柊木雀の課題 【18】
「ええ、本題です。 わたくしは今日、先ほど、この柊木様の課題は早急に片付けるべきだと認識しましたので。 時間ももうありません、陽夢様と西園寺様の問題も放置するわけにはいきません。 なので、わたくしは今日にでも解決するつもりです。 柊木様の問題を軽視しているわけではありません。 ですが、早くしなければ本当に忘れてしまうのです」
「ん? エレナ、柊木のことは分かる。 けど、忘れるって何をだ?」
俺が言うと、エレナは表情を曇らせた。 滅多に暗い顔をしないエレナがそうしたのだ。 当然俺は、何かマズイことでも言ったのかと自身の発言を思い返す。 が、エレナは続けた。
「陽夢様、やはりわたくしの考えは正しいようです。 日に日に、そのことすら忘れておられるのですよ。 陽夢様、前にわたくしとしたお話は覚えておりますか?」
「エレナと……」
いや……そうだ。 エレナと俺は話をしている。 何かを忘れているというそのことについて。 そして、エレナが誰かの穴埋めとして今ここに居るということもだ。 どうして俺は、それを忘れていた?
……それも簡単な話。 そのこと自体が事実へとなりかけているんだ。 この、今ある形が本来あるべき姿だと塗り替えられている。 その証拠としてのこれだ。 今まさに、俺はそのこと自体を忘れかけていた。
「なるほど。 つまり、私が感じている違和感もそういうことだな。 成瀬の言動然り、私自身が感じていること然り」
「えっと……どういうこと、だろ? 成瀬くんが何かを忘れているの?」
柊木としては思い当たることがあったのか、そして西園寺さんは状況を全て理解できておらず、それぞれがそう口にした。
「説明する。 良いよな、エレナ」
「はい、構いません。 わたくしとしては、この不自然な状態は受け入れられないので」
エレナは決して言わない。 この状況を本当は心のどこかで楽しんでいることも、嬉しく思ってしまっていることも。 俺たちの輪というものに入れていることを幸せに感じているんだ。 同時に、失うのも怖いと思っていることが俺には分かるけど、エレナは決して言わないのだ。 それがこいつの優しいところで、そして馬鹿なところだ。
それから、俺は二人へと向き直り、今起きている異常についての説明をした。 俺たちが、誰かを忘れているということ。 そしてその忘れられた誰かの代わりに、エレナが穴埋めとして俺たちの輪にいること。 その俺とエレナが行き着いた答えを出来る限り伝えると、二人ともにやはりというか、なんとも複雑な表情へとなったのだ。
無理もない。 二人にとってはもう、エレナも大切な友達なのだから。 居るのが当たり前で、居ないのは受け入れられない。 そんなことは分かっている。 分かっているけど……事実として、忘れてしまえばそれを受け入れてしまうのだ。
「分かった。 どうやらその記憶喪失の異常とやらが、事態をややこしくしているんだな」
「ああ、そうだ。 てか、エレナは俺よりしっかり覚えてたな。 エレナに言われなかったら、すっかり忘れててもおかしくなかったぞ」
「わたくしは基本的に異なる者ですので。 それこそ記憶の捏造は見事に効いてしまっていますが、継続しての塗り替えはある程度進行が遅いのかもしれません」
なるほどね。 ってなると、気になってくるのはエレナが最初に言っていた言葉か。 柊木の問題を早急に解決しなければならない理由。 エレナの言い方からして、今日何かが起きたというのが一番そうだと思えるが……。
「ねね、それならエレナちゃんが言っていた雀ちゃんの問題を早く頑張らないといけない理由って、なんだろ?」
と、人が考えている横で率直に答えを求める西園寺さん。 いやまぁそれは正しい行動だけど、もうちょっとこう、解いていく過程ってやつを……。 だけど、今回の件にそんな余裕はないか。 省けることは省いて、答えにすがってでもやっていかなければならない。 明確に存在するタイムリミットは、刻々と迫ってきているのだ。
「先ほど、柊木様が陽夢様にこう、ばしっと手を出したときのことです」
