ある朝、目を開けると銀髪の少女が目の前に居た。
「成瀬様、おはようございます」
目を開けると、すぐ目の前にエレナの顔がある。 俺の隣で、同じ布団で寝ていたエレナだ。 まだ少々眠いのか、若干瞼は重そうで……。
「おはようじゃねえよ!? 昨日、別々の布団で寝るってことにしただろ!?」
慌てて布団で体を隠し、俺はエレナと距離を取る。 あとから思い返してみれば、俺の行動がどれだけ乙女チックだったのか良く分かるな。 一体あなた何をしたの!? って気分だ。
ちなみに、布団を剥ぎ取られたエレナは少々寒そうに体を丸める。 クマがプリントされたパジャマで。
「こうするのが、もっとも目が覚めると思ったのです。 それに、成瀬様の驚いている顔も見たかったので。 うふふ」
嬉しそうだなエレナさん……。 やっぱりエレナって、俺のことが嫌いなんじゃないかと疑いたくなってくる。 さすがに人間不信かな、それは。
「変なことしてないよな……?」
「変なこと、ですか? 変なこと……はっ! そ、そんなことはしていませんっ! だ、断じてっ!」
エレナは俺が何を指したのか理解し、顔を真っ赤に染め上げ、敷布団に埋もれる。 素直すぎてこの先が心配だ。
「なら良いけど。 てか、心臓に悪いからああいうの止めてくれよ……」
俺の言葉に、エレナはぴくりと体を震わせた。 そして、敷布団に埋めていた顔をゆっくり横にずらし、俺の方を涙目で見つめて、言った。
「……嫌、でしたか? 申し訳ありません、成瀬様」
「……」
そう言われると、困るんだって。 ここまで素直で、真っ直ぐな気持ちをぶつけてくる奴は本当に初めてだ……。 ここまでの好意を向けられたのもまた、初めてだ。
「あ、ご飯……朝食をお作りしますね」
言いながら、エレナは俺の横を通り過ぎ、キッチンへと向かっていく。
……ああくそ、仕方ない。 この気まずい空気だけは、嫌だ。 気にしなければ良いだけ、エレナのことを意識しなければ問題はないはず。 なんて言い聞かせ、俺はエレナの背中に声をかけた。
「まぁ仲間だしな。 隣で寝るくらいなら、別に良い。 でも、同じ布団でってのは止めてくれ。 さすがに俺も……恥ずかしいから」
「……は、はいっ!! ありがとうございます、成瀬様!」
大袈裟にお辞儀をして、エレナはくるりと反転し、再度キッチンへと向かう。 鼻歌を歌いながら、機嫌はこの上なく良さそうだ。 だけどさ、だけどな?
「エレナ、まさかとは思うけど昨日の夕飯の悲劇を忘れてないよな……。 飯は俺が作るから、大人しくしててくれ」
そう、俺がこの世界でもっともダメージを負った出来事だ。 その名も、エレナの手料理である。 最早凶器。 狂気で凶器なエレナの手料理だ。
「そ、そんな言い方……少し酷いですよ。 わたくし、昨日は疲れていたので」
「かもしれない。 でもな、良いか?」
俺はエレナの両肩を掴み、正面からその顔を見る。 相変わらず、完璧な顔立ちだ……じゃない。 そうじゃなくって、今エレナに言うべきことは。
「疲れていて、砂糖と塩を入れ間違えるのは百歩譲って許す」
典型的料理下手の要点をしっかり抑えているエレナだ。 なんだか甘い匂いに嫌な予感がした昨日の鍋だったが、見事に素晴らしく甘い鍋だった。 しかし、心が海のように広い俺はそれを許した。 というか、俺が食べるのをにこにことしながら見ていたエレナの前で、こんなゴミ食えるかとか、言えるわけがなかった。 思ったけれど口に出さなかった俺を褒めてやりたいよ。
だが、現実は想像を絶していたのだ。 俺は酷く甘い鍋に箸を入れる。 そして、具を掴み、持ち上げる。 すると、そこから出てきたのは。
