第2話 夢とノート②
あの日の朝、天気は最悪だった。
墨で染められた布を誰かが無理やり空に広げたみたいに、
分厚い黒雲が重くのしかかり、
雨は細く、だが途切れることなく降り続いていた。
まるで世界そのものが、終わりのない嗚咽を漏らしているみたいに。
泥の匂い、溜まった水の匂い、
雨に濡れたコンクリートの匂い――
それらが混ざり合って、独特の空気を作り出している。
道路の両脇には建物が並び、
灰色のオフィスビル、
ネオンが微かに揺れるコンビニ、
雨で文字が滲んだ広告看板。
人々は庇や傘の下を行き交い、
足早に通り過ぎる者、俯いて雨を避ける者。
誰も空を見上げず、誰も他人を気に留めない。
みんなそれぞれ、自分の物語の主人公だった。
そして、学校前の交差点。
赤信号が、雨に濡れた路面に鏡のように反射して、
点滅している。
俺はそこに立っていた。
学生鞄を肩に掛け、
黒い表紙のノートは胸ポケットに。
雨粒が髪に絡みつき、
眼鏡でさえも逃げ場はなく、
レンズには街灯の淡い光が映り込んでいる。
隣には、クラスメイトの女子が一人、傘を差して立っていた。
正直、名前ははっきり覚えていない。
彼女の制服の裾を伝って、雨粒がぽたり、ぽたりと落ちていく。
信号を見上げているはずなのに、
視線はときどき、ちらりと俺の方へ向けられていた。
『オーケー、観客一名確保』
『フレームイン完了』
そのときは彼女の名前を知らなかった。
でも、あの視線が向けられていたのが、
“俺という存在そのもの”だったことだけは、はっきり分かっていた。
雨音。
車の走行音。
水溜まりを蹴る靴音。
すべてが重なり合い、
完璧なシンフォニーを奏でていた。
俺は、あらかじめ用意されていた台詞のように、
自然と声を発した。
「なあ」
たった一言。それだけで、
少女の注意は完全に俺に向いた。
彼女は少し驚いたように目を瞬かせ、
顔を上げて俺を見る。
「もし運転中にさ、
目の前に子どもとお年寄りがいたら――」
雨粒が俺の髪を伝い、肩へ落ちて、
細い線になって弾ける。
「そんなとき、
何を踏むべきだと思う?」
言葉が途切れた瞬間、
まるで世界全体が、その問いに耳を澄ませたみたいだった。
周囲がざわつく。
横断歩道に、
子どもと老人の二人組が踏み出す。
風に煽られ、傘がわずかに傾く。
先頭の車は、
雨で濡れた路面の上を、やや速すぎる速度で近づいてきていた。
『――大丈夫。ドライバーは視認済み。
0.235秒後にブレーキ。
車両と横断歩道の距離から計算して、間に合う』
俺は一歩、前に出る。
水が跳ね上がる。
右手を前に伸ばした。
掌は、車の正面と完璧な角度で向き合う。
同時にブレーキが作動し、
タイヤが止まり、
水しぶきが薄いカーテンのように舞い上がる――
まるで、この場面を演出するために用意されていたかのように。
ヘッドライトの光が、
俺の眼鏡のレンズを貫く。
俺は左手で、静かに眼鏡を外した。
「答えは……
ブレーキ、だろ」
雨音にかき消されてもおかしくないその一言は、
それでも確かに、
一人の耳に届いていた。
歩道の端で、
少女が固まったまま立ち尽くし、
瞳をきらきらと輝かせている。
彼女の目に映る俺は、
もう“ただの学生”じゃないんだろうな。
『……って、やばい。
これ、完全にフラグ立てちゃったやつじゃないか』
『仕方ない。俺のイケメンオーラは制御不能だからな。困ったものだ』
『よし。
さっきの光の反射と雨粒の演出、完璧。
文句なしにクソかっこよかった』