エレナは言いながらジェスチャーで表す。 エレナ的にはさっき俺が柊木にやられた裏拳を再現しているのだろう。 しかし、どう見ても盆踊りだ。 まだ三月なのになんで盆踊りしてるんだろうなこいつってくらい盆踊りだ。 祭りの音が聞こえてきそう。
そういや、エレナは祭りに行ったことがないと言っていたっけ。 あれ……エレナ、だったよな? 確か、エレナだったはずだ。
「陽夢様は仰ったではないですか。 柊木様に対して、あいつが乗り移ったのかと」
「あいつが……? いや、そうだ。 確かに、言ったな。 俺は」
言った。 それは覚えている。 だが、誰のことを指して「あいつ」と言ったのかが分からない。 あの一瞬は確実に頭の中にその人物は居たはずなのに、最早輪郭すらなくなってしまっている。
「陽夢様、無理に思い出そうとしない方が良いですよ。 無理矢理よりも、切っ掛けを探すのです。 そのことから何か衝撃があれば、それは思い出すということの証拠にもなるのです。 ですので陽夢様、西園寺様、柊木様。 もしも手掛かりになりそうなことがあれば、思い出したことがあれば、教え合いましょう」
エレナは俺たち全員の顔を見渡して、そう言う。 それに首を振る者なんてのは当然いなく、全員が頷いた。
「そして、それを言ったということはどこかで覚えているということです。 思い出せる可能性はあるということです。 それが本当に消えてしまうその前に、思い出すべきなんですよ」
だからこそ、エレナは柊木の問題を終わらせにかかっている。 はっきりとした手段をエレナは持ちあわせていないのに、それでも解決に乗り出しているのだ。 そのやり方はとてもエレナらしく、だからこそ危うい。 物事の終わらせ方、そしてそこまでの筋道を立てるべきだと考える俺と、とりあえずは目的を自分に課すエレナ。 ローリスクローリターンを取る俺と、ハイリスクローリターンを取るエレナだ。 普通に考えればそれは馬鹿で、考えなしで、先を見据えていないだけ。 でも、エレナがそう行動を起こす根底には「どうにかしたい」という想いが強くあるのだ。 あの妄想の世界でだって、こいつはいつでもそうだった。
そして、そんなやり方が俺は嫌いではなかったりする。 むしろ好きなくらいだ。 そういう、突発的な考えだけで動く奴は。
「分かった。 西園寺さん、良いか? 柊木のこと」
「うん。 エレナちゃんのお話も、成瀬くんの言いたいことも分かったよ」
俺は事前に伝えていた。 西園寺さんに、俺が米良から伝えられたことを。 元よりそれは今日話すつもりではあったし、西園寺さんもそれは一緒だろう。 予想外だったのは、それを言い出したのがエレナということと、そして俺が誰かを忘れているということを忘れかけていたということだ。 花見をする前までは確かに分かっていたはずなのに、いつの間にか頭の中から当然のように消えている。 これが認識のすり替えという奴だろう。
「雀ちゃん、わたしと少しお話をしない?」
西園寺さんのその言葉に、柊木は西園寺さんへと体ごと顔を向ける。 正面から向き合う形でお互いを見ている二人に、俺とエレナが言えることは何もない。 今回のことは最初から西園寺さんに任せるつもりだった。 俺では伝えられない言葉と想い、それらを一番伝えられるのは西園寺さんだと思ったから。 俺には俺で、大事なことがある。 やらなければならない、思い出さなければならないことが。 どうしてか、それは俺自身も何があっても思い出したかった。 俺にとってもそれは、大切なことだと思った。 だからきっと、きっと俺は。
「ああ、分かった。 ここで断って背を向けるのは簡単だ。 だが、そうしても事態が好転しないことくらいは分かる。 物分かりが良い性格だからな、私は」
少しだけ笑って言う柊木に対し、西園寺さんは優しそうに微笑む。 そしてひと言、たったひと言だけを柊木に向けて言った。
「あなたに微笑む。 雀ちゃん、この場所って鶉ちゃんと良く来ていた場所なんだよね」
