少女は日記に妄想を綴った。
「ふハッ! よっしゃ、おっもしれぇ答えだ成瀬。 あの男は得体の知れない魔法を使う。 テメェじゃ俺様の戦いの足手まといだ」
「……牙竜?」
俺の言葉に真っ先に反応をしたのは、牙竜だった。 笑い、奥に座る男を顎で指し、牙竜はそう言った。 その言葉の意味がすぐには理解できず、俺は牙竜のことを見る。
「なにボケっとしてんだ。 世界を終わらせんだろ? それには賛同できねーが、残念ながらこいつらにも賛同できねー。 だから、お前とやり合う気はねぇし理由もねぇ。 俺様がここでゴミ共の相手してやっから、お前はとっとと王女さんを追え」
「お前……」
「言っとくが、あの王女さんに情があるわけじゃねえ。 恩も感じてねーし、生きてても死んでても正直どっちでもいーんだよ。 ただ、王女さんは俺様じゃあなくてテメェを取った。 だったら、その価値がテメェにはある。 俺様が手を貸す理由としちゃ、充分だ」
かつて、エレナの隣に立っていた男は言う。 情も、恩も、感じていないとそう言って。 そんなのは誰が見ても分かるほどに嘘で、偽りの言葉だ。 ただひとつのことを除いて、偽物だ。
だけど、その気持ちだけは本物だった。 それは嘘偽りなく、絶対に正しい。 人の気持ちはいつだって正しく、嘘はない。 そしてそれは、誰に否定できることでもないんだ。 人が想い、人が悩む気持ち。 正のものでも負のものでも、一体どこの誰にそれが否定できようか。
「あいつは馬鹿で弱くて泣き虫だ。 けどなぁ、誰よりもつえー意思を持ってんだ。 俺様があいつの隣に居たとき、ずっと誰かを待っていたんだよ。 今思えば、それはテメェだ、成瀬」
「……俺を、待っていた」
「知ってるか、成瀬。 お前と居るときの王女さん、すっげえ楽しそうにしてんだぜ。 嬉しそうに、幸せそうにな。 俺様が見たことねえ顔で、笑ってやがる。 だから」
牙竜はずっと、エレナのことを王女さんと呼んでいた。 王居を追放された今でも尚、王女さんと。 今でこそ分かる、それはエレナのことを認めていたからこそ、出てくる言葉だったと。
だから牙竜は助けてくれた。 俺のことも、エレナのことも。 そうこいつに聞いても、本当のことなんて話してくれないだろうけど。
「良いか、俺様の家に行け。 リビングに小さい棚がある。 その一番下の引き出しを開けろ。 それで全てが分かる。 そこに探索魔法を使う上での道具もある。 どうせ、その魔法で場所を見つけるつもりだろ?」
「……全てが?」
「そうだ。 成瀬、最後のときくらい、お前が傍に居てやれ」
牙竜は何かを知っている。 エレナに関する何かを。 そして今この場でそれを言ったということは、俺にはそれを知らなければならない理由がある。 理由と、そして責任だ。
「ああ、分かった」
このときの俺は、その言葉の意味を俺は履き違えていた。 世界が終わるそのときに、傍にいろ。 牙竜の言葉はそんな意味ではなかったのに、俺は気付かない。 気付けない。
「さーてっと。 ハンデ戦だ、つっても……ゴミ魔法師が二人に犬っころが一匹、丁度良くもねーな」
「……ほんっとバカ。 どうしてあんたら、分からないのよ。 このままじゃ、世界が崩壊するのよ!? なのに、それを受け入れるっていうの!?」
「違う。 受け入れるんじゃなくて、受け入れられねえんだよ。 俺は、エレナが死ぬっていう現実が受け入れられないだけだ。 それが気に食わなくて、納得ができない。 筋が通ったことだとも思えない。 それで、俺がそうしたくないだけだよ」
自身の頭を指さして、俺は続ける。 嫌なことはしたくない。 忘れたいことは忘れたい。 そんな当たり前の感情に、俺は従うだけだ。 好きなことだけをして、楽をして。 自分がやりたいように、やっていく。
そんなのを許してくれる世界は、この妄想の世界くらいのものだろうよ。 俺が居た世界はさ、したいようにしてうまくいかないことが多すぎる。 失敗することが多すぎる。 必死に考えだした方法が、意味を成さないことだってあるんだ。 だからエレナ、この世界はエレナが言ったように、この上なく素晴らしい世界だよ。 だけどな、だけど。
世界を愛した人を簡単に見捨てる世界なら、そんな世界は俺が殺してやる。
「牙竜、また会おう」
「おーう。 地獄でな」
行き違えた俺と牙竜は、そうして最後の別れをする。 こいつと会うことはもう二度とない。 そんな予感めいたものが、俺の中にはあった。
