最弱プレーヤー
真剣勝負の真っ最中。
狭く薄暗い部屋で白と黒のマス目が鈍く光る。
命を賭けた一勝負、というのは俺にとって決して喩えなどでは無い。この勝負に負けることは死に直接繋がるからだ。
俺は目の前にいる小憎たらしい金持ちの兄ちゃんに只今チェスで29連勝中だ。
チェスで30連勝すれば今持ってる有り金全てくれる、なんて兄ちゃんが言うもんだから俺は全てを賭けた。家族が住んでる家、飼ってる馬、さらには村で一番の美人と評判の妹も嫁にやるって。もちろん俺の独断で、だ。
そしたら兄ちゃんはワトキンスっていうこの街で一番の大富豪のパーティーの招待状をもくれるって言い出した。こっちとしてはもちろんラッキーだと思ったけど、俺は金さえ手に入ればどうだって良かった。
兄ちゃんの腕前なんて知らなかったけど負ける気なんて針の先ほども無かった。
勝負は俺の圧勝だった。
兄ちゃんはこれまでいったいどんな学校教育を受けてきたんだろうか。知能の発達度合を伺いたい。こんなプレーなら幼稚園児と戦った方がまだ面白かった。本当にそれくらい兄ちゃんは弱かったんだ。
30勝目――
「チェックメイト」
俺は兄ちゃんの白のキングを片手で摘みあげると口の端を吊り上げ、ニヤッと笑った。
兄ちゃんは呆然と空を見つめる。まさか自分が負けるとは思っていなかったのだろう。兄ちゃんの口はみるみる開いていき、今にも顎が外れそうだ。
「約束、覚えてるか?」
有り金全部。いったいこいつの所持金はいくらなのだろうか。俺が見る限りじゃ、少なくともキヤーデにある火曜日限定アイス三段重ねを俺と、仲良しのリースの分を買えるくらいは持っているはずだ。
食の都と言われるキヤーデには美味しい食べ物がたくさんある。最後に行ったのは去年の秋、だったかな。機会があればまた行きたいな。
兄ちゃんはせっかくの整った顔を金魚みたいに目も口も真ん丸にしたままだ。意識はあるのか、無いのか。
確かめに兄ちゃんの顔を覗き込んだ時、突然後頭部を強く押され、テーブルに顔面を打ち付けた。
テーブルの振動でチェスセットのコマが倒れる。
いててて。俺が悪態をつく前に兄ちゃんが分けのわからないことを口走った。何と言っているかは聞き取れない。
勝負の前の契約により、インチキをすることはできない。要するに、兄ちゃんは俺に有り金全部と招待状を渡さずにトンズラするなんてことは出来ない。
もしそんなことをしたら、契約違反により古い呪いがかけられてしまう。これについては俺よりも俺の祖父がよく知っている。
だいたい兄ちゃんのしようとしていることは察しが付く。
契約違反にもならず、有り金全部+αを渡さずに済む方法――
そう。俺を殺せばすべてが丸く収まる。
俺の察し通り、兄ちゃんは俺の首を掴み、締めだした。
この男の力はそんなに強くない。でもさすがの俺も首を絞められるとヤバい。ヤバいと分かってはいるのだけれど、体は動かない。
首を絞められている時点でもう終わりだ。手にナイフでも持っていない限り、相手を振り払うことは難しい。
しかも今はテーブルを挟んでいるため、得意の足技を繰り出すこともできない。
うっすらと目を開き、男の様子を覗った。
目はさっきの金魚の顔のまま、口はきちんと閉じられている。
その時、誰かが仕組んだんじゃないかと思うようなばっちりなタイミングでリースが現れた。そして男が俺の視界から消える。それと同時にのどの違和感が消え、俺は地面に倒れた。
俺は喉に手を当てながら全身で呼吸をした。
「セン、無事か?」
先ほどとは比べ物にならないほどの空気の量が肺に入り、咳き込むことしかできない。
「今度はどんな揉め事をしたんだよ?」
途切れ途切れになりながらなんとか答えた
「ただのギャンブルだよ。それよりお前、どうやってここに来たんだ?」
ここは港町にある荒廃した高級ブティック店だ。誰も寄り付くはずがない。
あの金持ちの男は、昔自分の父親がこの店を経営していたとか何かでここにやって来ていたようだった。
リースは俺を引っ張り起こすと言った。
「僕もこの町に用があったんだ。それでセンのバイクを見つけたからちょっと立ち寄ったら殺人現場に遭遇したってわけ」
リースは苦笑を浮かべた。
「何かこの人の気に障ることしたのか?」
「まさかまさか。この人が勝負に負けて勝手にキレたんだ」
と、男は呻きながら上体を起こした。リースに殴られた頬を撫でながら。
男はまた俺を殺しにかかると思われたが、以外にもすまなさそうに口を開いた。
「悪かった。さっきは気が動転してて……。許してくれ」
「その気持ちは分かるけどな、今度からは気をつけなよオッサン」
「兄ちゃんからオッサンに格下げか」
彼は力なく笑った。自嘲にも見えるその笑い方は、父さんが母さんに怒られた時の顔にそっくりだ。
「僕のお金はここに置いていくよ」
男はずっしりと中身の詰まった袋と財布をテーブルに置いた。
「家にはもっとあるんだろ?」
男は肩を大きく震わせた。
「え、いや、そりゃあるけど……」
男は俺がまだ金をぼったくろうとしていると思ったらしい。
彼のおどおどした様子がおかしくて少し笑いそうになってしまった。
「そうか。ならいいや。全部取っちゃったら悪いし」
俺がそう言うと男は落ち着いた様子で溜息をついた。
男は先天的に色素の薄い、ブロンド色の髪をくしゃくしゃっと掻いた。
そんな行儀の悪い仕草も品がある。この男は育ちが良いのだろう。
それに比べると俺は不良に見えるかもしれない。別に悪いことはしていないけど確かに育ちは悪い。黄色みの強い茶色の髪は父譲りで、その他は全部祖父ちゃん譲りだ。じいちゃんにそっくりね!なんて言われる度に自分の顔が老けてるのか、なんて幼いころは気にしていた。
男は長方形の紙切れを差し出した。いや、紙切れ、なんていう言葉は失礼か。頑丈な、きちんとした紙だ。
「招待状。僕は一つしか持ってないけどこれで二人パーティーに参加できる」
男の目を覗きながら俺は問いかけた。
「本当にいいのか?」
「ああ。もちろん」
即答。揺らぎない瞳。
「本音を言うと行きたいよ。それはたいそうな豪邸で最高のひと時を過ごせると聞いたから。でも勝負に負けたら君にこれを譲るって約束だから」
俺は目を細め、微笑んだ。
「兄ちゃん、もう俺みたいなやつとチェスの勝負なんてすんなよ?」
そして兄ちゃんと俺は別れた。
兄ちゃんは俺たちに背を向け店を出る。
もう二度と会うこともないだろう。もともと接点のない二人だ。
「行ったな」
リースが呟くように言った。耳に心地よい響きが残る。リースは見た目も発する声も抜群に良い。その上頭脳明晰、運動神経抜群ときた。
科学者たちが最高の技術を駆使して万能の人造人間を生み出したとしてもリースには敵わないと俺は思う。
「リース!」
俺が笑顔を向けるとリースは少し困惑した様子を見せた。俺が笑ってる時には大体ロクなことを考えていないからだ。だけど今度は違う。
「出発の準備だ!!」