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不機嫌王子と運命の伴奏者  作者: エウロパ
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── 二楽章 ──

 肌を切り裂くように冷たい風が吹きすさぶ街中を、光琉は何も持たずに歩いている。寒さに肩を縮こめて、中学に入学した年に親からプレゼントされた皮の手袋をはめた手を揉むようにすり合わせて歩いている。

 どうしてこんな所を歩いているんだっけ。

 光琉が不思議に思っていると、どこからかピアノの音色が聞こえてくる。ぽろり、ぽろり。その音に導かれるように先へ進んでいくと、トンネルの先から光が差し込むように、眩い光が溢れている場所があることに気が付いた。

 なんだ、あれ。

 ブレザーの襟元を掻き合わせ、白い息を吐きながら、光琉はじゃりと靴裏を鳴らして近づいていった。するとトンネルを抜けた先、溢れんばかりの光の中で、黒髪の少年が楽しそうにピアノを弾いていた。

この曲はなんだっただろう。ああ、そうだ。ショパンのピアノ練習曲だ。優しい、柔らかな音色。まるで全身を包み込み、癒してくれるような。

 もっと聴きたい、もっと浸りたい。

 光琉はその少年に近づこうと足を進めるが、二人の距離は一向に縮まらない。それどころか歩くほどに少年は光の中へ吸い込まれて、どんどん遠ざかっていく。

 ──待ってくれ、行かないでくれ!

 光琉が叫んで走り出したいのに、足が上手く動かなくて、進んでいかない。ああ、なんだこれ。ちくしょう。ちょっとまて、なんかこれ。見覚えがある。ああ、そうか。これいつもの夢だ。

 そう気付いた瞬間、光琉は自室のベッドの上で目を覚ました。いつも通りの天井、楽譜と楽器と、最低限の家具だけがある、生活感のない部屋。

 むくりと起き上がり、ぼりぼりと頭をかいて、大きなあくびをひとつ漏らす。

 あの夢を見るのも何度目だろう。昔から見続けているストリートピアノを演奏する少年の夢。声をかけたいのに、絶対にそれは叶わない。

 キッチンに置いてある籠からリンゴを一つ取り上げ適当に洗い流し、コーヒーマシーンでコーヒーを入れると、食卓兼作業机の一人用の小さなテーブルに腰を落ち着けて、昨夜読みかけだったスコアをぺらりとめくった。

 様々な曲のスコアを読み込むことは、演奏のタイミングや強弱といった全体の調和を取るためだけでなく、音楽というものの本質や神髄を理解するのに役立つ行為だと最近わかってきた。

 スコアを読むことでそれぞれの作曲家が誰から影響を受けたのか、自分なりの表現をどう模索したのか、作曲の癖や嗜好、苦しみ、悲しみ、愉悦。彼らの作曲人生の軌跡をなぞっていくことが出来るのがとても面白い。

 最近読み耽っているのは、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ全曲集だ。五百ページほどからなるハードカバーのこのスコアは、推理小説に登場すれば必ず凶器として使用されるだろうほどの重量を誇っている。それを毎日少しずつ光琉は読み解いていっているのだった。

現代音楽にまで繋がる音楽理論と音楽技法の基礎を作り上げ、音楽の父として知られているバッハ。彼の音楽理論と技法を受け継ぎ、自由な発想と当時の世相や流行りを取り込んで、音楽をさらに豊かで自由なものにしたモーツァルト。

そしてバッハを敬愛し、モーツァルトの弟子になりたいと強く願いながらも叶わなかったベートーヴェン。代わりにモーツァルトと親交の深かったハイドンに弟子入りをしてバッハやモーツァルトの精神を受け継ぐ作曲技法を学んだ。

その相関関係や影響がスコアを読み込むことで見えてくるのだ。まるで彼らの人生を描いた小説でも読んでいるように。

きっとこの感覚を律も分かってくれるに違いない。早速今日ベートーヴェンのヴァイオリンソナタでも合わせてみるか、と光琉はリンゴの食べかすをつけたまま口の端で微笑んだ。


レッスン棟の端っこにある、レッスン室の奥の部屋。初めてセッションしたあの日から、その部屋は光琉と律が合わせる定番の場所となっている。

薄暗い廊下の奥まった場所に位置するそのレッスン室は二人にとって、都合の良い場所だった。律が光琉の伴奏者の地位に収まったことを知らせる号外が大学の新聞部によってばら撒かれたせいで、律の実力はどんなものかと確認しようとする野次馬が多く出没するようになったからだ。

でもまさかこの半分物置部屋みたいな古ぼけた一室で、光琉と律が演奏しているだなんてまず誰も思わない。だから二人はよくここで秘密裏に集まってセッションを繰り返しているのだった。

