わたしはただの消える存在だった。
全ては白く、全ては還る。 そうして残ったのは空白だった。
全ては甘く、全ては儚い。 そうして残ったのは優しさだった。
全ては悲しく、全ては夢となる。 そうして残ったのは言葉だった。
全ては消えて、全ては消え去る。
過去と未来と現在と。 繋がりは切れず、残り続ける。 あなたが経験したことも、あなたが残そうとしたことも、全てはやがて消えてしまう。
だから、わたしが覚えよう。 あなたが忘れてしまっても、わたしが覚えていよう。 あなたが思い出して、気付いて、知って。
そうやって思い出すまで、あなたのことはわたしが仕舞っておこう。 あなたが思い出したそのときに、わたしは消えてしまう。 だけど、怖くはないよ。
わたしが消えても、あなたはもう忘れずに覚えていてくれるから。 だからもう少しの間だけ、あなたの記憶はわたしが大切に守るから。
この世界たちの真実に、わたしのことに、あなたのことに。 あなたが気付く、その時まで。
「や。 お目覚め?」
目を開けると、目の前に居たのは見知った奴だった。 かつて、俺が会ったことのある奴だ。 確か、あれは……異能の世界でだったか?
「米良……」
米良、明麻。 そいつが、そこには居た。
「短い間だったけど、気を失ってたみたいだ。 大丈夫? 成瀬くん」
「……俺は、どうして。 確か、校舎に足を踏み入れて。 それで」
――――――――それでどうした?
記憶が、ない。 ここは恐らくその校舎ではあるけど、どうしてここに居るのかが分からない。 校門をくぐってからの記憶が全て、抜け落ちている? 一体、何が起きた?
「成瀬くん。 成瀬くんは、ルーザちゃんと戦ったんだ。 その前にも一戦あったんだけどね。 正堂正護と、忍者と」
「俺が? 戦ったのか? そんなの、記憶にないぞ」
忍者を倒したのは、覚えている。 しかし、その正堂という男は誰のことだ?
気持ちが悪い。 それが事実だとして、その記憶がどうして抜け落ちているんだ? まさか、米良が何かをした……?
「腑に落ちない顔だね。 まー、無理もないよ。 今から状況を手短に説明するよ?」
「……ああ」
俺は階段に一番上へ腰をかけ、米良はその階段から一歩ずつ降りながら、話を始める。
「まず、成瀬くんは校庭に居た正堂くんと戦った。 結構苦戦していたみたいだけど、これはどうにかなったんだ」
……まるで、誰かの話を聞かされているみたいだ。 それが俺自身の話だということが、にわかに信じがたい。
「そのあとは?」
「うん。 そのあとは、ルーザちゃんと成瀬くんが戦った。 問題が起きたのは、そのときだね」
「問題? ってつまり、俺が負けたってことか?」
「……あはは。 信じられないって顔だ。 面白いよ、成瀬くん。 勝つ自信があったんだ」
そう笑われると、なんだか恥ずかしい。 だけど、勝つための方法は考えてあった。 ルーザがどんな魔法師なのかは分からないが、俺の中に作られた殺意をうまいこと使えれば、勝てるという考えだ。 あのときの殺意を妄想し、戦う。 それができれば、問題なく勝てるはずだという考えはあった。
「まー、勝負には勝ったよ。 けれどね、ルーザちゃんは『引き分け』を望んだんだ。 小型の魔力封入型爆弾。 それを使って、自分もろとも吹き飛ばした」
「待て。 それで俺は吹っ飛んで、記憶を失ったってことか?」
「いいや、違う。 吹き飛んだのは記憶じゃなくて、体の方だよ。 成瀬くんの右腕と左足が、吹き飛んだ」
俺の、右腕と左足が? 米良のその言葉を聞き、俺は慌てて自身の体を見る。 だが、そこにあるのはなんの変哲もない俺の体だ。 右腕も左足も、しっかりとある。
「……幻覚とか、夢の話か? それは」
「ううん、実際にあったことだよ。 だから、わたしがこうして来たんだ。 ここで終わったら、全てが台無しだから」
全てが台無しって……なんの話だ。 言い方がまるで、何かを果たそうとしているような言い方だ。 こいつ……一体何者だ。
「だけど、普通の魔法じゃ無理だった。 治癒魔法ってのは、基本的に傷を癒やすものだ。 でも、成瀬くんのそれはダメージが多すぎた。 右腕と左足の欠損、それに体内からの出血、骨折。 血を止めてのとりあえずの応急処置でさえ、する前に死んでしまうほどのダメージだったんだ」
「そんなに……。 なら、俺はどうして生きている? 米良が何かをしたってのはそうだとして……まさか、俺の記憶がないのってそれが原因か?」
「そ。 わたしがしたのは、巻き戻しの魔法。 それこそぶっ飛んだ魔法だ。 成瀬くんの体を校舎内に足を踏み入れた瞬間まで巻き戻した。 その副作用で、成瀬くんの記憶もそのときまで巻き戻ったんだ」
「俺の、記憶が。 ……そういうことか」