敵は三人。 対する牙竜は一人だ。 いくら牙竜が最強の魔法師だと言っても、勝ち目のない戦いだなんてことは、牙竜は分かっていたはずだ。 それでも、俺に託してくれた。 エレナを助けることを望んでくれた。
この世界にも、そういう奴が居ることが……せめてもの、救いだ。
「……全員が敵か」
俺はそれから、攻撃を食い止める牙竜に背中を向け、イマージンサーカスのテントを出た。 そのままの足で牙竜の家へと向かい、やがて辿り着く。 一刻も早くエレナのもとへと向かわなければならないが、その手立てを作るために。
確か牙竜の家のリビング、そこにある棚の一番下だったな。 魔法を行使する上での道具があるはずだ。 エレナが使っていた探索魔法……あれを使えば、エレナの居場所も探り出せるはず。
「とんだ寄り道だな、本当に」
独り呟き、俺は牙竜の家へと入る。 すると少しだけ懐かしい匂いがした。 微かに残っていた、エレナの匂いがした。 あの日出たときから何も変わっておらず、牙竜の家はえらく簡素なもので、その広さも物寂しく感じてしまう。 そんな部屋の中、俺は進んでいく。
馬鹿でかい家の廊下を歩く。 冷たい空気が流れているが、エレナの匂いは確かに存在するそこを。
「……ん?」
その廊下の途中に何かが落ちていた。 無造作に置かれたそれは、少々異質な空気を放っている。
「なんだこれ」
丸い形の、石? 河原にでも落ちていそうな、ごく普通の石だ。 なんでこんなのが、牙竜の部屋に? まさか石を集める趣味なんてないだろうし……だとすると、そっち関係の物か? 牙竜が携わっている、魔法関係の代物だ。
俺は不審に思い、その石へと手を伸ばす。 触れた感触はやはり普通の石。 どこにでも落ちていそうな石だ。 だが、それを持ち上げようとしたときに異変を感じた。
「……おっも。 ただの石じゃないな」
大きさは丁度、手の中に収まるくらいの大きさだ。 だが、それはその見た目からはあり得ないほどに重かった。 とてもじゃないが、片手では持てないくらいに。
別にそれは俺が非力だからというわけではない。 両手を使ったとしても、精々数センチ浮かせることができるかどうかくらいの重さなのだ。
「って、今はそれどころじゃねえな」
この石のことも気になるが、今はそれよりも優先するべきことがある。 牙竜の言葉を信じると、棚に魔法道具が仕舞ってあるはずだ。 あれを使って、あの展望台で探索魔法を使えばエレナの居場所は判明する。 恐らくは、忍者がエレナの近くにはいるはずだ。 あいつとの戦いも、避けることはできないだろう。
思いながら、時計を見る。 時刻は既に、牙竜と別れてから一時間ほどは経過していた。 ここも、その内危険になりそうだな。
ルーザもあの男も、俺を追ってくるはず。 放置なんてことは、絶対にしないだろう。 単体で遭遇できればまだ良いが、向こうだって当然まとまって動く可能性の方が高い。 ならば、さっさとここからは立ち去ろう。
「これか」
部屋の片隅に置かれた棚の一番下。 そこに綺麗に並べられ、エレナがあの探索魔法を行使するときに道具としていた紙と地図が置かれていた。 そして、一冊のノートも。
「……使い方でも書いてあんのかな」
表紙には表題なんてものは存在しない。 が、そこに描かれているなんらかのキャラクターが、エレナの物だということを俺に認識させる。
一応は、確認だ。 そう思い俺はそのノートを手に取り、開く。 魔法の使い方については、エレナの動作を見ていたから問題ない。 エレナが唱えていた呪文も頭には入っている。 しかし、他に何か必要なことがあったときのことを考えて、俺はそのノートに目を通した。
「なんで、こんなのが。 ……ああ、俺がぶっ倒れたときに、置き忘れていたのか? それで、牙竜はここに入れたのか。 全部が分かるってのは、なるほどってところだな」
呟いて、魔法道具を取り出す。 ノートは大切に、元の場所へと戻した。 これを持って行って、もしも戦いをしている内に破れでもしたらエレナに怒られてしまいそうだ。
「……馬鹿だな、くそ」
ノートを見た俺は、走り出した。 脚力の強化をイメージして、街中を飛ぶように駆け抜ける。 目指す場所は展望台だ。 俺は今、あいつに会って言わなければいけないことがある。 いや、言わなければいけないことが、できた。
それには、そのノートには、こんなことが書いてあったんだ。
戌月、十六日。
