クレア・ローランドの課題 【1】
「……はぁ」
三月中旬、私はベッドの上でそんなため息を吐く。 お風呂にも入らず、ご飯も食べず、帰ってきてからベッドにダイブし、ずっとそのままだ。 既に外は真っ暗で、そこそこに遅い時間になっているにも関わらず、体が動くのを拒否している。
原因は分かっている。 食欲もやる気もない原因は。 私が今日、成瀬と話したからだ。 私の気持ちが成瀬にバレて、そして話をしたからだ。 断られるということがハッキリと、明確に分かってしまったからだ。 こんなとき、自分の勘の鋭さが嫌になってしまう。
……いっそこんなことになるくらいなら、あの人狼の世界での告白でオーケーを出すべきだった、なんて馬鹿な考えもしてしまう。 馬鹿すぎて、笑いが漏れそうなくらいに。
「明日から、どうすれば良いんですか」
誰に言うわけでもなく、ひとり呟く。 誰もいない部屋のベッドの上、そして布団に顔を埋めて言った言葉は誰にも届かない。 私自身にしか聞こえない言葉だった。
西園寺は知っている。 私の想いを彼女には話すことになってしまったから。 とは言っても、元より恐らく西園寺は気付いていたのだろう。 人の気持ちに人一倍敏感な彼女なら、当然だ。 そして柊木もそれは一緒で、言わば私が成瀬のことを好きだという事実は歴学部全員が知るところとなってしまったのだ。
気まずい。 これは非常に気まずい。 何より成瀬本人に私の気持ちが知られてしまったことが気まずい。 本当に、今まで通り接することができるのか不安になってくる。 普段通りにやろうとしても、やれない可能性の方がよほど高い。 だって、今ですら動揺して何をすれば良いのか分かっていないくらいで。
成瀬はその今まで通りというのを一番望んでいるはずだ。 成瀬の性格と、それと考えそうなことは分かる。 これでも一応、一応……本当に好きだから。
私自身、苦しいというのは当然ある。 今まで積み上げてきた想いがここに来て成瀬や他のみんなにバレてしまったこともそうだし、その想いはいくら積み上げたところで成瀬には届かないということが分かってしまったからだ。 私がいくら好意を向けても、成瀬の好意はいつだって西園寺に向かっているからだ。
あの日だってそう。 神田の頼みで出掛けた私が、偶然見つけてしまった現場だ。 仲良く並んで歩いていた二人の姿を。 成瀬は私に気付いて声をかけてくれたけど、出来れば止めて欲しかった。 自分でも分かるほどハッキリと嫉妬して、そして同時に同じくらい惨めな気持ちになった。 私がいくら好きだったとしても、それは届くことがないと教えられた。
恋なんて、恋愛なんて、一人が一人を好きなだけでは駄目なんだ。 一人が一人を好きになって、好きになられた人も好きになって。 そんな当たり前のことを痛感させられた、私の初恋だったり。
何千、何万といる人たちの中で、それらが結ばれることはどれほど確率の低いことだろう? こんな天文学的数字が出てくるというのに、あっさりと成し遂げてしまう人たちがいること自体、信じられない。 恋愛は……とても、とっても難しい。
一体、いつから私は成瀬に惚れてしまったのだろうか。 いろんなことがあり、嬉しいことも悲しいこともありすぎた。 最初は倒してやりたい相手だったけど、今ではただただ一緒に居たいとしか思わない。 たったそれだけで、充分じゃないかと思ってしまう。 考えれば考えるほど、息が苦しく胸が痛い。 今までいろいろなものを壊して突き進んできた私だけど、今回の敵は……随分手強い。
「……」
無言で、ベッドの脇にあったぬいぐるみを抱き締めた。 柔らかく、抱き心地は良い。 けれど、冷たかった。
「おねえ」
「……ひゃ! り、リリアですか? 驚かさないでくださいよ」
揺すられた体と、そして至近距離から聞こえてきた声で目を覚ます。 目を開けるとすぐ目の前にはリリアの顔。 相変わらず、可愛らしい顔だなぁなんて一瞬思い、すぐ我に返る。 いくら可愛いと言っても、妹は妹。 ましてや同性だ。 あ、いや、そもそもそういう変な考えをすることがまず、私が寝ぼけているという証だった。 ……ですよね?
