── 三楽章 ──
初めて律を家にあげたあの日から、光琉はほとんど毎日律を部屋に招き続けている。
律を家に招く理由は実に様々で、最初こそ「二人で曲の解釈を合わせたいから」と真面目な理由で誘っていたのが、次第に音楽とは関係ない理由に移り変わっていき、ある時など「律のカレーライス食べたい」と甘えてみたり、またある時は「実家から野菜と蟹が送られてきたから」と母親にあらかじめお願いして送ってもらった蟹で釣り、律を家に連れ込んだりもした。
割れながら必死過ぎて恥ずかしいと光琉は思ったりもしたのだが、律としては大学からも近いし、食費も光熱費も浮くので助かっているというので、それ以降遠慮なく毎日のようにレッスン帰りに律を家に連れ込んでいるのだった。
律が時折「いつもお邪魔しちゃってるし、今日は自分の家に帰ろうかな」なんて言い出した日には、光琉はいじけたり、愚図ったり、拗ねたりして、結局律を帰さないのだった。
「あれ、もしかして光琉って甘えん坊?」と律にバレ始めた頃には、殺風景だった光琉の家はすっかり律と二人で過ごすために最適化された家へと変貌を遂げていた。
シングルサイズだったベッドはダブルベッドに変わり、二人用のダイニングテーブルが準備され、何もなかったキッチンには律お気に入りのキッチンツールが整然と並べられるようになった。食器類も全て二組ずつ揃っている。初めてこの家を訪れた人は、新婚家庭の家だと勘違いしてしまうことだろう。
そんな風に律を家に帰さないのは今日も今日とて例外ではなく、光琉は律を連れて大学からの帰途についていた。光琉の手には二人分の食材が入った袋が下げられ、律は代わりに光琉のヴァイオリンケースを背負ってあげている。
光琉が手を繋ごうか繋ぐまいか、まごついているうちに家に着いてしまうのもいつものことだった。
「あー寒かった、ただいま〜」
律が無邪気に声を上げて中へ入る。いつの頃からか律は家に入る際に「お邪魔します」ではなく「ただいま」と言うようになっていた。その変化にしみじみと幸せを感じる光琉だったが、その胸にはどうしても引っかかっていることが一つあった。
それは昼間見かけたある光景だ。
午後の授業に向かうため光琉が渡り廊下を歩いていると、律が中庭にいるのが見えた。声をかけようかと窓際に寄ってみると、律の隣に誰かが立っている。背が高くがっしりした体型の男。同じ科の友達だろうか。しかし一度も見たことがない。そんなことを考えながら見つめていると、二人の様子が何やらおかしい。どうやら二人は言い争いをしているみたいだった。男の方が一方的に律に詰め寄り、逃げられないように二の腕を掴んで何事かをしきりに訴えている。なにしてるんだと光琉が目を凝らしていると、律は突然その男をドンっと突き返し走って逃げていった。残された男は追いかけるでもなく、悔しそうに律を掴んでいた手を握りしめ、踵を返して去っていった。
今思い出しても、あれは一体何だったのだろうと気になって仕方ない。豆腐を冷蔵庫に仕舞いながら光琉の逡巡は止まらなかった。これまでほぼ毎日律と過ごしていたが、律にあんな知り合いがいるだなんて一言も聞いたことがないし、学内ですれ違う律のクラスメイトたちにもあんな男はいなかったはずだ。一体あいつと律はどんな関係なんだろうか。気になって仕方ない光琉は、食事の支度を始めている律の様子をちらりと確認した。
エプロンをつけ玉ねぎを手に持っている律にいつもと違ったところはない、ように見える。律にとっては、男を突き飛ばして逃げることなど、動揺に値するほどではないのだろうか。こんなことがあったと愚痴を言ったり、不安を吐露したり、わざわざするほどの出来事ではないのか。それとも愚痴を言ったり相談したりするのに、光琉では役不足と思っているのだろうか。
そうだとしたら少し傷つく。食材をすべてしまい終えた光琉がそう独りごちている横で、律は着々と今夜の晩御飯であるかつ丼とわかめうどんを作り上げていた。
鰹節と昆布で出汁を引いた上品な匂いがふわりと香り、食欲をそそる。とんかつは買ってきた惣菜をそのまま転用するだけだが、玉ねぎを加え、卵で煮綴じる、その一手間が味気ない惣菜を何倍も美味しくさせる。まるで魔法みたいに。
いや、実際魔法なのかもしれない。光琉は手際の良い律の手元を見つめながら考える。律の手にかかればどんな料理もすべてがご馳走に変わる。これまで食にまるで興味のなかった光琉が食後にウェストがきついという経験を初めてするぐらい、律の飯は美味かった。
「不機嫌王子」絶頂期の俺だったら絶対かつ丼なんて口にしなかっただろう。美味しそうにホカホカと湯気を立てるかつ丼とわかめうどんを前に律と二人で食卓を囲む光琉はそんなことを考えてふいに笑いを漏らした。本当に軽く息を漏らす程度の笑みだったが、律は耳敏くその笑いを聞き逃さず、「どしたの、なんか面白いことあった?」と尋ねてきた。
「ん、いや……かつ丼なんてお前と出会ってなかったら、絶対食べること無かっだろうなと思って」
「たしかに、君が食堂とかで一人かつ丼食べてる様子なんてまるで想像できないや」
想像でもしたのか、律は楽しそうにくすくすと笑った。
じゃあお前は。反射的に光琉は思った。
あの男と並んでかつ丼を食べたりしたのか。
この作ってくれたうまい飯も、以前はあいつに振る舞っていたのか。あいつとはどういう関係なんだ。