ようやく、成瀬様と会えました。 わたくしはずっと、成瀬様にお会いしたかった。 会って、言わなければならないことがあったから。 お伝えしなければならないことがあったから。 成瀬様はやっぱり、お優しい。 わたくしの無理な頼みを聞き入れてくれました。 嫌な顔……は少ししていたかも知れないけれど、それでも聞き入れてくれました。
成瀬様はわたくしの作り出したクッキーを食べて、美味しいと仰ってくれたんです。 良い力だと、仰ってくれたんです。 その使いものにならない妄想のことを……褒めてくれたのです。 泣きそうになってしまいましたが、堪えました。 成瀬様は前に「良く泣く奴だな」と仰っていたので。 我慢しようと思ったのです。 いつまでも泣き虫では、居られません。
戌月、十七日。
成瀬様が陽夢様になりました! 名前呼び、ちょっと嬉しいです。 すごく嬉しいです。
ええっと……その陽夢様が寝ているときに、少しだけ触れてみました。 お顔と、その手を。 あのときから何も変わらずに、暖かいものでした。 陽夢様のお手は、いつだって優しい。 陽夢様のお顔は、いつだって前を見ている。 だから、お料理も上手なんですかね? わたくしも、陽夢様のためにお料理を頑張らないと。
今でもまだ、恩返しはできておりません。 それどころか、その返さなければならない恩は増え続けてしまっています。 このままで、良いのでしょうか? 良いはずはないです。 本来ならこの世界でのことも、わたくしがなんとかしなければならないのに……陽夢様のお力を借りることでしか、どうにもできない状態にまでなってしまいました。
いつか、全部の恩を返さないと。
……あ! 陽夢様がわたくしの探索魔法を褒めてくれたのは、とても幸せでした。 魔法を人に褒めてもらえたのは、生まれて初めてです。
戌月、二十二日。
陽夢様は、いつもわたくしのお買い物に付き合ってくれます。 傍に居ないと大変だろ、とそう言って。 寂しがりのわたくしにとっては、幸せです。 ですが、これでは恩が増えてしまう一方ですよね……どうしましょう。
それに、わたくしの所為でゾンビの妄獣にも襲われましたし……申し訳ありません。 ついつい陽夢様のことを考えてしまうのは、悪い癖ですよね。 しっかり、しないと。
そんな風に作ってしまった罪も、恩も、陽夢様にはどうにかしてそれをお礼という形で返さなければなりません。 それがわたくしの役目で、それがわたくしの望みですから。 それならこんなことに巻き込むな、と陽夢様だったら言いそうですね。 それはそうです。 分かっています。
ただ、わたくしは陽夢様とお話がしたかっただけなのかもしれません。 陽夢様と、手を繋ぎたかっただけなのかもしれません。 陽夢様とお会いしたかっただけなのかもしれません。
やっぱり、わたくしはワガママです。 結局は全て、自己満足なのかもですね。
戌月、三十一日。
陽夢様は、目を瞑ったままです。 わたくしの所為で、大怪我をされてしまいました。 恩を返すどころか、恩を仇で返してしまいました。 こんなはずではなかったのに、陽夢様にこんな目に遭って欲しいわけではなかったのに。
全部が、わたくしの所為です。 陽夢様と会いたいという願いそのものが、間違いでした。 わたくしはずっと、独りが正しかった。 その力がない時点で、それに気付くべきだった。 独りで戦い、そして独りで死ぬべきだった。 わたくしの間違いはきっと、一番最初に陽夢様とお会いしたときから。 あのとき、陽夢様の優しさに甘えてしまったから。
せめて、陽夢様だけは助けます。 わたくしがどうなろうと、死んでしまおうと、消えてしまおうと。 陽夢様だけは、生きて元の世界に戻さなければなりません。 陽夢様の帰りを待っておられる方が、そこには沢山居るのです。 待つ人が居ないわたくしとは違い、陽夢様には沢山おられるから。 わたくしは、独りで大丈夫。 こう見えて、結構我慢強いんですよ。
亥月、一日。
ようやく、陽夢様が目を覚ましてくれました。 わたくしの魔法がこうして役に立てたことが、せめてもの救いです。
ですが、これは恩を返した内には入りませんよね。 種を蒔いたのがわたくしならば、その責任を持つのが当たり前です。 わたくしの所為で怪我をされたのだから、わたくしがそれを治療した。 当然のことです。 恩を返すだなんて、おこがましいにもほどがあります。 クッキーでは……やはり駄目ですよね。 陽夢様に対するお礼……何が良いのでしょうか。
