも、最悪だ。
「……なんで」
やっぱり、振り向くべきではなかった。 私一人がそれをするだけなら、どれほど良かったことか。 成瀬はもう私を見ることはないと分かれば、どれだけ楽だったことか。 たったそれだけがうまく行けば、他の全てもうまくできる気がしていたのに。
成瀬は、奇しくもまったく同じタイミングで私の方へと振り向いたのだ。 目が合って、お互いがお互いを認識して、そして私は咄嗟に顔を逸らす。 視界の隅で、成瀬も顔を逸らしたのが見えた。
駄目だ。 駄目だ駄目だ。 こんなのでは、駄目だ。 昨日私が決めたことも、私が頑張ろうと思ったことも、私が私自身に無理矢理課した課題さえも……その一瞬で、ほんの一度のそれだけで、全てがひっくり返されてしまった。
ここまでとは正直思わなかった。 一晩寝て、泣いて、考えて。 そうすればいつも通りに次の日からは私で居られると思った。 けど、無理だ。 残念ながらもう、私の中で彼の存在は大きくなりすぎていた。 最悪だ。 本当に、本当に本当に本当に最悪だ。 これ以上悪いことなんて、ない。 それと同じくらい、これだけのことが嬉しく感じてしまった自分がいる。 だから、もう嫌なんだ。
絶対に叶わない夢はそこにあって。 絶対に届かない想いもそこにあって。 けど、言葉を交わすごとにそれらは大きくなっていく。 顔を合わせるごとに重くなっていく。 それにもう、耐え切れる自信がない。
……成瀬はこんな小さなことなんてすぐに忘れるだろう。 誰に話すこともしないだろう。 日記にだって、こんなことは綴りもしないだろう。 成瀬が日記を書いているかどうかなんてことは知らないけど、それだけ些細でくだらないことを書く必要もない。
でも。
私にとっては、一生忘れることのできないくらい、大きな出来事だった。 ただそれだけのこと。
だから忘れようと思う。 成瀬が忘れてしまうなら、私も同じように忘れよう。 全部、全部全部忘れてしまおう。
その日の夜、私は再び狐男に出会う。 そして提案をした。 連日の提案で、狐男は少々悩んでいるようにも見えた。 そんな、私の提案。
「私から成瀬たちの記憶を全て消してください」
もう、そうするしかなかった。 私に残されたのは、一人でいることだ。 忘れてしまえば、この上なく楽だし悩む必要も考える必要もない。 そもそもの話、私は元より考えるのは好きじゃない。 直感で動いて、頭を使う前に体を動かす。 そんなタイプだったから。
「返答。 クレアさま。 残念ながらそれはできません。 記憶を消すというのは中々どうして難しいものなので」
「……少しも使えませんね、お前は。 まぁ別に良いです、元々無理を承知でしたし。 なら、私は消された振りをするまでです」
断られるであろうことは分かっていたし、予想も付いていた。 だから、私はその振りをすることをする。 成瀬たちを騙し、自分自身ですら騙すのだ。 いつかの人狼ゲームの借りはこれで返すとしよう。 今回ばかりは、私が意思を曲げない限り私の勝ちが約束されている。 そしてもう、それが揺らぐことはない。
そして数日が経ち、ある日妙なことが起きた。 私は忘れた振りを徹底していたのだが、毎日しつこいくらいに話しかけてきていた成瀬たちが、ぱたりとそれを止めたのだ。 私のことが見えていないように、存在を知らないかのように。 それ自体は話しかけられなくなった分、良いことだと思った。 が、あまりにもそれは唐突すぎて、そしてあまりにも不自然だ。
そう思い至った私は、狐男に再度問う。 お前は、何かをしたのかと。 すると、本当に本当に面白い答えが返ってきて。
「返答。 簡単なことです。 クレアさまの願いをどうしても聞き届けたかったものでして。 ですがクレアさまにとってそれらはとても大切なもののようだったので逆に成瀬さまたちの記憶を書き換えました。 もしもクレアさまがそれを望んでいないのならばすぐに元に戻しますが」
「……成瀬たちの記憶を? そんな」
そこまで言い、私は口を閉じた。 別に、良いじゃないか。 成瀬たちが私のことを忘れたのなら、もう彼らは傷付かないじゃないか。 傷付くのは私だけで、元はと言えばそれを望んでいたんじゃないのか? 私は。 なら、今のこの状況は最善なはず。 一番良い道のはずだ。 だったらもう、それで良いじゃないか。
「……いえ、それで良いです」
こうして、私の話は終わる。 同時に、新しい話が始まった。 終われば始まる、そんな当然のことは死ぬまで延々と続いていく。 だから、もう少しの我慢でしかない。 私の呪いは消えておらず、それを叶える手立てはたった今、完全に消え去った。 最初から小さすぎる光だったけど、その光さえも消え去った。 後は、月が変わるそのときまでの時間を過ごすだけで良い。 一人で生まれて、一人で戦って、一人で殺し、一人で死ぬ。 やっぱりそれは、誰がどう見ても私にとってお似合いな話なのだ。
「さようなら」
私は言う、大好きな夜空へ向けて。 星はそんな気持ちを知らずに、今日もきらきらと輝いていた。