恐らくは、砂糖の小瓶を閉めていたキャップである。 食べ物じゃないよこれ。
で、さすがの俺も我慢の限界で、そのよく煮込まれた甘いキャップをエレナに無理矢理食わせようとし、一悶着あったというわけだ。
「てか、あのキャップが入る過程を想像したら怖いんだけど……」
蓋が外れてドシャ。 そのままキャップも一緒に煮込んだんじゃあるまいな。
「た、たまたまですよ。 わたくし、料理には自信がありまして」
「その自信は幻想だから勘違いするな。 良いか、これから料理は俺がする。 エレナは大人しく座って待っていてくれ」
「……はい」
いくら悲しそうにされても、これだけは譲れない。 このままでは、確実に俺が死ぬ。 最早エレナの手料理は殺人兵器だ……。 努力でどうにかなるレベルを超えている。 この先、絶対に料理をしてはいけない人種だ、エレナは。
「なにか手伝いたいなら、食器出しといてくれ。 朝だから、軽い物にするけど良いよな?」
「わ、分かりました! わたくし、成瀬様の作る物ならばなんでも構いません。 例え泥水だろうと、喜んで啜らせて頂きます」
「……それはやめような?」
エレナがここまで俺に拘るというのには、やはり俺の特殊な力が関係しているんだろう。 しかし、そこまで言われると俺が騙しているみたいで嫌だな。
ま、もしもエレナが俺のことを利用しているだけだとしても、構わない。 俺自身が決めたことで、後悔はしない。
「わぁ……。 成瀬様、わたくし、こんなに美味しそうな朝食は初めてです。 これも、成瀬様の力で?」
「ただのトーストとハムエッグだろ……。 そんなのに一々力は使ってない。 てか、それよりもさ」
「本当ですか? 凄いですね……わたくし、今少し感動しています。 それと、これから毎日食べられると思うと……うふふ、幸せです」
そりゃどうも。 というかな、俺の話を聞いてくれ。 これ、多分この場でもっとも重要なことだよ。 いやマジで、本当に。 だって俺、どうすりゃ良いのか分かってないし。
「エレナ、ひとつ聞かせてくれ」
「あぁ……幸せです。 わたくし、とても嬉しいです。 あ、へ? も、申し訳ありません。 なんでしょうか?」
祈るように、両手を胸の前へとやって微笑んでいたエレナは、俺の言葉にハッとなって向き直る。 なんだか危ない人なのか……エレナさん。 けど、そう言うよりは本当に喜んでいるってことっぽくはある。 そうだとするなら、俺は嬉しいが。
「喜んでるとこ悪いな。 箸がひとつしかないのは、何か理由が?」
置いてある箸は、エレナの物だけだ。 そういや、昨日の夕飯も結局箸が俺のしかなかったな……。 てっきり昨日はエレナは鍋を手で食べるタイプの変人かと思ったが、今日のこの配置を見る限り、それは違うようだし。 まぁそうは言っても鍋に砂糖のキャップを入れるタイプの変人ではあったけどな。
「申し訳ありません、成瀬様。 わたくしの家には、箸が一膳しかないもので……。 ですので」
エレナは言い、俺の前に置いてあったハムエッグをひと口サイズに箸で切る。 そしてそれを俺の口元に。
「成瀬様、お口を開けてください。 わたくしが、食べさせて差し上げます」
「……俺、こんなパターン妄想したか?」
「妄想ではありませんよ。 わたくし、昨日言いましたよね? 成瀬様のためならば、なんでもすると。 これも、そんな些細なことのひとつです。 なので、成瀬様……あーん」
いや待て……落ち着け俺。 これは罠だ。 確かに嬉しいよ? 俺だって男の子だし。 そりゃもうめちゃくちゃ嬉しいが……明らかに罠すぎて警戒してしまう。 食べた瞬間、罰ゲームの音とか聞こえてこないよな? 大丈夫?