覗き見していた二人の様子は、別れた元彼がよりを戻そうと迫っているように見えた。子供っぽく見えるけど、律は光琉より二つも年上だ。以前そういうことがあったって不思議でもなんでもない。
光琉の表情が強張ったのを察して、律は「どうしたの」と驚いた顔を見せた。
「律、正直に答えてくれ」
「う、うん……」
「昼間に……」
そこまで口にして、光琉は突然怖くなった。もし律の口から「あの人は昔付き合ってた人で」とでも聞かされたら、到底正気ではいられない。知りたい、でも知りたくない。ぎりぎりでせめぎ合う葛藤は、今回は知りたくないの方に軍配が上がった。
「昼によく食べるメニューを、教えてくれ」
「え、昼ご飯……えっと、食堂のチキン南蛮定食、かな」
なんでそんなことを、と懐疑的な視線を向ける律の顔には書かれていたが、光琉は「そうか、センキュー」とだけ答えて、会話を終わらせた。
そのせいで、神妙な面持ちのままさくっとカツを一口齧る光琉の様子を見た律が「きっと光琉はオススメの食堂メニューを聞きたかったけど恥ずかしかったんだろうな、光琉っていつもうどんとかそばとかばかりで挑戦しないから。そうだ、今度一緒に食堂に行ったら味の想像がつかな過ぎて誰も頼まない裏メニューあんこ味噌カツ定食を光琉のために頼んでみよう」などととんでもない決意をしていることを、未だ思案に沈む光琉は知る由もなかった。
皿を洗い、律が入れてくれた風呂に入り、二人でスコアを眺めながら曲の解釈を擦り合わせている間にも、頭の片隅にはずっと昼間見た光景がへばりついていた。
「なぁ律……」
再びそう切り出せたのは、時計の針が深夜を周り、二人でベッドに潜り込んだあとのことだった。聞きたくないけど、聞かなければ一生俺は悩み続けてハゲちまう。ハゲたくない光琉は覚悟を決めた。
「なぁに」
もう眠いのか、ぽやぽやとした声で律は返事をした。
「昼間一緒にいた男、誰?」
「ひるま……?」
心臓がバクバクと鳴り、口の中がカラカラだった。眠そうな律は相変わらずむにゃむにゃと「おとこぉ?」と可愛らしく呟いているが、有耶無耶のまま寝られたら光琉は堪らない。足の先で律の足をツンツンと突きながら「今日、中庭で誰かと話してただろ、あれ誰だ」と再度聞き直した。
「あー……アイツかぁ」
少し目が覚めたらしい律が嫌そうに呟いた。いつもおおらかでニコニコしている律にそんな反応をさせる男がいるだなんて。明らかにただの友人やクラスメイトといった関係だけではないはずだ。光琉はじりと焼け付くような嫉妬が腹の底で生まれるのを感じた。
「アイツはぁ……昔馴染みというか、前の学部で一緒だった奴でぇ……」
歯切れの悪い律の言葉をもっとよく聞こうと光琉が身を乗り出すと、律は突然その胸の中に飛び込んできた。
「え、律!?」
「僕もう眠いや……お話はまた明日ね、光琉……おやすみなさい」
「お、おお、お、おやすみ」
なんだこれ、やばい。胸元ですぅすぅと健やかな寝息を立てている律を見下ろして光琉は狼狽えた。普段からダブルベッドで寝床を共にしているとはいっても、ここまで近付いたことなどこれまで一度もなかった。精々寝返りの際に手や足が触れるくらいだ。
やり場のない腕をどうしたらいいのか迷いに迷って、光琉は結局律を抱き締めるように背中に回した。俺の腕の中で、律が眠っている。そう思うと一層緊張感が増したが、同時に幸福感でいっぱいにもなった。
「昼間の男」についての悩みは一瞬で吹き飛んで、今度は青少年らしい悩みで悶々として光琉は眠れなくなったのだった。
「ふあ〜ぁ、おはよ光琉。今日はもう起きてるんだ、珍しいね」
「……はよ」
もう起きているんじゃない、一睡もしていないんだ。光琉は重たい瞼を擦ってそう胸裡で呟くが、それを実際に口に出すことはしなかった。理由を追求されたら答えに窮するからだ。
「コーヒー淹れたけど、飲むか」
「うん、飲む、飲む。ありがとう」
ぐっすり眠れたらしい律は元気いっぱいにそう答えて「何か食べる? ホットケーキでも焼こうか」と聞いてくるので、光琉は「頼む」と頷いた。
「……なぁ律、そろそろ教えてくれないか。あの男がおまえにとって何なのか」
バターとメープルシロップをたっぷりかけたパンケーキを前にして、光琉はついに我慢の限界を迎えた。パンケーキを一切れ口に運んでも味もわからないほどに思い詰めている自分が情けなかった。律ははじめ「なんのこと」ときょとんとしてみせたが、すぐに昨夜のことを思い出したのか「あー」と一瞬嫌そうな表情を見せた。
まただ。また律にこんな表情をさせている。それほどまでに律の心を揺さぶるあの男は一体何者なんだ。怒りでフォークが曲がってしまいそうなほど、光琉は拳を握りしめた。
「……あいつは水野っていって、前のピアノ科で一緒だったやつ。昔からピアノ教室も一緒だったし、何かとライバルだって持ち上げられてて……腐れ縁というか、幼馴染……みたいな感じというか」
「お、おさななな……」
幼馴染だって? そんな存在がいるだなんて初耳だ。大学で挨拶を交わす友人たちを見る限り、律は誰にでも優しく親切に接する一方で、全員に一線を引いているように見えた。律にとっては全員同じランクの友人。その中で唯一抜きん出て特別なのが自分だと、光琉は優越感を抱いていた。
それなのに……幼馴染がいた、だと? これまで一切存在を匂わせもしなかった、幼馴染?