埃舞う静寂を切り裂いて、光琉のヴァイオリンが重音を響かせる。完璧なピッチではまった重音は心地よく空気を震わし、律の伴奏へと受け継がれていく。

光琉の期待通りの硬さ、強弱、テンポ感で紡がれる伴奏に、光琉は興が乗っていき、心地よい安定感のもと、どこまでも伸びやかに軽やかにベートーヴェンのヴァイオリンソナタで一番難しいとされる第9番『クロイツェル』の一楽章を演奏していった。

今日初めて合わせるはずなのに、どうしてだろうか。律がどう演奏してくるかが、手に取るようにわかる。同じようにきっと律も光琉がどう弾いてほしいかをすべて分かったうえで弾いてくれているに違いない。

演奏の合間にちらりと律のほうへ視線を向けると、律はそれにすぐ気付いてにこりと微笑みかけてきた。光琉もそれに頷いて応え、口の端で微笑み返し、視線を楽譜へと戻す。

律と一緒ならなんだって弾ける、どこまででも行ける。突然、背中に大きな翼が生えたような全能感を得て、光琉はより一層いきいきと伸びやかにヴァイオリンを響かせるのだった。

もたつく指先や、思い通りに響かない音色、てんで的外れな伴奏者に対していつもひそめられ、深く皺の刻まれていた眉間が、律と演奏する時だけは、綺麗にならされた地面のように真っ新に皺が消えていることに、光琉自身はまだまったく気づいていない。


結局楽しくなりすぎてクロイツェル全楽章を通し、上手く行かなかった場所を何度もさらいなおしている内に窓の外は昼間の明るさから、真っ赤な夕焼け空に変わり、そして今ではとっぷりと夜の闇に沈んでしまっていた。

「はーっ、今日も弾いたねぇ。光琉と一緒だとつい何時間でも楽しくて、弾き過ぎちゃうよ」

 気をつけなきゃ腱鞘炎になっちゃうね、と律が屈託のない笑顔で言って、手首をくるくると回しストレッチしていた。

「たしかに気をつけないとな。俺も指先痛い」

弦を抑え過ぎた指先がじんじんと熱く痛くなっていた。こんなになるまで弾いたのはいつぶりだろうか。律と出会う前までの光琉はさほど練習をしなくても誰よりも巧みに弾くことが出来たので、必要最低限の練習だけでいつも終わらせていた。

「たくさん練習して身体壊してたら意味ないからね。時間決めて弾いたりしないとね」

 そう言いながらも楽しそうに顔を綻ばしている律は、光琉がヴァイオリンの弓を緩めたり、楽器本体を拭きあげている間に、弾き収めのクールダウンのためにか、バッハの平均律クラーヴィアを弾き始めた。

 それに反応した光琉の身体が一瞬びくりと揺れたが、律は気付かないままに弾き続けていく。その内、律が思い出したように「そういえば」と切り出した。

「なんだよ」

「君ってバッハ弾かないよね。ほら、ヴァイオリンの無伴奏のソナタなんて定番なのにさ」

 ピアニストにとっての音楽のバイブルが平均律クラーヴィアなら、バイオリニストにとってのそれは無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータだろう。

 とあるプロバイオリニストは練習をする際にまずバッハのソナタから弾き始め、練習を終える時もまた同じ曲を弾いて終えるのだと、何かのインタビュー記事で語っていた。そうすることでバッハの音楽性が身体に染み込むよう祈っているのだと。

それほどまでにバッハのソナタとパルティータというものは、バイオリニストにとって重要なものなのである。

「確かこんな感じだったっけ」

 律が無邪気に言って、鍵盤に指を置いた。鼻歌でメロディをなぞり、「ああ、そうだこんな感じ」と曲調を思い出した律が、ソナタ第一番の冒頭を弾きかけた、その瞬間。

光琉は反射的に駆けだして、鍵盤に勢いよく手を叩きつけていた。部屋中に暴力的とも言える音の衝撃が鳴り響く。

鼓膜と脳がビリビリと痺れ、最初なにが起こったのか、なにをしてしまったのか、律も光琉もうまく呑み込めなかった。でたらめな不協和音だけが部屋中に余韻を残して消えていった。