「成瀬様? ご飯が冷めてしまいますよ。 あ、それともお熱いのが苦手でしょうか? でしたら」
エレナは言うと、ふーふーと息を吹きかける。 ただの食べ物を冷ます行為がなんだか妙な光景だ……。 これがあれか、妄想世界の力ってやつか。 素晴らしい……じゃねぇ! 危ない、危うく間違いを犯すところだった。 ここでエレナに「あーん」をされてしまったら、恋愛経験とか皆無な俺は惚れてしまう可能性がある。 独り身舐めるなよ、惚れやすさでいったら最上級だからな。 そう考えると、女子三人が居る部活で誰にも惚れていないというのは、中々に凄い芸当だ。 西園寺さんのは……俺の勘違いだったしな。
「はい、あーん」
「あーん」
あ、やべえ。 やってしまった。 あまりに自然な流れと自然な動作、そして自然な笑顔……笑顔は関係ないか。 まぁ、やってしまった。
「うふふ、美味しいですか?」
「……まぁ、うん」
……結局、なんだか悪い気分ではなくなってしまった俺は、エレナにされるがまま、朝食を食べ終わるのだった。 一応、それで惚れることがなかったのは救いである。
「さて、今日はどうしましょうか? わたくしとしては、管理者たちの居場所をはっきりとさせておきたいのですが」
「箸を買いに行こう。 ひとつだと色々と不便すぎる」
エレナの言葉に俺は真っ先に提案する。 最優先事項だこれは。 間違いなく。
「箸、ですか。 成瀬様がそう仰られるのなら構いませんが……。 わたくしからもひとつ、お願いがあります」
さすがに、毎回毎回あれをしていたら精神が持ちそうにない。 食べさせるときにエレナは体をぴったり付けてくるしな。 エレナの奴、スキンシップが多すぎて大変だ。
にしても、エレナのお願い……なんだろう?
「お願い?」
「はい。 その、ですね。 少々失礼なことを言いますが……お許し下さい。 あの、成瀬、様。 成瀬様のことを……えっと、名前で……名前で、お呼びしても宜しいですか?」
結構な時間をかけ、エレナは顔を赤く染め上げ、そう言った。 別にそんな恥ずかしがることじゃないだろ……。 そんな風に言われると、こっちまで恥ずかしくなるって言ってるのに。 普通に素っ気なく「名前で呼んでも良いか」と尋ねれば良いものを。
「ああ、別に良いよ。 それで箸を買ってくれるっていうなら、全然良い」
「……そんなに、お箸の件は嫌でしたか? 成瀬様、もしもそのように嫌なことがあれば、すぐに仰ってください。 成瀬様が嫌がることは、わたくししたくありません。 ですので」
今にも泣き出しそうに、エレナは言う。 そんなことを言われて何かを止めろだなんて言えねえっての……。 つくづく、面倒なことになったものだ。 けど、ま。
「なぁ、エレナ。 エレナはさ、どうしたいんだ? 俺のためとか、俺が嫌がるとか、そういうのを抜きにしてだ。 エレナ自身は、どうしたいと思っている?」
人の気持ちを優先するエレナは、あまり好きになれない。 その対象が俺という人間なのが、またそれを加速させる。 俺みたいな奴にそこまで尽くす必要は、絶対にない。 それだけは言い切れる。 だから、そんな俺を抜きにしたときのエレナの気持ちが聞きたかったのだ。
しかし、エレナは言う。 俺の考えを否定するような言葉をだ。
「わたくしは、成瀬様と一緒に居たいです」
「いやだから、そうじゃなくて。 エレナの言っているのって、俺がこの世界を救えるだけの力を持っているからだろ? そいうのを抜きにして、エレナがどういう関係を築きたいかってことだよ」
「一緒です。 変わりません。 成瀬様がなんの力も持たなかったとしても、わたくしは成瀬様と一緒に居たいです。 わたくしは、成瀬陽夢という人と一緒に居たいのです。 それが、わたくしの気持ちです」