……しかし、困りました。 これではわたくしの目的が果たせそうにありません。 結局、陽夢様には恩を借りっぱなしではないですか。 何一つ、それを返せていないではないですか。
せめて何か、何かを陽夢様にしてあげたい。 わたくしの命を差し出しただけでは到底足りません。 わたくしの命など、陽夢様のそれには到底及びません。 命の受け渡しをした所為で、わたくしはそう長くはないですから……何か、考えないといけませんね。
あ、そうでした。 そう言えば、陽夢様はわたくしの正体にはどうやら気付いていないようです。 わたくし自身、自ら言うことはないですから……もしかしたら、最後まで気付かれずに済むのかも知れません。 孤独なわたくしには、お似合いな最後かもですね。
恐らく、この日記が最後です。 精々……持ってもあと一週間程度の命です。 陽夢様と一緒に居てもそのくらいしか生きられません。 陽夢様から逃げ出してしまうのも、少し意地悪ですがありかもしれないですね。 陽夢様はお優しいから、こんなわたくしでも死んでしまえば悲しんでくれると思います。 それは少し、嬉しかったりするかもしれません。
困りました。 書くことがなくなってきちゃいました。 もう、この日記に書くことはないかもしれません。 だから。
だから最後に。
最後の最後に、ここにだけは書いておきましょう。
陽夢様、わたくしは……エレナは。 陽夢様のことが、好きでした。 ごめんなさい、陽夢様。 本当に、ごめんなさい。 そして、こんなわたくしのワガママに付き合って頂き、ありがとうございました。
日記の最後の文字は、滲んでいた。 筆は、震えていた。 文字だけでは気持ちなんて伝わらない、俺はそう思っていた。 今、たった今、あの日記を見るまでは。 今までずっと、俺は思い続けていた。
すげえよ。 その認識が覆されたのは、生まれて初めてだ。 気持ちはどんな形でも、変わらずそこにあると知れたのだから。 どんな伝え方でも、これほどまでにしっかりと伝わるのだから。
俺は分かったよ、エレナのこと。 そういうことだったんだ。
全てが、繋がった。 エレナが弱っていたことも。 俺に何かを伝えようとしていたのも。 どうして俺に、そこまで拘るのかも。 そして、落ちていたあの石も。 今この瞬間に全てを知った。
そのタンスにはもう一冊、本が入っていた。 分厚く、エレナの日記の数十倍はありそうな厚さの本だ。 それには何回も読み漁った跡があり、もっとも読まれていたと思われるページに書いてあったのだ。
禁呪、御霊移し。
自らの命を他人へと受け渡す魔法だ。 受け渡した方の命は石となり、落ちる。 そして少しの間を生きたあと、その命は消え去る。
俺は牙竜に助けられたのではない。 エレナに全て助けられたのだ。 あのとき、エレナが牙竜に伝えたのは恐らく……このことの口止めってところか。
あの馬鹿は、何も分かっちゃいない。 俺が何を恩に感じていたのかも、エレナのことがどれだけ大切になったのかも。 何も、分かっていない。
なんで謝る? なんで俺なんかを好きになった? なんで俺に命を移した? なんで泣きながらそんなことを書いているんだよ。
俺は諦めないぞ。 約束したじゃねえか、エレナを助けるって。 その約束はまだ、終わっていない。
分かったんだよ、俺はエレナが誰なのかを。 理解したんだよ。 知ったんだよ。
相変わらず泣き虫で、相変わらず甘えん坊で、相変わらず寂しがりだよ、エレナは。 あのときは、手を差し伸ばしきれていなかった。 俺がもう少し手を伸ばしていたら、エレナがこんなことになることも、なかった。 孤独を味わうことも、なかった。 辛い想いも、悲しい想いも、寂しい想いもすることはなかった。 そんなエレナの気持ちを作り出してしまったのは、俺だ。
エレナの所為じゃない。 俺の所為だ。 俺が妥協と責任逃れをしたからだ。 過ぎてしまった過去は変えられない。 エレナが受けた孤独も、痛みももう変えられない。
だけど、これからなら変えられる。 俺はその方法を知っている。 だから待ってろ、エレナ。 俺が必ず助けてやるから。 だからまた会おう。 そのときにはしっかり言ってやるから。 俺のとこに来いって。
そうだろ? エレナ。 そうだろ? 猫。 迎えに行くのが随分遅くなってしまったが、姿は全然変わってしまったが、エレナが覚えていてくれたから。
だから、また会える。 俺が思い出した今ならば、絶対にな。 道端に捨てられていたお前を助けることはできなかったけれど。
世界に殺されそうなお前を救うことは、きっとできる。