「そいつって、アルファか?」
「うん、水野はアルファだよ」
二人の間に気まずい沈黙が流れた。一応確認しておこうと思って口にしたのだが、律の幼馴染がアルファだという事実に光琉は想像以上に打ちのめされた。確認しなければよかった、ベータであってほしかった。そんなことを思っても、もう今更遅い。
「あ、あは、幼馴染っていっても別に仲は良くなかったんだ。ただ辿ってきた道筋が一緒だったってだけ……結局僕はピアノ科をやめてピアノ伴奏科に移ってきたんだけどね。もう全然話してもなかったし、連絡も取り合ってなかったよ」
ほとんど元幼馴染って感じかな。そうどこか遠い目をして笑う律に光琉は何かが引っかかった。
仲も良くなく連絡も取ってなかった元幼馴染と、あんな風に言い争いをするだろうか。逃げないように腕まで掴まれて。二人の間にはただの幼馴染だけじゃない何かがあったんじゃないだろうか。
ましてやアルファとオメガだったのだ。そうしたバース性を持つ二人が幼馴染でライバルとなると、本人たちは何とも思ってなくても、周りが囃し立てたり、持ち上げたりすることだってあるだろう。それに感化された水野が、ということも考えられる。
光琉は納得がいかず、話を切り上げて皿洗いを始めようとしている律をキッチンまで追いかけていった。
「なぁ律、なんでピアノ科からピアノ伴奏科に転科したのか、聞いてもいいか?」
光琉から見ても律は相当な実力者であり、コンサートピアニストを務められるほどの高い音楽性の持ち主だ。それほど弾ける律が転科すると言い出した時、恐らく相当周りと揉めたはずだ。一体何が原因で転科することになったのか。そこに元幼馴染とのわだかまりの原因もあるのではないだろうか、と光琉は考えたのだ。
「え、別に深い理由はないよ。僕はソロで演奏するよりも誰かと一緒に弾いたほうが楽しいから……」
「それだけか?」
光琉は壁に寄りかかって腕を組み、律をじっと見つめた。容疑者を追い詰める尋問官のような鋭い視線にたじろいだ律が「そ、そうだ、よ」と言い淀んだのが一層怪しく見える。
そのまま光琉は瞬きもせず、律を見つめていた。結局、先に折れたのは律の方だった。大きく溜息を吐いて、洗いかけた皿の水を止めた。
「わかったよ、ちゃんと説明するから座って話そう。紅茶淹れるから、ちょっとまってて」
「……わかった」
その代わりお皿は君が洗ってよ、と光琉に釘を刺すのを律はもちろん忘れなかった。
「僕が転科した理由はね、簡単に言うと、コンクールで失敗したからなんだ」
ミルクをたっぷり入れた紅茶をふぅふぅ冷ましながら、律はそう口を開いた。
コンクールの失敗なんて、よくある話だ。上がりすぎて超高速でパガニーニのカプリースを弾いてるやつもいたし、途中で暗譜が飛んで演奏を止めてしまったやつもいた。誰もが経験することではないが、別に一度や二度、コンクールで失敗するなんて大した話ではないはずだ。そう思いながらも光琉は黙って聞いていた。
「その国際コンクールで賞が取れたら、プロとしての演奏活動に繋がるって結構な期待を背負っていてね。僕も普段はそんなことないのに、絶対に優勝しなきゃって気負っていたところがあったんだ」
そのコンクールには水野も出ていて、二人で入賞を目指して頑張れと教授や友人たちから送り出されてきた。水野と一緒に飛行機に乗り、水野と一緒にホテルにチェックインした。でもほとんど会話はなかった。それもそのはず、律と水野は幼馴染であっても、仲がいいわけではなかったのだから。
律は水野の何が何でもプロに、というガツガツした姿勢が苦手だったし、水野も実力はあるくせに貪欲に勝とうとする気概のない律に終始苛ついていた。とにかく相性良くない二人だったのだ。
コンクールで二人は順調に勝ち上がっていった。律以外のコンテスタントは皆アルファしかいなかったが、二次も三次も危なげない演奏で勝ち残り、律も水野も優勝候補とすら目されていた。
しかしセミファイナルで律は一つミスをした。演奏には影響のない程度でその後もすぐに持ち直したし、審査の上でも問題にはならなかった。しかし、そのミスは律の心理面に大きく影響を及ぼした。
普段からミスしがちの箇所で気をつけて練習していた、というわけでもなんでもない、いつもは何気なく弾いていた部分でのミスだった。だからこそ、それは律の動揺を大きく誘った。
何故ミスをしたのか、何が悪かったのか。原因がまるで分からない。気にしない方がいいし、気にしたら駄目だとも分かっているのに、律はどうしても悶々と考え続けてしまい、ファイナルで弾く曲も間違うんじゃないかとどんどん追い詰められていった。
視界がどんどん狭まっていき、この世にはもう自分と楽譜と鍵盤しか存在していないんじゃないかとすら律は思い詰めていた。一から譜面をさらい直し、一つのミスもないように何度も弾いて、弾いて、弾いて、指先が腫れて痛くなるまで弾き続けた。
それにストップをかけたのは水野だった。律がセミファイナル後からこもり続けていた練習室のドアを開いて顔を覗かせた。いつもは野心に溢れていて力強い目が──内心律はそれを苦手だと思っている──今は心配そうな色を宿し、じっと律を見つめていた。そしてさらに珍しいことに、「今日ぐらい一緒に飯でも行かないか」と誘ってきたのだ。
