私の自由時間
私はいま家出をしている。今月に入って二回目の、今年になってからは十八回目の家出だ。しかし、他人がこのことを聞けば鼻で笑うだろう。なぜなら家出は日帰りなのだから。
金曜日の深夜十一時に私の家出は始まる。ルールはない。行きあたりばったりで道を決めていく。今日は月に向かって家出することにした。見つけたコンビニで水を買い歩きながら飲む。そしてただ音楽を聴きながら歩く。どこまで行くのかも自分で決めない。本当に適当な家出だ。
私はクラスでは地味な存在だ。馴染み方がわからない。それでもいいのかと思うのだが、割り切るほどの決心もない。自分は『優しい』人間だと思う。誰にでも平等であろうと心掛けている。でもそんなものは偽物だと確信している自分がいる。誰にでも平等だってことは、誰とも仲が良くないってこととイコールなのだ。人として感情の量が少ないのかと思ったりもする。それはそれでもいいと思う。問題は私の中にあって、私の問題なのだから。
一晩中歩き続けるのはさすがに疲れるので、適当にベンチを見つけてまた水を飲む。目を閉じれば自分の身体がどれほど水を欲していたかわかる。全細胞が一滴も残すまいと吸収していく。
本物の夜はもうない。私が生まれるより前に人工物の夜に取って代わられてしまった。それでも時々、本物の残滓が蠢くの感じる。彼らはまだ生きてこの人工物を背後から窺っている。
絶えることのない光を避けて、暗闇の息吹を探す。偽物の夜は人間に内省を強いる。答えは必要のない内省だ。こんな薄っぺらな暗闇の中で何を考えろというんだ。こんな存在感が希薄な中に何があるというんだ。
だらだらとくだらないことを一巡考えたあと、心動かされることのない音楽に集中し歩き続ける。ヒットチャートを占める曲なんてどれも同じだ。『君』と『僕』がいて寂しさとか愛しい人への言葉とか、そんなものばかりに気をかければいい。私は本当にそれらを必要としているのか。
そんなものばかりが続くと世の中が非常に単純に構成されているという気になってくる。私はそのことを確認しているのかもしれない。でなければ世界は複雑過ぎる。身に余る。
鬱屈していることが自分にふさわしいと思う。それ以外のことなど考えたことがない。習慣として自分を卑下しているのか、生まれながらのネガティブさなのか判断がつかない。
頭の中がクルクル回転して、ひとつのことに集中できなくなる。眩暈に似た感覚。倒れそうになるのを必死に抑えて、歩く。煩わしい。自分が習得したひとつひとつの性質を残らず潰してやりたい。クリーニング後のように汚れをすべて落とし、生まれ変わるのだ。そのときの私が今の私の記憶を持っていなくても構うものか。私はきれいなんだから、こんな薄汚れた今の私のことなんか構うものか。
夜が明けるまでにはまだ時間がある。それにまだ遠くと呼べるほどの距離でもない。時間は刻々と進み、足は確実に前進しているというのに、それでも私にまだ「距離」を感じさせないのだ。私は歩き、どこも目指さないながら自分の範疇を脱しきれないでいる。
オママゴトのような家出を繰り返している。「遠い」「何処か」に憧れながら、帰る手段を考えている。
私は時間に憧れる。誰にでも平等という点で、誰にでも無慈悲という性格に。時間がかける慈悲など人間の作用でしかない。記憶を時間軸上に置き距離を測ってみる。遠ければ遠いほど人は忘れていく。
時間は死に似ている。ただ死よりももっと善良な表情を浮かべているだけだ。
それでも6時までには私は家に帰っている。一日が始まる前のほんのわずかな時間だけが私の自由時間なのだ。