やがて完全に静寂が戻ってくると、光琉は俯いたまま、ぼそりと絞り出すように一言呟いた。

「……くな」

「え、な、なに」

 聞き取れなかった律が戸惑った表情で聞き返す。

「……弾くな、バッハを。俺の前で、二度と弾くな」

 顔をあげた光琉の表情は苦しそうに歪められ、血の気が引いて蒼白になっていた。呼吸が浅くなり、暑くもないのに背中に冷や汗が垂れ落ちる。

 頭の中では「やめろ! 黙っておけ!」とどこかから響いていたが、光琉はどうしても平気な顔をしてやり過ごすことが出来なかった。

──どうしても、どうしても駄目なんだ。バッハのソナタとパルティータだけは。

なんで、どうして、と尋ねたそうな表情をしている律に応えてやることも出来ず、光琉は身を翻すと楽器ケースを背負い、「帰ろう」とだけ言って先にレッスン室を出た。


いつもは合わせた曲についての感想戦が始まる賑やかな帰り道も今日ばかりは二人とも押し黙ったまま、とぼとぼと歩いていた。気まずい沈黙が二人の間を満たし、なんとも居心地悪い時間が続いている。

律が何度も何かを言おうとする素振りを見せるが、それが具体的な言葉となって出て来ることはなかった。押し黙ったままの光琉の心の中では、葛藤が嵐のように吹き荒れて、何度も鍵盤に手を叩きつけたあの瞬間がフラッシュバックする。

──どうすればよかったんだ、クソッ。

知らず知らずのうちに舌打ちをしてしまい、隣を歩く律の肩がびくりと跳ねた。

あ、やべ。律をさらに怯えさせてしまったことを悔やんだ光琉は、何か少しでも空気を換えられるようにと話題を探した。だがこういう時というのは、なぜか一向に良い話題を見つけられないものなのである。

それでも何か話さないと、と焦った光琉は考えうる中で最も悪手な話題を選んで口に出してしまった。

「そういや、律ってオメガだよな」

「え、なに、突然。そうだよ、僕はオメガだよ」

警戒心を滲ませた律の少しだけ棘のある返事に、光琉はすぐ「ああ、やべえ、やらかした」と後悔した。

バース性に関する話題なんてどれだけ親しい間柄でも、話題にするべきではないセンシティブな話題だというのに。どうしてよりにもよってそんなことを口に出してしまったんだ、と光琉は激しく後悔したが、もはや後の祭りだ。既に口にしてしまった事実は取り戻せない。開き直った光琉はなんとか巻き返せやしないかと慎重に言葉を選んで続けた。

「いや、ほら、なんていうかさ、律みたいに相当な実力があるオメガって他に会ったことないなと思って。アルファなら時々いたりするけど」

 光琉の言葉を聞いて律は一瞬大きく眉をしかめ、答えを探すように地面へ視線を落としたが、ふぅと息を吐いて肩を竦めると、

「まぁ、そうだよね。生まれた時から祝福されることが宿命づけられたアルファだったら、僕ぐらいの演奏技術なんて、すぐ身につけられちゃうからね」

 と冗談めかして答えた。しかしその声には棘が含まれており、表情はどこか青褪めてこの話題を一刻も早く終わらせたそうだった。

「いや、そうじゃなくて……」

 いつも優しい律の少しばかり冷ややかで引き気味な態度。光琉は続く言葉が上手く出て来なくなり、口をもごもごと動かすことしかできなくなった。

 オメガよりアルファの方が生まれながらにして優れているなんてことを言いたかったわけじゃない。光琉はただ、純粋に律の努力を称えたかっただけなのだ。オメガなのに、こんなにも深い音楽性を持っており、理想の音楽を体現できるほどの技術を身に着けている律を。と、そこまで考えて光琉ははっとした。

 ──俺は今、何を考えた? オメガ「なのに」?

 光琉はその時初めて、自分の中にオメガへの差別意識が存在しているんじゃないかと気が付いた。まったく自覚していなかったそれは、もしかして今までも行動の片鱗に現れてやしなかっただろうか。光琉の頭から血の気がサッと引いていく。

 バース性、特にオメガであることに関して律は触れられたくなさそうな素振りを見せたが、光琉はこれまでアルファだのオメガだの気にして律に接することなんてなかった。でももし、今みたいに意図せず差別意識が出てしまっていたとしたら。

「律ッ!」

 光琉は思わず律の肩を掴み振り返らせた。

「うわっなんだよ、びっくりしたぁ」

 振り返った律は意外にも、いつも通りの律に見えた。

 先ほど青褪めて見えた顔はもういつも通りの血色の良さを取り戻しており、冷ややかに感じた態度もいつもの柔和さに戻っていた。

「え、あ、いや、その……」

 勢い込んで振り返らせたのに、意外と何とも思ってなさそうな律の様子に、光琉は拍子抜けしてしまった。さっき様子が変だと思ったのは俺の勘違いだったのだろうか。

「悪い、なんでもない」

土下座する勢いで謝ろうと思っていたのに、結局光琉はきちんと謝ることもできず、言葉を濁して黙ってしまった。

 そんな光琉の様子を隣で歩く律は不思議そうに見つめていた。先ほどのやり取りを律が気にしているのかどうかは分からなかった。

今日のレッスン室での出来事といい、今のやりとりといい、光琉の心の中には言語化できないもやもやがどんどん積み重なっていった。

何か言いたいのに、何も言葉が出てこない。それなのに、残りの帰り道はどんどん短くなっていく。こんな気持ちのまま別れてしまったら、きっと今夜は眠れないだろう。そんなことをぐるぐる考えている内に、光琉はぽつりと、