「……その言葉。 いや、そうだな。 そもそも私があいつに教えてもらったんだよ、ここは。 桜が見れる時期になると、毎日のように来ていたんだ」
それだけの言葉で、柊木とその妹がどれほど仲が良かったのかが伝わってくる。 そしてそんな仲の良い妹を失ってしまった柊木は、半身でもなくしたかのような感覚になったのだろう。 だからそれを埋めるしかなかった。 それが、柊木が演じる柊木鶉だ。
「雀ちゃん、ここに咲いている桜、山桜って言うんだよ。 それでね、桜にも種類でいろんな花言葉があるの。 山桜の花言葉は、わたしがさっき言ったように」
西園寺さんがそこまで言ったとき、ふと言葉を漏らしたのは柊木だ。 その言葉は、俺たちの耳にも届いてくる。
「……雀、覚えといてね。 私はいつだって笑ってやるんだから。 それで、それは雀に向けてのものだから、よろしくね」
演じているわけではなく、柊木は自身の言葉でそう呟いた。 俺は見ているだけだけど、それだけだったけど、それが柊木妹が柊木に向けて言った言葉だということくらい、すぐに分かった。
「だから、笑っていたのか。 痛かったはずなのに、苦しかったはずなのに、私に向けて笑っていたのか?」
「それもあると思う。 けど、もうひとつ」
西園寺さんは柊木の肩を掴み、その顔を真っ直ぐに見て言う。 少しだけ震えている柊木の声を包むように、そっと。
……それより、西園寺さんは一体どうするつもりなんだ。 そんなことが分かったところで、柊木は余計に苦しくなるんじゃないのか?
「陽夢様の読みはいつも正しいですよ」
ふと、エレナが俺の横で呟いた。 視線を西園寺さんたちから外しエレナへ向けると、エレナは二人を見つめ、笑っていた。 笑う、というよりかは微笑むような、安心しているような、そんな表情だ。
「どうだかな」
俺は素っ気なくそう返し、エレナから視線を外す。 が、視界の隅でエレナがこちらに顔を向け、そして笑っているのが見えた。 からかっているつもりか、俺を。
だが、ここでエレナに向けて何かを言っても仕方がない。 俺はそのことについては後回しにし、視線を元々向けていたところへ。 西園寺さんたちの元へと向けた。
「きっとね、もうひとつの意味もあったんだよ。 桜の花言葉、フランスではこう言うのもあるから」
そして、西園寺さんはその言葉を柊木へと向け、言った。
「私を忘れないで。 それが、桜に込められた花言葉だよ、雀ちゃん」
「私を忘れないで……? そんなの、言われなくても私はしている。 あの日から、一日たりとも一瞬たりとも忘れたことなんてない」
だろうな。 そうだろう。 それについては正直、良い言葉ではあるが柊木に対しては逆効果じゃないのか。 柊木は忘れていたのではなく、忘れられなかったのだから。 どんなときでもそれを覚えており、どんなときでも苦しんできた。 自責の念に駆られ、後悔し続けてきた。 そんな柊木にその言葉は……。
「……ずっと、ずっと覚えている。 あいつの顔も、声も、仕草も、口癖もだ! なんなら演じてやろうか!? 今ここで、鶉を! そうすればあいつは生きていることになる。 この瞬間に、ここに生きていることになるんだッ!!」
「雀ちゃん、それは駄目だよ。 そんなことをしたら疲れちゃうから」
「疲れる……? 誰が? 私がか? それとも夢花がか? 成瀬か? エレナか?」
柊木は西園寺さんの手を振り払い、力強く肩を掴み返す。 西園寺さんのそれとは正反対のような、そんな乱暴な掴み方だった。 俺はそれを見て一瞬止めるか悩んだが、横でエレナが手を出して制止してきたのを見て、それも断念する。
そうだな、俺は任せると決めたんだ。 そのくらい、信じてやらないと。
「その誰でもないよ。 疲れるのは鶉ちゃんだよ」
「……鶉が?」
柊木の言葉に西園寺さんは頷いて、俺の方に顔を向ける。 そして、言った。
「成瀬くん。 成瀬くんは、わたしのことが頭から抜け落ちることってあるかな?」
……ここで俺に振るのか。 建前で言えば一秒だって忘れたことはないと言いたいところだが、雰囲気からして本音で言えってことだよな、これ。