俺は言いながら、頭を押さえる。 そんなことをしても、失ったそれは思い出せない。 断片もなければ、そこに何かがあるという感覚すら、ない。 綺麗にその部分だけが抜け落ちている。
「成瀬くん、大丈夫だよ。 いつか、思い出せる。 わたしがしっかりと覚えているから、大丈夫」
「……ってことは、米良は知っているってことだな。 教えてくれないのは、嫌がらせかなにかか?」
俺が言うと、米良はその表情を変えた。 苦しんでいるような、そんな顔へ。
言い過ぎた……よな。 米良は俺を助けてくれたんだ。 それなのに、今の言い方はさすがにない……か。
「ごめんなさい。 それは、わたしから言うことはできない。 成瀬くんが自分で思い出さないといけないことだから。 この妄想の世界はね、言わばイレギュラーなんだ。 本来、成瀬くんはここに来るはずではなかった。 そして思い出すはずもなかった。 そんな通るはずの道を逸れたんだ」
「米良? お前は、何を言っている? イレギュラーって、ここに来るはずじゃなかったって、どういうことだ?」
米良は俺の言葉に、残された数段の階段を一気に飛び、俺の前へと立つ。 そして、答えた。
「いつか、分かる日が来るよ。 成瀬くん、わたしの話は終わり。 やらなきゃいけないこと、あるでしょ?」
にっこりと笑って、米良はそう言った。 何を見ているのか、分からない瞳で。
「……ああ、そうだ。 けど、教えてくれ。 お前は何者だ?」
俺のその問いには、米良は素直に答えた。 まぁ、その答え自体は要領が飲めない答えだったけれど。
「わたしは異常を取り除く者だよ。 ただ、それだけだよ」
「巻き戻しの魔法なんて、掟破りの魔法を使ってるのにか」
「うん、そりゃそうだよ。 わたしにとっては、成瀬くんが一番だから。 前に言ったろ? わたしは、成瀬くんたちの味方だって。 掟や規格や常識、法則や法律や認識、そんなルールなんて、関係ないんだ」
米良は言うと、俺に背中を向ける。 そして歩き出した。
「成瀬くん、この世界から去ったとき、君はまたわたしのことを忘れる。 だけど、それもわたしは覚えている。 いつかやってくる最後のときまで、わたしは覚えている。 成瀬くん、今度は大丈夫だ。 絶対に、正しい答えは見つかるよ」
「お前、何を言って――――――――くそ、またか」
言いながら曲がり角に姿を消す米良の後を追うも、既にそこに米良の姿はなかった。 一体……なんだってんだ。
「っと、それよりも」
ここに辿り着くまでのことは忘れてしまったけれど、しなければならないことは思い出した。 俺が、何が何でもやり遂げたかったことだ。
「エレナッ!」
思えば長く、思えば短い旅だった。 一人の少女に連れて来られた、妄想の世界。 妄想が現実となり、妄想が獣となり、妄想が生まれる世界。
言わば、思いが形となる世界だ。 そんな世界に連れて来られ、俺は当初こそ協力する気なんて皆無だった。 俺にとっては、全く関係のないことだと思ったからだ。
だけど、少女はそれでも戦うと言った。 一人でも、世界を守りたいから戦うと言った。 俺はもしかしたら、そんな姿と言葉を見聞きして……情が移ったのかもな。 もしかしたら俺が守れる初めての物ではないかとも、思ったんだ。 しかし、結局は守られてばかりだった。
そう、思っていた。
エレナは俺に何故か恩を感じていて、俺のことを知っていた。 そして、俺でなければ駄目だとも言った。 初めて、人に必要とされた気がしたよ。 そんな真っ直ぐな言葉、俺は初めて聞いたよ。
だから、俺もそれには真っ直ぐ返さないといけない。 それをするまで、死なれて堪るか。 消えられて堪るか。 そんなの、俺が認めない。
エレナは、俺が数日間の間触れ合った奴だから。 この世界ではなく、元の世界で。 俺は確かに、エレナと会っている。 あいつは変わらず泣き虫で、甘えん坊で、それでやけに俺に懐いてくれて。 俺も毎日、あいつとは会っていて。
諦めてやるものか。 エレナがなんと言おうと、俺は諦めない。 約束の内、どうやら片方は破ってしまうけれど。 それでもエレナだけは救いたい。 救わせて欲しい。
そして、あのときの間違えを正したい。 俺が伸ばし切れなかった手を伸ばしたい。
そうだろ、エレナ。 そうだろ、猫。
あの日、俺が行き帰りのときに毎日面倒を見ていた猫、なんだろ。 銀色の毛で、銀色の瞳で、俺がつけてあげたリボンを今でも大切そうに付けていて。
姿は変わってしまっても、本質は変わってねえよ。 エレナともう一度やり直せるとしたら、今しかないんだ。 世界を捨てて、世界を見ろ。 世界を殺して、世界を翔べ。
それがどれだけ無責任なことでも、罪科だったとしても。 そんなもん、知るかの一点張りだ。 俺はいつだって、俺のやりたいようにやるんだ。