「俺んち、行くか」

 と呟いていた。

 言った瞬間、はっとした。やってしまった。ほぼ無意識と言ってもいいほど、言葉が勝手に転がり出た。

 光琉は以前から、自分がアルファで律はオメガであるという関係性上、絶対に律を家に招いたり、律の家に上がり込んだりしないと密かな誓いを立てていた。

それは本能のまま律を襲ってしまうことを恐れたからというよりは、そうすることがアルファというバース性を持つ者のオメガ者への最低限のマナーなのだと思っていたからだ。

 普段は必ず律を家まで送り届け、部屋の鍵が閉まるところまでを見届けている。今日もそうすべきだ。光琉の脳はそう理解っていた。

しかし今夜だけはどうしてもまだ律と一緒にいたいと心が叫んでいた。とてもこのまま律を家まで送り届け、一人で家に帰る気なんて起きやしない。

律が二人きりの部屋では嫌だというのなら、カフェでもファミレスでもいい。どこでもいいから、とにかく律と二人でいたかった。

 光琉の心臓はどくんどくんと高鳴り、手のひらは汗でびっしょりだった。

──頼む、断らないでくれ!

断られたらきっと光琉は平静ではいられない。

そんな願いが通じたのか、律は少しばかり逡巡している様子を見せたが、最終的には「いいよ」といつもの優しい笑みで光琉の申し出を受け入れたのだった。


「お邪魔します」

 家に辿り着くまでの道中、光琉は「やっぱやめる」と律が発言を撤回することを恐れて、終始早足で家まで帰ってきた。律はそんな光琉に何か言うでもなく、ちゃんと後ろを付いてきてくれ、今も初めて入る光琉の家の中をきょろきょろと見回して「何もない、殺風景だね」と笑っている。

 あれこれ気にして緊張していたのは俺だけだったのだろうか。光琉は少し拗ねたような気持ちになったが、せっかく律が家に来たのだから、と張り切って冷蔵庫の中を漁ってみた。

 しかし中には炭酸水のボトルが何本かと、いつ買ったのか覚えていないビタミンのサプリ、それから小腹が空いた時に摘まんでいるトマトくらいしか入っていなかった。

「わあ、君って普段何食べてんの?」

 後ろから覗き込んできた律にからかうように言われ、光琉は「もてなすことも出来ないのか、俺は」なんて落ち込みながらも「りんご」とだけ答えた。仕方がない、今日はピザでも取るか。光琉としては不本意な提案だったが、意外にも律はそれを歓迎した。

「やったぁ、ピザ! 一人暮らしだと食べたくてもなかなか頼む機会ないんだよね」

 と、屈託のない笑顔で笑った。

「すごい量の楽譜だね。ヴァイオリンのパート譜と、それからスコア? すごいね、これ全部読んでるの?」

 光琉がピザを注文している間、家の中を探索していた律がぎちぎちに詰まった本棚を見て、感心したように背表紙を指で撫でていた。

「ああ」

 ちょうど今朝、律とスコアの話が出来たら面白いんじゃないかと考えていたことを思い出し、光琉は今日一緒に演奏したベートーヴェンのヴァイオリンソナタの楽譜を手に取った。

「わあ、分厚いスコア! しかもハードカバーだ。すごいな、こんなの持ってる人そんなにいないと思うよ」

「そうか? でもスコア読むのって楽しいだろ」

「楽しいの?」

 律は意外そうな顔をして光琉を見返し、「楽しいとか楽しくないとかでスコア見たことなかったな」と光琉の手から辞書のような本を受け取ってパラパラとめくる。

「僕はピアノだからかな、全体の楽器の動きってあまり正確に把握してないんだ」

 伴奏科だと協奏曲演奏しないからオケと合わせる機会もそんなにないしね、と律は付け加える。

「ああ、そういう読み方じゃなくて、どの作曲から影響を受けているかとか、どんな音楽理論を受け継いでいるかとか、そういう体系的なことを考えながら読むと小説を読んでいるみたいでおもしろいなと思って」