「おねえ、外に行きたい! 外、凄いことになってるから」
「凄いこと?」
リリアに言われて、窓から外を見る。 見ると外はまだ真っ暗で、朝にすらなっていないことを知らせていた。 不審に思って時計を見ると、夜中の二時半。
……だから背が伸びないのだ、この妹は。 それを私が言うなという話になってしまうが。 けど、背が小さい方が可愛く見えると勝手に思っているので良しとする。 私が可愛いと思われたいのはただ一人だけだけど。 なんて馬鹿なことを考えてしまう。
「……はぁ、分かりました。 その格好だと寒いので、何か上に羽織ってくださいね」
「うぃー!」
嬉しそうに敬礼をし、リリアは私の部屋から出て行く。 こんな夜中だというのに元気なその姿は、どん底にあった私の気持ちを少しだけ救ってくれた気がした。
リリアはよく「夜の方が我の力は増す」と口癖のように言っているが、あながちそれも間違いではないかもしれない。
「気分転換も大事ですよね」
そう自分に言い聞かせ、私はようやくベッドから起き上がった。 腕を枕にしていた所為か、若干の痺れを感じる右手ではなく左手をベッドに付き、立ち上がる。 無理矢理起こしたからなのか、体は重く、頭はぼーっとした。 朦朧とまではいかないが、はっきりとしない意識で上着を取り出す。
「……うわ、ひどい顔」
ちらりと見た鏡に映った顔を見て、私は呟く。 泣いてはいないから目は普通だけど、髪はぼさぼさだ。 とてもじゃないが、人前に出れる姿ではなかった。 制服にもシワが付いていて、まるで酷い目にあったかのような姿だ。
……言っても、仕方ない。 ここで私がいくら何がどうだと言い訳をしたとしても、世界は何一つ変わることなく回り続ける。 私の世界はもう、止まってしまったんだ。 止めたのは自分で、止まってしまったのも私だ。 いつもは、いつもは何も気にしていないようにやっているけれど。 馬鹿で、突っ走る私だけど。
内心では、こういう風に思ってしまう。 その落差をひとりで居るときに痛感する。 それも、ここ最近では特に。
止まった切っ掛けはなんだったのかな。 歩けなくなった切っ掛けはなんだったのかな。 こんなにも何事に対してもやる気がでないのは、なんでかな。
考えながら、リリアが待つ外へと行こうとする。 きっとリリアは今頃、玄関で靴を履いて私のことを待っているだろうから。
自室の扉に手をかけた。 そこでふと、携帯を忘れたことを思い出す。 そういえば、今日のあれから携帯は一度も見ていなかったっけ。 もしかしたら。
淡い期待と共に、私は机の上に無造作に置かれたそれを手に取った。 持ち上げると、そこに付いているストラップ代わりのキーホルダーが揺れる。
ああ。
ああ、そうだった。 思い出した。
私は成瀬のことが、やっぱりどうしようもないくらいに好きなんだ。
画面に光が灯ったスマートフォン。 そこに、新着メールを知らせる通知はなかった。
「わ……星がすごいですね、今日は」
「うぃ、おねえに見て欲しかったの。 おねえ、帰ってきてから元気なかったから」
心配そうな顔をして、リリアは私の方を見る。 そんな、見て分かるほどに落ちていたのか、私は。 これでも一応、神田やリリアには心配をかけないよう、注意を払っていたつもりだったのだが。 私と長らく一緒に居たリリアにとって、私のことに限ってはなんでも手に取るように分かってしまうのか。
「私がですか? えーっと、それはないと言ったら嘘になりますけど……それでも大丈夫ですよ! ほら!」
私はこれ以上心配させないと、笑ってリリアに言う。 笑って、笑って、笑って。 私は大丈夫だから、心配は要らないと伝えるために。 笑えば、楽しいから。 大丈夫、大丈夫だ。 本当に、私は、大丈夫。 でも、そうしたら、どうしてだろう。 リリアの顔が滲んでしまった。 ぽたりぽたりと、涙が溢れてきた。
「おねえ?」
「あ、あはは。 目に、ゴミがですね」
ありきたりな言い訳なんて、この妹には通用しない。 そんなことは分かっていたけど、それしか頭に浮かばなかった。 咄嗟のことにはどうしようもなく困ってしまう。 分からなくなってしまう。 自分のことだと、尚更だ。
「おねえ、大丈夫。 おねえは大丈夫だから」
リリアは言いつつ私の頭に手を置く。 妹に慰められるなんて、なんともみっともない光景だったけど、今はもう……それにすがるしかなかった。