「いい、行かない」と律はきっぱりと断り、練習を続けようとしたが、水野は構わず練習室にずんずんと入ってきて律の手首を掴み上げた。「こんなに指を腫らして、明日弾けなくなったらどうする!」と一喝した。
その時にやっと律は自分の指がじんじん痛むこと、そして何故か呼吸が苦しいことに気付き、練習を切り上げ大人しく水野についていくことに決めた。水野は律の手を掴んだまま、近くのレストランへと向かった。
そこでも二人は特に会話らしい会話をするでもなく、もそもそと注文した料理を口に運ぶだけだった。水野はステーキを、律はパスタとクラムチャウダーを頼んだ。
水野は終始なにか言いたげに口をもごもごさせていたが、うまく言葉が見つからないようで、時折「うまいな」と呟く以外会話に繋がるような言葉は彼の口から出てこなかった。
水野が励ましてくれようとしているのは律にも分かっていた。しかしその想いを律はうまく受け止めることができないまま、ただ黙って視線を皿の上に落とし、水野のことを見ようともしなかった。
同じコンテスタントとして、幼馴染として、二人はやはりライバルなのだ。同じ土俵で戦っているはずのライバルに情けをかけられるなんて、いくら温厚な律でも許せなかった。
──いつも僕を目の敵にしてきたくせに、僕が劣勢になると途端に余裕を見せて気遣うだなんて、水野は卑怯者だ。アルファとして生れ落ち、神様から祝福された才能に恵まれている。オメガの僕が死にたくなるほど努力を重ねた末にしか辿り着けない高みに、アルファはすぐにでも到達できる。卑怯だ、卑怯だ。許せない。
律の心の中にヘドロのような黒い水がどんどん溢れ出し、全身を覆い尽くしていく。普段の律なら絶対にそんなこと思いつきもしないし、仮に心に浮かんだとしてもそれが間違った考えであることにすぐ気が付いて反省しただろうが、この時の追い詰められた精神状態では、悪い感情が悪魔のように律を支配していた。
考え始めるとコンテスタントの中で自分ひとりだけがオメガであるということにも、劣等感が広がっていく。パスタもクラムチャウダーも、まるで砂を食んでいるようで何の味もしなかった。
食事が終わってからも練習室へ戻ろうとする律を、水野は手を引いてホテルの部屋まで連れ帰った。
「練習しないと、練習しなきゃ」そううわ言のように繰り返す律のために風呂を溜め、着替えを用意してやった水野は、律が寝るまで甲斐甲斐しく世話を焼いた。髪を乾かし、歯を磨かせ、オイルで念入りに手をマッサージした。
律はその間ずっと無言だった。明日への焦りと不安と水野への苛立ち、それから自分自身に対する怒りと情けなさでぐちゃぐちゃになっていた。水野が律のために尽くせば尽くすほど、律の心はひん曲がっていく。ライバルのくせに、アルファのくせに、優しくしてくる水野に苛立ち、親切と好意をうまく受け入れられない自分に嫌悪する。悪循環だった。
しかしそのうち、一日の疲れと精神的な疲労から睡魔に襲われ、律の意識はすっと遠のいていった。水野はまだ律の指を丁寧に揉み続けている。ぬるぬると擦れあう体温が心地よかった。相手が水野だということも忘れて、律は夢と現実の狭間で心地よさに鼻を鳴らした。
やがてパチリと枕元の電気が消され、瞼の裏に透ける世界は幕が降ろされたように真っ暗になった。本格的な眠りが律を引きずり込んでいく。その直前、律は唇に何かが触れる感触と「好きだ」と囁かれる声が聞こえた気がした。
しかし、律の意識はもうその頃には夢の中で、それが現実の出来事だったのか、夢での出来事だったのか、判別できないまま、意識は完全に夢の世界へと旅立っていった。
パタパタ、パタパタ。律の指が太ももを打つ音が、舞台袖に響いていた。ステージ上では律の演奏のために調律師がピアノを調律している。それが終われば律の出番だ。それまでの少しの時間すらも惜しんで、律は忙しなく指を動かしていた。
これまでに様々なコンテスタントや演奏家たちを舞台上に送り出してきた熟練のステージマネージャーも、その様子には不安を感じずにはいられなかった。明らかに昨日までの律と様子が違いすぎるのだ。
おっとりとして緊張とは無縁だった子が、今日は明らかに張り詰めている。ファイナルだからだろうか、いやそれにしたって様子がおかしすぎる。
声をかけることすら躊躇われる律の様子に、ステージマネージャーはどうすることもできず、歯がゆい気持ちのまま律をステージ上に送り出した。遠ざかる背中を見つめながら、どうか彼が普段通りの演奏をできますようにと祈りを込めて。
律の演奏曲はショパンのピアノ協奏曲第一番だった。ショパンは律が最も得意とする作曲家だ。本来ならば失敗する不安などとは無縁のはず。
しかし舞台に上がった律は、「失敗」という二文字が自分の上に重くのしかかっているように思えて全身がとにかく重かった。後ろに控えるオーケストラも、観客席から向けられる数多の視線も、すべて律が失敗する瞬間を今か今かと待ち構えているように感じられて、知らず知らずのうちに呼吸が浅くなる。全員目と口が三日月形に切り取られた歪んだ笑顔を模した白いお面をつけて、律を見つめているような恐ろしい想像が律の脳裏に広がっていく。