「へえ、西洋音楽史論みたいな読み方してるんだね。君って頭いいな」

 律なら分かってくれるかと思っていたが、あんまりぴんと来ていないようで、光琉は正直がっかりした。音楽の愛称が良いだけでなく、自分が面白いと思うこと、好きな物、趣味嗜好、生活のすべてを律と共有出来たら、と無意識の内に抱いていた期待が打ち砕かれたような気がした。

 しかし、律は続けて「僕にもそういう楽しみ方、教えてほしいな」と光琉に笑いかけた。その一言だけで、しょげかけていた光琉の心が再び元気を取り戻す。神経質で気難しそうな光琉だが、実は案外単純な男なのであった。

 

 テーブルの上に所狭しと並んだピザ──ペパロニピザとシーフードピザ──とサイドメニューのフライドチキンを頬張りながら、光琉と律は音楽談義に花を咲かせていた。

「僕は作曲家だとやっぱりショパンが好きだなぁ」

「ショパンか。オケだとピアノ協奏曲くらいしか演奏しないから馴染みが薄いが、俺も律が演奏するショパンの音は好きだな」

 ほら前にレッスン室でエチュードを弾いていただろう、と言って光琉はピザを頬張りながら、旋律を鼻歌で再現した。エチュードなんて気付いたら弾いる感じだからいつ弾いたか覚えてない、と律も応じる。

「エチュードの中では『別れの歌』が好きかな。あれを弾いているとなんだか嫌なこととも別れられる気がして癒されるっているか。あ、でも『別れの歌』ってタイトルは後付けでつけられたものなんだけどね」

 プラセボ効果かな、と律は口の端にトマトソースをつけたまま笑った。

「君は? 好きな作曲家はいる? 今日弾いたベートーヴェンとか、バッハとか……あっ」

 ピザを齧った律がしまったという顔をして、ちらりと光琉の様子を窺うように視線を向けた。レッスン室でバッハのソナタに過剰反応を見せたせいだろう。

光琉は一瞬なにか言うべきかと思ったが、結局その視線には気付かない振りをして話を続けることにした。

「俺は割と現代的な曲とか好きだな。ショスタコとかプロコとか」

「うわぁ、好きそう」

 ショスタコーヴィチにプロコフィエフ。どちらもロシアを代表する作曲家だ。どちらの作曲家の曲も難解であったり、過激であったり、好き嫌いが分かれるものが多いが、光琉はそんな気難しそうな彼らの曲に共感を覚えて好んで弾いているのだった。とっつきにくい難解な曲の中には、強い祈りが込められているものもあれば、独特な哲学がちりばめられているものもある。光琉はそうした作曲家の精神性が好きだった。

律はそれを「君らしいね」と面白がってころころと笑った。

酒も飲んでいないのに、ふわふわといい気分なのは、律と一緒にいるからだろうか。ずっとこんな幸せな時間が続けばいい。光琉はそう心のうちでそっと願った。律が俺の話を聞いて嬉しそうに笑ってくれれば、それ以上の幸福なんてこの世に存在しない、と。一言でいえば、完全に浮かれていたのだ。

 しかし、次の律の言葉で、幸福の只中にいた光琉は、一瞬で凍りつくことになる。

「そういえばさ、光琉の小さい頃の指導者ってどんな人? 君の才能を見出してここまで引き出したんだから、きっとすごい人なんだろうね」

 先ほどまで温かな陽の光あふれる花園にいたと思ったのに、突然流氷の浮かぶ凍てつく海に引きずり込まれた気分だった。温かかったはずの手足が一気に冷えて感覚がなくなっていく。頭の奥深くで誰かが歪んだ鐘をガンガン鳴らしている音が遠く、近く、響いていた。

 ──やめろ、思い出すな。

 律は単なる世間話として、話を振っただけだ。変な反応さえ返さなければ、きっとすんなり話は流れていく。

 光琉は目をつぶり、こめかみを揉んで、ふーっと細く長く息を吐き、あの記憶を思考の外へ追い出そうとした。

 しかし一度開きかけたパンドラの箱は大人しくまた閉じてくれるはずもなく、光琉の精神を大きく揺さぶりながらその中身を少しずつ露呈させ始めた。

遠くから二度と聞きたくもない、しかし身体の奥深くに刻み込まれて離れない、あの旋律が迫ってきていた。

行為中にいつも流されていたあの曲だ。バッハの『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』。

 頭の中で響く鐘がより一層酷くなり、聞こえてくる旋律と相まって、耳からも目からもなにかが溢れ出しそうだった。頭が割れるように痛い。光琉はたまらず食べかけのピザを投げ出し、頭を抱えて俯いた。