だからだ。
だから、俺は思ったのか。 エレナのことを助けたいと……思ったのか。
それは、西園寺さんやクレアや柊木のときとは違う。 こいつは俺という人間を見て、助けを求めたんだ。 俺がこの世界で持っている特殊な力にではなく、俺という一人の存在に助けを求めたんだ。
だからエレナは、俺に好意を向けている。 自分自身の気持ちに、正直なんだ。 俺とは真逆に、純粋で素直で正直だ。 そして、そんな風に言われてしまったら。
嬉しくないわけなんて、ないだろ。 泣きそうだ。 真っ直ぐな気持ちを正面から受け止めるなんて、俺にはキツすぎる。 慣れていないし、照れくさいし、言葉が詰まってしまう。
だけど。
「……ありがとう。 そんな風に言われたの、初めてだ」
「いいえ。 わたくしは、成瀬様……いえ、陽夢様と、共にありますので」
エレナはにっこりと笑い、俺の手を掴む。 俺はその手を自然と握り返していた。
「それとさ、俺……謝らないといけないことがある」
「陽夢様が、わたくしにですか?」
「ああ。 実は最初、試しに妄想をしてみろって言っただろ? エレナ」
「昨日のことですね。 ええ、確かに」
「そのときさ、エレナが俺に惚れるようにって妄想したんだ。 これも一応、ちゃんと言っときたくて」
「へ、へ? え、えっと……それで、その、わたくしは?」
「それがおかしいんだよな。 なんも変わらなくてさ、何か理由って分かるか?」
それが知りたかったってのもある。 それに今、エレナが俺に好意を寄せているってのは分かったから、心を開いていない奴ってことはないだろうし。 尚更、なんの変化もなかったのが不思議で仕方ないのだ。
いざというときに、あのときみたいに能力の不発があったらそれこそ困るしな。 予防線というのも、あるんだ。
「り、理由……ですか。 わ、分かります。 当然……知っています。 ですが、言えません!!」
「は? 言えないって……どうして?」
エレナは俺に背を向けて、顔は伏せていた。 しかし必死に、その理由を言うのを拒否する。
「ど……どうしてもです。 陽夢様にも、言えることと言えないことはあるのです。 それとも、そこまでして知りたいのですか……? もしも陽夢様がどうしてもと言うのなら、わたくしは言います。 その理由と、その……気持ちを打ち明けます」
「……なんか聞いちゃ駄目なことみたいだな。 悪い」
良くは分からないが、妙な迫力がある。 それに、どうしても守りたい秘密のような空気も感じた。 これ以上は踏み込むべからずと、俺の頭の奥で何かが囁いている気さえする。
エレナは俺が引き下がったことに満足したのか、すぐに俺の方へと振り返った。 そして手を差し出して、こう言う。
「それでは陽夢様、お箸を買いに行きましょう。 一緒に、お買い物です」
「はいはい。 んじゃ行くか」
……多分。 多分、だけど。
エレナは寂しかったんだと思う。 ずっと一人で暮らしていて、ずっと一人で戦って、一人で悩んで、一人で考えて、一人で行動して。
エレナもまた、俺と似ている。 その生き方が、俺と似ている。 だから、たまに寂しくなるんだ。 人と話したくもなるし、触れ合いたくもなる。 一人で生きていける人間なんてのは、存在しないんだ。 一人でやったって、失敗ばかりで先が見えないことはいくつもある。 そんなときに、頼れる人間が一人居るだけで、世界の色は変わっていく。
俺が、西園寺さんやクレアや柊木に頼るように。 頼ろうと決めたように。
この世界では、エレナに頼ろうと、そう思った。