揺れる視界の中で、ライトに照らされた漆黒のピアノだけが明確だった。それを目当てに一歩ずつ進んでいく。聞こえてくるのは自分の呼吸音と心臓の音だけ。指先が冷たく震えていた。
なんとか客席に頭を下げて椅子に座ったものの、それでもいつもどおりの感覚は戻ってこなかった。オーケストラの伴奏がどこか遠くから歪んで聞こえてくる。呼吸音がどんどん早く、大きくなっていく。
オケの前奏を終えてピアノの入りだ。いつも通り、練習の通りに弾けば大丈夫。そう言い聞かせても律のこめかみから滴り落ちる冷や汗は止まらない。呼吸が上手くできず、視界がおかしくなっていく。それでも鍵盤にしがみつくように、律はなんとか弾き続けた。
視界がどんどん歪んでいく目は閉じて、音と気配だけを頼りに弾き続ける。音楽の海へ自ら飛び込み、漂う五線譜に巻き取られながら、どんどん深みへと沈み込んでいく。まずは光が消え、オーケストラの団員や観客の息遣いが消え、伴奏の音も遠く聞こえなくなった。
自らが奏でる音と記憶しているテンポだけを頼りに律は必死で弾き続けたが、遂にはピアノの音すらも聞こえなくなった。鍵盤を叩く指先の音だけが鼓膜を揺らす。
もう駄目だと思った。途端に呼吸が苦しくなり、ゴボォっと空気の塊を吐き出して、海底から突き出た岩に激しく頭を打ち付けた。
途端に耳元で出鱈目な音の重なりが破裂して、光と音の感覚が戻った。音楽の海の底だと錯覚していたそこは、コンクール会場のステージの上だった。律はいつの間にか鍵盤の上に倒れ込んでいた。
眩しいほどのライト、ザワつく観客席。流れていく視線の端で心配そうに手を差し伸べる指揮者と団員たちの顔、それから舞台袖から駆けてくる水野の姿が見えた。
あれ、なにが起こってるの?
そう律が思った時には、既に水野に抱きかかえられていた。
騒然とする舞台上から水野は律を抱き抱えたまま袖へと戻り、手近にあった袋を律の口元に当てた。過度な緊張と不安から、律は過呼吸を起こし、気を失ってしまったのだった。
その後のことを律はあまり覚えていない。関係者の車で病院へ運ばれ、何らかの薬を飲まされたような気もするし、点滴を打たれたような気もする。とにかく気がついたときにはすべてが終わっていた。
律は病室のベッドの上で目を覚ました。窓の外は真っ暗、傍らの椅子には燕尾服ではなく私服に着替えた水野が座っていた。
「あ、ぇ……コンクール、は……?」
乾いた病室の空気で喉が荒れたのか、掠れた声で律は訊ねた。
「終わったよ、とっくに」
水野は表情を変えることなく律に一枚の紙を差し出した。
「俺は4位の敢闘賞、お前は審査員の特別奨励賞受賞。結果発表が終わって会場を出ようとする俺に、審査員長が『聖川君が最後まで弾けていれば彼が優勝だっただろう。オメガだというのに彼の演奏技術は本当に素晴らしいものがある』ってわざわざ言いにきたぜ。残念だったな。ま、あんまりぱっとしない結果だけどお互い頑張ったよな、お疲れさん」
「……………」
ぐしゃりと「特別奨励賞」と書かれた紙が律の手の中で潰れた。
そのコンクール以降、律は大学に姿を表さなくなった。一週間も、二週間も連絡なく休み続け、教授も水野も友人たちも皆が心配しているところに、ある日突然ふらりと姿を表した。
そして、その手には休学届が握られていた。やつれた表情は暗く、以前はキラキラと輝いていた大きな瞳が今では底なしの深い沼のように光を映さなくなっていた。律のあまりの変わりように、誰も何も言えなかった。
こうして律は大学を休学し、一年後復帰した時には、ピアノ伴奏科への転科を願い出たのだった。教授には挨拶に行ったが、その他の友人や、もちろん水野には何も言わないままでの決断だった。
だからこそ今日、律が水野に見つかった時に、あんなにも詰め寄られることになったのだ。とうしてなにもいわなかった、なぜ転科した、お前ならコンサートピアニストになれる実力があったのに、と。
「僕はもう自分がステージの上で主役になるのが嫌だったんだ。僕以上に才能がある人なんていくらでもいる。僕みたいな凡人のオメガは、そういう人と競い合うために、何倍も何倍も努力をしなくちゃいけないんだ。それで身に着けた演奏技術も、評価されるときは絶対に『オメガなのに』、『オメガにしては』よく弾けている、だなんていわれるんだよ」
いやんなっちゃうよ、と肩を竦める律の言葉に光琉ははっとした。光琉も以前律の演奏技術を褒めようとして「オメガなのに」と心の中で思ってしまったことがあったからだ。そうした無意識的な差別意識がどれだけ律を苦しめて来ただろう。きっと「オメガだというのに彼の演奏技術は本当に素晴らしいものがある」と律の演奏を評した審査員長も、自らの差別意識に気付かずに発言したのだろう。
光琉の表情が曇ったことに気付いた律が話題を変えるように声のトーンを上げて続けた。
「でも僕はそんな経験をしたから、伴奏者になりたいって思えたんだよ。これからは素晴らしい演奏者たちと競い合うんじゃなくて、一緒に演奏することで音楽の高みに近付きたいって。そんなときに出会ったのが、君の演奏だったんだ」
ずっと下に向けられていた律の視線が、真っ直ぐ光琉に向けられた。