「どうしたの?」

 心配そうな律の声。光琉は気力を振り絞って、

「なんでも、ない」

 と明らかな嘘で答えていた。

 叫びだしてしまいそうな錯乱状態の中でも、律の声だけは鐘の音にもあの曲にも邪魔されずにすっと聞こえたことに光琉は驚いていた。律の声が吹きすさぶ嵐の中で唯一の道しるべとなる灯台の力強い光ような安心感を与えていた。

 思わず律を探して、手を空中に彷徨わせてしまう。

ぎゅっとその手を握り返し、背中に手を添え撫で下ろしてくれる律の体温に光琉は縋った。律の声や手で触れられた部分から何かが流れ込み、瞬間的に浄化された感覚があったのだ。

 まるで山頂に遮られ陰っていた太陽が、突然激烈で燦爛たる陽光を照らしつけたみたいだった。暴力的なまでに圧倒的で神聖な光。一瞬で世界のすべてを白く眩く染め上げ、浄化してしまう威力を持つ聖なる光矢だ。

 それが光琉の身の内に巣食う闇を勢いよく散らしていく。闇はその光を恐れ、けして照らされることのないよう影の中を隅へ隅へと逃げ惑っていった。少しでも光が当たればじゅわっと煙を吐いて焼き消えてしまう。しかし光は隅々まで容赦なく闇を追い、影の中も構わず照らしつけていく。やがて隠れる影の無くなった闇は這這の体でパンドラの箱に逃げ込み、その蓋をぴっちりと隙間なく閉め切った。

 鐘の音も、あの曲も、もう聞こえなかった。

 何が起こったのか、よく分からなかった。

カウンセリングでも催眠療法でも、何をやっても逃れられなかった過去のトラウマを、律が一瞬で撃退した?

一度フラッシュバックすると大抵一月は苦しむことになるというのに。そんなまさか、嘘だろう。信じられない。

ぱっと顔を上げた光琉は真っ直ぐ視線を律に向けると、先程の強烈な光と同じくらい律の姿は輝いて見え、その眩しさに思わず目をぎゅっと瞑った。

「大丈夫? 顔が青褪めてる。お水持ってくるよ、冷蔵庫にあるよね?」

 律の手指がそっと頬に添えられ、その温かさに思わず吸い寄せられた。猫のように頬ずりをして、唇を寄せそうになる。

 律はそんな光琉の頭を一撫ですると立ち上がろうとした。しかし光琉はそれよりも早く律の手首をぐいっと引き寄せて、すがりつくように律の腰に抱きついた。

 光琉の身体は小刻みに震えていた。浅い呼吸を繰り返し、明らかにいつもの様子ではない。律はそんな光琉の様子に戸惑っているようだったが、しがみついてくる光琉を押し返すようなことはしなかった。

「しばらく……このままで、いてくれ」

 腹に顔を押し付けたまま、くぐもった声で光琉はそう懇願した。律が断らないことは分かっていた。戸惑ったままの指先がそっと光琉の頭を撫で、そのまま何も言わず、光琉の頭をきゅっと抱き締め返してくれた。

 それだけで光琉は「もう大丈夫だ」と直感的に理解した。数多くの医者、数えきれないほどのカウンセラーにかかっても、克服できなかった呪いのような過去。

 その楔から光琉を、律が解き放ってくれたように思えたのだ。


「あいつら、いつもバッハを流してたんだ」

 光琉がそう話し始めたのは、三十分も経ってからだった。光琉と律はベッドの上で一枚の毛布に包まって身を寄せ合い、律は光琉を支えるように肩を抱き寄せて、話を聞いていた。

光琉はごく小さな声でボソボソと語りだした。それはまだ光琉がほんの小さな頃、ヴァイオリンを始めてから間もない頃の話だった。


 ──まだ昼間だというのにカーテンが引かれた薄暗い室内。傍らにはいつでも弾ける状態で置かれた子供用の分数ヴァイオリン。部屋の隅では乾燥を防ぐための加湿器がもうもうと白いミストを吐き出している。バカでかいオーディオ機器から流れてくるのは、いつものあの曲だ。

 ──バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ。

 既に何度も弾かされて、聞かされて、体の奥の奥、骨の髄にまで刻み込まれている名曲。

「バイオリニストになくてはならない曲、バッハのソナタとパルティータ。それなのに俺はあれを聞くといつも狂いそうになる。まるで呪いだ」

 ──薄暗い部屋の中には、鈍く光る銀髪を後ろに撫でつけた怜悧な視線の指導者の男。そして、活動資金を援助しているパトロンの初老の男。二人とも数年前から活動の拠点を日本に移している外国人だった。そしてもう一人、その二人に才能を見出された一糸まとわぬ姿の光琉。その三人だけしか居なかった。