「あるよ、そりゃ」
「あはは、そうだよね。 なら、雀ちゃんのことは? エレナちゃんのことは? 真昼ちゃんとか、寝々ちゃんは?」
「それもある。 ずっと覚えているってことなんて、ないかな。 俺の場合はすぐに忘れることが多い気がする」
「うん、そうだね」
西園寺さんは「ありがとう」と付け足し、顔を柊木へと向けた。 俺もそれに合わせて柊木へ顔を向けると、そこには西園寺さんの意図が汲み取れていないのか、困惑しているような柊木の姿。 無論、俺もそれは一緒だ。
「何が言いたいんだ、夢花」
「わたしが言いたいのは、雀ちゃんは勘違いをしているってことだよ。 それに、成瀬くんもかな」
……俺も? 勘違いって、一体何をだろうか。 西園寺さんから見て、俺と柊木がしている勘違いとは。
「だって、それは忘れるってことじゃないんだもん。 だから雀ちゃんも成瀬くんも勘違いをしているんだ。 たとえば成瀬くんがパズルをお家でやってて、そのときにわたしたちのことを考えていなかったりしたとして」
いや、パズルをしているときは考えてるけどな。 主に西園寺さん可愛いなとか、天然だなとか、そんなことをちょくちょく思いながらパズルを嗜んでいる。 が、西園寺さんのたとえ話にそんな本音をぶつけても仕方がないな。 ここはそういうことにしておこう。
「それでも、わたしたちのことを忘れたわけじゃないでしょ? 忘れたわけじゃなくて、仕舞っているんだよ」
「……忘れたわけじゃなくて、仕舞っている」
「そうだよ。 いつまでもずっと出しっぱなしだと、わけが分からなくなっちゃうから。 しっかり大切に仕舞っておいて、いつでも引き出せるようにしておくの。 だからそれは忘れたんじゃなくて、仕舞っているだけなんだよ」
その言葉は、柊木だけでなく俺にも届いていた。 忘れたわけじゃなく、仕舞っているだけ。 頭の中から抜けてしまうのは、忘れたということではない。 どれだけ大切にしていても、常に考えていたらわけが分からなくなってしまう。 それらひとつひとつの言葉は俺にも聞こえていた。 届いていた。
考えれば考えるほど、自分がつらくなる。 そして思われたその人もつらくなる。 たったそれだけのことなのに、俺たちは考えてしまう。 少し考えれば分かるそのことに、いつまで経っても気付かず、気付けない。
少なくとも、誰かに教えてもらうそのときまでは。
「私は、楽をしてもいいのか」
「楽……とは少し違うけど。 雀ちゃんは鶉ちゃんのことを忘れるなんてこと、ないと思うな。 考えなくなっても、他の楽しいことをしていても、それは絶対に心のどこかにあるんだよ。 雀ちゃんの心の中は今、散らかっちゃっていると思うんだ。 だから、どうすれば良いのか分からなくなっちゃってる。 まずはその大切な、忘れちゃいけないことを仕舞ってみよう? ずーっと出されたままだと、鶉ちゃんも疲れちゃうから」
「……そう、か」
西園寺さんは言い、柊木の手を掴む。 すると、柊木は何かを思ったのか、辺りに咲き誇る桜を眺めた。 はらりと花びらは舞い落ち、それはまるで桜の花びらが柊木に何かを伝えているようにも見える。
思うことと、思われること。 それはきっと大切なことだけど。 それでも人は常に人のことを思うわけではない。 それをしてしまえば、良好な関係を築くことはできないだろう。 適度に思い、適度に思われる。 そんな適当なことを適度に、適切にしながら俺たちは生きているのだと、そう知った。
「……鶉、私もいつかそっちに行くよ。 この先ずっとあとの話だけど、お前は待っててくれるよな。 そうしたらまた桜を見よう。 寂しがりのお前を待たせるのは心苦しいけど、待っててくれ。 私は今、良い仲間に出会えたんだ」
柊木は一際大きな桜の木に向けて言う。 その言葉は風に乗り、西園寺さんの耳に、エレナの耳に、俺の耳に、そしてきっと、柊木鶉の耳にも届いただろう。
だって、気付けば柊木の手の甲にあった刻印は消えていたのだから。
想うこと、想われること。 そのことの意味を深く知った、三月の下旬の出来事だった。