「律」
光琉は手を伸ばしてそっと律の手を握った。いつもほかほかして温かいその手は冷たく強張っていた。思い出したくない過去をすべて詳らかに話してくれたのだ、そうなっても仕方がない。いや、そうならないはずがない。
自分が過去と対峙したときのことを思い出しながら光琉はいても立ってもいられず、立ち上がって律を後ろから抱きしめた。少し硬めの黒髪に頬を埋める。律の手が光琉の手に重ねられ、きゅっと握ってきた。
「僕は君と出会えたことにすごく感謝してるんだ。休学中に学内演奏会で君の演奏を聞いた瞬間、本当に雷に打たれたみたいに痺れたんだよ。なんて言えばいいのかな、テクニックや表現だけじゃない。音楽の核の、さらにその奥にある柔らかな部分が僕の求める音楽と一緒だと感じたんだ」
それはきっと、俺が小さな頃に聞いたストリートピアノでの律の演奏をずっと追い求めていたからだ。光琉は胸の内で呟いた。
知らず知らずの内に追いかけ続けていた律の演奏に長い年月をかけて近付き、その結果それを当の本人である律に逆に発見されたのだ。これを運命の出会いと言わずして、何というのだろう。光琉は言いようがない嬉しさに満たされて、抱きしめる腕にさらに力が篭った。
「俺も律に出会えて本当に良かった」
「ふふ、今日はやけに素直だね」
「別に。いつも素直な光琉君だぜ」
光琉は椅子を引き寄せて、律の隣に座った。正面からまっすぐ見つめ手を握る。律の指先は先程より温かく解れていた。
光琉は「俺はあまり人を慰めるのは得意じゃない」と照れくさそうに言った。
「ふふ、だろうね」
「でも俺は律にはずっと笑っていてほしいと思う。こんな気持ちになったのは初めてなんだ。お前が俺を過去のトラウマから救い上げてくれたように、俺も律の支えになりたい。そのためにはどうしたらいい。どうすれば律は楽になる」
俺が思い出させたのが悪いんだけど、と光琉がばつが悪そうにもごもご言うと、律はそれを見て「ふはっ」と吹出した。
「なんだよ」
なんで笑われたのか分からない光琉はむっつりと唇を突き出して、不機嫌な声を出した。
「いや、ごめんね。なんか、君ってかわいいなぁと思って」
光琉に握られている手を逆に包み返して、とろりとした視線を光琉に向けながら、「そのままでいて」と律は囁いた。その言葉が光琉の胸の奥に突き刺さり、そのまま染み入るように溶け出していく。
律は視線を落とし、愛おしそうに重なり合う手を見つめた。頬に落ちる睫毛の影が、光琉の目に、この上なく美しいものとして映った。
「君がいてくれるだけでいい。それだけで僕は笑っていられるから。君と作り上げる音楽が僕を慰めてくれるし、僕を楽しませてくれる。僕は君と一緒にいることで過去の情けない経験を乗り越えられるような気持ちになるんだよ」
君だけでいい、それ以外はいらない。
そういって笑う律に、光琉は胸のときめきを悟らないよう、必死で表情を引き締め続けていたが、頬が思わず緩んでしまいそうな感情が後から後から溢れ出してくるのを光琉はどうしても止められなかった。
──好きだ。律が好きだ。
光琉はそうはっきりと自覚した。
律を初めて家に泊まらせたあの日から「律が好き」だと感じることなんて何度もあった。横顔を見れば「かわいい」と思い、笑顔を見れば「嬉しい」と思う。食べていても、喋っていても、寝ていても、律は可愛くてたまらないし、演奏している姿はかっこよくて眩しかった。
しかし、その想いにはいつも迷いが付きまとう。薄汚い過去を持つ自分が、こんなに清らかで美しい律を好きになっていいのだろうか。
いや、いいはずがない、と。
律にいくら惹かれていても、律のためにこの気持ちは諦めるべきなのだと光琉は自分に言い聞かせていた。
しかし今、律も光琉が必要なのだと、はっきりと口にしたではないか。
外見や才能といった上辺だけしか見ていない他の奴らなんかとは違う、等身大の光琉を、その奥に押し隠されている魂を、律は心から欲してくれたのだ。
ドキンドキンと脈打つ心臓の音がうるさくて律に聞こえやしないかと心配しながら、光琉は律にずいっと近寄った。二人の距離が一層近くなり、黒と金の前髪が混ざり合って美しいコントラストを描く。
「なぁ、いい……?」
至近距離で混じり合う視線は、地平線に沈む夕陽を目にした時のように熱を帯びていた。
「え、なにが」
言い終わる前に光琉は唇を重ねた。律が息を呑み、固まったのがわかる。それでも光琉は止められなかった。一度唇を離し、固まったままの律の肩を抱き寄せて、もう一度唇を重ねた。
柔らかな下唇をはむはむと食み、もっと深く混ざり合いたくて唇の隙間から舌を差し込んだ。びっくりして縮こまった律の舌が可愛くて、吸い上げるように口内を貪った。思う存分律の唇を堪能してから唇を離すと、二人の唇の間に透明な唾液の糸が繋がった。
この上ないほどの充足感に全身が満たされている。離れがたくて律の首に抱きつくと、光琉は頬や耳に何度も口付けを落とした。
好き、好きだ、律。大好きだ。
魂がそう叫び、心臓が張り裂けそうなくらい拍動していた。二度と離さない。何が起こったっても律を離すものか。水野とかいうやつにも絶対に渡さない。