 「演奏は身体の微細な動きでも大いに影響する。そのためどんな状況であっても体の隅々までコントロールすることが必要だ」と、それらしい建前で始められたこの『特別指導』。

 なぜ裸でやらなきゃいけないのか、色んなところを触られるのがいやだ、毎回ビデオに撮るのをやめてほしい。

幼い光琉はいくつもの疑問と不満を抱えてはいたが、それでも二人に逆らったことはなかった。

 なぜなら銀髪の指導者は幼少の頃より神童ともてはやされ、数々の著名なコンクールで一位を獲得した現在も世界中で活躍する名ソリストであり、初老の男はそんな神童たちの才能をいち早く見出しては援助し、世界的に有名な演奏家に育て上げてきたかなりの実績ある人物だったからだ。両親からも「先生たちの言うことをよく聞いてしっかり従いなさい」と言い含められていたのだ。

 そんな状況下でまだ子供だった光琉にどんな選択肢があっただろう。

彼らのことを絶対と思い込み、彼らの話す言葉は聖書のように正しいのだと信じ切っていた、可哀想で哀れな子供。

 薄暗い部屋の中で、光琉は実に様々なことをさせられた。そのすべてがヴァイオリン上達のために不可欠なのだと、男たちに唆されて。

 筋肉の動きを見ると言われ、裸でストレッチをさせられた日から、指導内容は次第にエスカレートしていき、小さな光琉にはその行為が本来どんな意味を持つものなのか、想像もできない範囲にまで容易く及んでいった。

 口に勃起した陰茎を含まされた日も、アナルに指を入れられた日も、男と互いに口淫しあい初めてイクという感覚を覚えさせられた日も、腹の上に熱い精子をかけられ驚いて泣いてしまった日も、床に置かれたマットレスの上で初めて男の陰茎を受け入させられた、あの日も。

 いつでも部屋の中にはバッハのソナタとパルティータが流れていた。光琉の泣き声やたまらずあげる叫び声を掻き消すほどの音量で。

 それらの行為がおかしいことだと光琉が知ったのは、学校で初めて本格的な性教育の授業を受けた時だった。

これまでの男女の体の違いや一次性徴、二次性徴などの優しい性教育ではなく、生殖方法やコンドームの使い方を教える本格的な授業。

その中で解説されている行為──本当に心を許せる相手、信頼できる相手とだけする神聖な行為です、と解説されていた──と、自分が日々行われている行為はもしかして一緒なのではないか、と疑問に思ったのだ。

 授業の後半では性行為が恋人や夫婦にとっていかに重要で幸福な行為であるのか、興味本位での性交や遊ぶ金欲しさに自身の体を売る行為がいかに危険で恥ずべき行動なのかを解説する動画が流された。

 ──愛し合う相手と。正しい知識で。新たな生命をつくる。素晴らしい行為。

 それらの言葉と、これまでさせられてきた数々の行為の記憶が、光琉の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、膨張しねじくれ、限界まで張り詰めて、遂には爆発した。

気付けば光琉は机の上に嘔吐していた。騒然となる教室の映像がスローモーションで流れていき、視界が床でいっぱいになったところで記憶は終わっている。

 その後家に帰り着くなり、光琉は泣き叫びながら楽譜をすべて破り捨て、レッスン内容を記録していたノートをすべて真っ黒に塗りつぶした。事態に気付いた母親は狼狽えながらも「やめなさい、光琉」と止めようとしたが、振払われてどうにもならなかった。

 部屋中がぐちゃぐちゃの紙きれで溢れかえり足の踏み場もなくなった頃、部屋の中に綺麗な状態で残っているのはヴァイオリンだけになった。

最近フルサイズに買い替えたばかりの、光琉の愛器。その前にゆらりと立ち、叩き壊してやるつもりで両腕を振り上げた。後ろから「光琉!」と悲鳴のような母の声が聞こえた。

 ──音の理想が高く、なかなか納得のいく楽器が見つからなかった日々。指導者から紹介された楽器商の楽器にも首を振らず指導者とパトロン、そして両親までもを困らせ、街中にある楽器店を練り歩き、最後の最後に辿り着いた歴史の澱に半分埋もれかかった個人店。その最奥に飾られていた楽器を見つけた瞬間、「これだ」と直感したあの驚きと喜びを光琉は今でもはっきりと覚えていた。