「……ありがとうございます」
「わたしのおねえだから。 おねえは、私のたった一人のおねえだよ」
それから少しの間、私はリリアに抱かれて、その腕の中で静かに、静かに気持ちを落ち着かせた。 数分もそうしていたら落ち着けて、涙も止まる。 リリアは本当に、優しい子だ。
「夜も随分暖かくなってきた」
「ですね。 もう春になります」
春は好きだ。 学生にとっては、この春こそが一年の始まりでもあるから。 そんな新しい始まりの季節が好きだったりする。 そして、始まりということは終わりでもある。 一年の終わり、季節の終わり。 他にもいろいろな終わりがある。
「リリア、私がいなくなったらどうしますか?」
ふと思い、聞いてみた。 もしもこのまま、私が消えたとしたら。 ここでリリアが私も消えると言ったら、私はそこで考えるのを止めたと思う。 けど、リリアは言った。
「怒る」
「……怒る、ですか?」
「うぃ。 勝手に消えたら怒る」
「……ですが、いないのにどうやって?」
不思議に思い、どうするのかが気になって私は質問する。 が、リリアはまるでその質問の意味が分かっていない様子で、たったひと言返してきたのだ。
「どうして……? 探して怒る。 おねえがどこに行っても、私は見つけられるから」
「なんの自信ですか、それ」
と、笑いながらそう返す。 そんな、理由も理論も全部無視したような言い方が面白く、愉快だった。 そして同時に、こう思う。
いくら血の繋がりがなくったって、何年も何年も毎日一緒に過ごしたんだ。 だからやっぱり、リリア・ローランドは私の妹だ。
そんな妹に元気をもらい、私は空を見上げる。 大好きな星空、どこに居ても変わらない景色は、今日も綺麗に煌いている。
「あれ……? リリア、リリア! 流れ星です!」
「漆黒の闇夜を照らす光……シューティングスター。 その光は空気を裂き、空間を裂き、亜空間へと繋がる道筋」
「亜空間へ行っちゃうんですか、あれ。 と、そんなことより願い事です! 願い事! 日本には古くより流れ星が見えたら願い事をしまくるという儀式があるんです! ですからほら、リリアも!」
「う、うぃ! 願いごと……願いごと……何個でも!?」
「え、ええっと確かそうです! できるだけ多く頼みましょう!」
「承知! 願いごと……願いごと……」
あたふたとうわ言のように呟くリリアが面白く、私はそれを眺める。 すると、願いごとが決まったのか、リリアは夜空に向かって目を瞑り、手を合わせた。
「……おねえが幸せになりますように。 おねえが幸せになりますように。 おねえが幸せになりますように」
「私のことをお願いしてどうするんですか。 自分のことをお願いしないと」
「いいの! 私は、おねえに幸せになって欲しいの」
馬鹿な妹を持つと苦労する。 成瀬はよく、口癖のようにそんなことを言っていた。 そんなことは思ったことはなかったけど、今このとき、それが分かって、理解できて、それで。
それで、また泣きそうだ。
「リリア、帰りにコンビニ行きますか? 今日はちょっと良い日なので、私がなんでもひとつ買ってあげます!」
「わ! 本当に!? さっすがおねえ! 私の下僕!」
「下僕になった覚えはありませんが。 笑顔で嬉しそうに私のことを下僕にしないでください」
「ふふ、ふふふ。 おねえ大好き!」
抱き着かれ、倒れそうになる体を支える。 リリアとこうして話していると、いくらか気持ちは楽になった気がした。
「そういえば、おねえは何も頼まないの? シューティングスターに」
「私は神頼みなんて大嫌いです。 それに、頼んだところで叶う保証もないですし。 自分の力でなんとかしますよ」
「わぁ……おねえかっこいい。 私もいつかおねえみたいな魔人になりたいなぁ」
「そこは天使と言ってくださいよ。 まぁ……リリアは大丈夫ですよ。 それに、私みたいになったら駄目です」
「そうなの?」
「そうです。 私の失敗は……」
私の失敗は。
それはきっと、友達と呼べる人たちに会ってしまったことだ。 会わなければ苦しむこともなかった。 会わなければ泣くこともなかった。 会わなければ寂しくなることもなかった。
会わなければ。
「挨拶。 こんばんはクレアさま。 お元気そうでなによりです」
その声は、私の正面から聞こえてきた。