激しい歓喜と愛情が津波のように溢れかえり、律を抱く光琉の腕にますます力が入る。
しかしふと、光琉は律がカチコチになったまま動かないことに気がついた。猫のように頬ずりをしていた身体を離し、不安になって律の顔を覗き込む。すると律は真っ赤な顔で涙目になりぶるぶる震えていた。困ったように眉を寄せ、ちらりと光琉を見遣ると「な、な、なんで」と消え入りそうな声で呟いた。
「な、なんで、僕に……キス、したの」
こんなに至近距離にいても聞き逃しそうなほどの小さな声だった。光琉は思っていた反応と違う律の様子に「あれ?」と驚いて、血の気が引いていく。
「え、いいと、思った、から」
「え……?」
「え……?」
光琉はここにきてやっと「もしかして間違ったのか?」と気が付いた。
てっきり律も同じ気持ちで、同じことを求めてくれていると思っていた。だってあんなにも愛おしそうな視線を向けてきたのだから。まさか自分の独り善がりだったのだろうか。光琉の全身から力が抜け、顔がどんどん青褪めていく。
律はぷいっと横を向き、恥ずかしそうに「き……キスなんて友達にしたら、いけないんだよ」と内緒話をするように囁いた。光琉の全身にがーんとショックが突き抜ける。
伝わっていなかったのだ。
でもたぶん、嫌がられているわけでもなさそうだ。
その把握した瞬間、光琉は反射的に「好きだ!」と叫んでいた。
口に出さなくても通じ合ったと思ったのは、光琉の独りよがりだった。でもきっと、律も光琉と同じ想いでいてくれるというのは、間違っていないはずだ。律はとびきりうぶで抜けていて鈍いところがあるので、やっぱり口に出して伝えないと駄目だったのだ。
「好きだ、律! 大好きだ!」
と、光琉は真正面から押し倒さんばかりの勢いで掴みかかり繰り返す。その勢いに呆気にとられた律は一瞬ぽかんとして光琉を見上げたが、引き伸ばした両袖で口元を隠すと、またふっと視線を逸らして困ったように眉を寄せた。
「キ、キスしたいからって、そんなことすぐ言っちゃ、だめ……なんだよ」
「ちっっっっ………」
げぇよ!!!!!
なんで伝わらないんだと光琉はもどかしさで頭を掻きむしりそうになった。俺は突然キスする発情魔でもないし、誰にでもキスする変態でもない。律、お前だからなんだと律の肩を掴む指先に一層力が入る。
「ちがう、好きなんだ、律のことが! キスしたいからとか、そんな理由じゃない! 俺はお前と、恋人になりたい!!」
こんな必死に言い募って情けなさすぎると自分でも思うが、そうまでしても光琉は律を手に入れたかった。この好機を逃したら、またいつこの鈍ちん大王の律と良い雰囲気になれるか分からない。それに一緒にいない間に水野とかいう男にちょっかいを出されても困る。
だからどんなに情けなくても構わなかった。光琉は今日、今すぐに律と恋人になりたかった。なるんだと、さっき決心したのだ。
鼻息荒く詰め寄る光琉を前に、律はほとほと困りきった様子で、真っ赤に染まった薔薇のような頬と、ぷるりとうるんだ唇を揺らして、さらに眉を寄せた。
「こ、恋人って……で、でもこういうパートナー関係の二人がそうなっちゃうと、色々面倒なことになるって、僕、先輩から聞いて……」
「は? 先輩? 誰? 例えば? どんなこと?」
俺たちの前に立ちふさがる障害はどんなものであっても押しのけてやるという覚悟の光琉は、及び腰の律に詰め寄るようにして問いただす。
「あ、その……喧嘩したり、別れたりしたら……パートナー関係も終わっちゃうからって……」
「俺たち今まで一緒にいて喧嘩なんてしたことないだろ。それにこんなにも息ぴったりでお互いの深い部分まで認めあっている俺達が別れると思うか?」
戸惑う律をなんとしてでも納得させるべく、光琉はさらに身を乗り出した。両膝で律を囲い込み、逃げられないように二の腕もがしっと掴む。
「でも……でも……」
それでも律は視線を彷徨わせ、まだ踏ん切りがつかない様子だった。
「僕、ヒートも来てない出来損ないのオメガだし……」
へにょりと眉を下げた顔で律が小さく呟いた。その顔はさきほどまでの照れと気恥ずかしさが入り交じった、どこか嬉しそうな感じも見え隠れする──これは光琉の願望だろうか──ではなく、深い悲しみと自信のなさが兆しているよう表情だった。
普通オメガは第二次性徴が始まるくらいの頃、初めてのヒートを経験する。しかし、律は二十歳を迎えた今でも、ヒートもなければフェロモンが出ることもないのだという。そんな出来損ないのオメガがアルファの、その中でもとびきり優秀な光琉の恋人になんてなって良いはずがない、と律は言いにくそうにぽつぽつと口にした。
「律……」
律はずっとこうして人知れず自己否定的な感情に苦しんできたのだろうか。出来損ないのオメガだって? そんなこと誰が言ったんだ? 律は今のままでこんなにも完璧で最高なのに。律がこれまで晒されてきたであろう偏見と差別にむかむかとした怒りを抱きながら、光琉は早口で「律は出来損ないなんかじゃない」ときっぱりと断じた。
「俺の昔の指導者はとても強いアルファだった。だからよく発情したオメガの匂いをぷんぷんまとわりつかせたまま、俺のレッスンに来たりしててさ。その残り香を利用して俺を発情させたりもしたし、実際に発情したオメガを連れてきて目の前で交わっているのを見せられたこともある」
「そんな……」
律が過去のおぞましい話に息を飲んで肩を竦めた。
「つまり、その、俺が言いたいのは……俺はヒートだとか、フェロモンだとか、そういったものにあまり良い印象を抱いてない。むしろ邪魔だとすら思ってる。今でも時々馬鹿な奴がフェロモンまき散らして、会いに来たりするしな」
律だってそういう経験あるだろ、と聞いてみると、律はあまり思い出したくなさそうな表情で頷いていた。
アルファであれ、オメガであれ、ヒートやフェロモンに振り回される特性を持っているせいで、それを悪用してどうにかしてこようとする馬鹿の被害をどうしても一度や二度受けてしまうのだ。
「だから、俺にとって律にヒートが来てなくて、フェロモンも出ないだなんて、逆にそれが最高なんだってことが言いたいんだ。だってそうだろ、ヒートやフェロモンなんて、一週間も頭がばかになって色狂いになるイカれた特性なんだぜ。そのおかげで人類は繁栄してきたのかもしれないが、そんなの俺たちには関係ない」
だから、と一息置いて、光琉は律の両手をぎゅっと握った。
「俺と付き合ってください」
一世一代の告白だった。
これまで数えきれないほどの告白を受けてきたが、光琉が自分から告白したのはこれが初めての経験だ。どきどきと胸が高鳴り、全身の体温が急上昇していく。これまで告白してきた奴らはこんな気持ちだったんだな、と初めて光琉は彼らがなぜ皆等しく緊張した面持ちでいたのかを理解した。
手を握られた律はうろうろと視線を彷徨わせた後、ゆっくりと口を開いた。
「で、でも……」
答えは「はい」に違いない、と期待していた光琉は、またしても肩透かしを食らった。
「なんだよ」
まだなんかあるのか。光琉は喧嘩を売るように唇を突き出した。律が自分を必要としてくれているはずという実感が光琉を強気にさせていた。
律だって俺のことが好きなはずだ。付き合ってなんの問題がある。まだ何かぐだぐだと言い募るようなら、とことん理詰めで律を頷かせてやろうと意気込んでいた光琉は、どんな反論も論破してやると息巻いて次の言葉を待った。
「君と恋人になんてなったら……」
律の瞳がみるみる内に潤んでいく。頬は薔薇色に染まり、唇はシロップでコーティングされたようにぷるりと潤っていた。
「僕、恥ずかしくて、顔見れなくなっちゃう……」
とても小さい声で、律はそう呟いた。
「律っ!」
光琉は堪らず律に抱き着いた。「ひゃっ」と声を上げる律の体は、明らかにいつもより熱い。その熱すら光琉は愛おしくて堪らなかった。
かわいい律、うぶで抜けていて鈍くて、でもまっすぐで優しくて、いつも笑っている俺の律。
光琉は律への気持ちが溢れかえって、そのあまりの多さ、深さに自分で溺れてしまいそうだった。
「俺、お前のこと絶対大事にするから! 何があっても絶対に別れないし、喧嘩もしない! 律が恥ずかしがるようなことも、極力しないように気をつける! だから、お願いだから、俺の恋人になってくれ!」
もはや土下座する勢いの、告白というよりは、情けない懇願だった。しかし、それの何が悪い。それで律が手に入るのなら、安いものだ。情けない土下座、上等だ。何度だってしてやる。
光琉は律を抱き締めながら、どうか頷いてくれと祈った。律の心臓がバクバクと動いているのが伝わってくるし、おそらく自分の心音も律に聞こえているだろう。
その姿勢のまま、数秒間無言の状態が続いた。光琉にとっては、それが永遠とも思えるほど長い時間のように感じた。
やっぱり駄目なのかと心が折れそうになった瞬間、そっと、控えめに背中に触れるものを感じた。温かく柔らかなそれは、律の手の平だった。律が抱き返してくれたのだ。
「あ、の……僕、こういうこと何もわからないけど……その……よ、よろしく、おねがいします」
尻すぼみに小さくなっていく律の声。光琉は思わず「律!」と叫び、感情のままに律をさらに抱き寄せた。喜びのあまり、つい力が入りすぎてしまったことには、目を瞑ってもらいたい。
「ぐえっ」
「大切にするからな! 絶対悲しませるようなことはしない、喧嘩もしない! 好きだ、大好きだ、律!」
さらに身体を火照らせた律からは消え入りそうな声で「僕も、すき……だよ」と小さく聞こえてきた。
太陽が真上に来たら綻ぶ花のように、春が来たら大陸を渡る鳥のように、二人にもその時が訪れたのだと光琉は思った。ストリートピアノを弾く律を見かけたあの日から長い年月をかけ、知らぬ間に熟成されてきた愛が、遂に通じ合い、結実した瞬間だった。
その長い物語を律に聞かせたら、律はどんな反応をするだろう。「うそだぁ」といって笑うだろうか。それとも「まさか」と信じてくれないだろうか。
そのどれでもいい。どんな反応であってもいいから、光琉は律にもっと自分のことを知ってもらいたいと感じたし、律のことももっと知りたいと思った。
「実は、俺さ……」
そう話し始めた光琉の部屋の灯りはその日、時計の針が頂点を回った後も消えることなく、灯り続けていた。夜の闇に沈んだ街にぼんやりと浮かぶキャンドルのように、その灯りはいつまでも明るくあたたかく灯ったままだった。