 三代目だという初老の店主はそれを「代々受け継いでいる家宝」だと言って、はじめは「売るつもりはない」と頑として突っぱねた。

大昔に曾祖父がオークションで掘り出した名器で誰の制作物かも製作年代もわからないが、銀粉をまぶしたような凛とした響き、どこまでも染み渡るように優しく遠く響く音色、歴史の重みが感じられる角の取れた音の柔らかさ、そして奏者の思い描いた音が自在に出せる反応の良さ。そのどれもが、その楽器が『本物』だということを示していた。

幼い光琉は頭を下げて「売ってください」と懇願した。手放したくない店主は楽器の値段を釣り上げて諦めさせようとしたが、それでも光琉は引き下がらなかった。どんなにかかっても自分の稼いだ金で支払うから売ってくださいと何度も頭を下げ、通い続けた。

遂には店主の方が根負けし「そんなに惚れ抜いてくれたなら」と、元の値段で売ってくれたのだ。「その代わり、絶対プロになってくれよ」と言い含めて。

 それから今日まで光琉はこのヴァイオリンを心から愛していた。演奏するのが楽しくて堪らず、寝る間も惜しんで弾き続け、倍の速度で上達していくのを実感していた。あれは運命の出会いだった、諦めなくてよかった。そう何度も思ったものだった。

 そんな記憶が頭の片隅を掠める。それでも光琉は振り上げた拳を固く握り締め、勢いよく振り下ろした。母親の悲鳴が響き渡る。引き裂かれて折り重なった楽譜が足元でガサリと鳴った。

 ──ぼふっ。

 振り下ろされた拳は、ソファの背に柔らかくめり込んだ。

 ──ぼふっ、ぼふっ、ぼふっ。

 連続して聞こえてくるのは、鈍く情けない音だけだった。

「うあああああぁっ!!!」

 光琉の悲痛な叫び声が部屋中に響いた。

結局、ヴァイオリンだけはどうしても壊すことが出来なかった。情けないと思った。それでもヴァイオリンを壊すことだけは、光琉にはどうしても、できなかった。


 その後、病院に連れて行かれた光琉の体に残る様々な痕跡から、指導者たちの行ってきたおぞましい行為の数々が暴かれることとなった。

入院中だった光琉には何も知らされていなかったが、一ヶ月の入院とカウンセリングから解放されて家へ帰ると、光琉の部屋は伽藍としたもぬけの殻になっていた。

楽譜の詰まっていた本棚には何もなくなり、ヴァイオリンのケースも譜面台さえも見当たらなかった。両親は何も聞かなかったし、光琉も何も言わなかった。ほぼ毎日通っていたレッスンは無くなり、指導者の男もパトロンのじじいも街から消えた。どんなやり取りがあったのか光琉は知らないが、両親は光琉が傷付かないように秘密裏にすべて処理してくれたらしかった。

 音楽とは無縁の平穏だが味気ない毎日が一年ほど続いた、ある日のこと。

光琉は駅前に設置されている街角ピアノで楽しそうに演奏する黒髪の少年を見かけた。幼さの残るその見た目から恐らく自分より幾らか年下なのだろうと推測した。年齢の割に熟達した演奏技術をもっている子ではあったが、別にそれくらいの演奏なんて──いわゆる「神童」と呼ばれるレベル──そう珍しくもない。

しかしその演奏には光琉を強く惹きつける何かがあった。弾いている曲はショパンの練習曲だった。

何気なく弾いているように見えるのに、音の粒一つ一つがはっきりと際立ち、街中の騒音の中でも紛れずに聞こえてくる。周りの視線も気にせず、黒髪の少年は、音楽との対話を心から楽しんでいるように見えた。

自分の思い描いた音が鳴る喜び。弾けなかった箇所が何故かすんなりと引けたときの驚きと歓喜。演奏する難しさ、楽しさ、嬉しさ。忘れかけていた感情が、その子の演奏を聴いていて、光琉の中で突然溢れ出すように蘇ってきた。

 光琉は彼が演奏を終え両親と手を繋いで帰るのを見届けると、急いで家へ帰りクローゼットの奥深くに仕舞われていたヴァイオリンを取り出した。

久々に手に取ったヴァイオリン。しっくりと手に馴染む懐かしいこの感じ。弦を弾いて音程を合わせ、身体に染みついたいつもの姿勢で楽器を構える。光琉は息を大きく吸い込んだところで止め、静かに弦の上に弓を滑らせた。

静寂を切り裂く開放弦の音。一瞬、過去の記憶が蘇って吐き気が込み上げた。しかし光琉はそれを何とか押しとどめて弾き続ける。暗譜している曲を一つずつ、一年間の空白を埋めるかのように、次々と間髪入れず弾いていく。

 弾くそばからあの男たちの記憶が蘇り、勝手に涙が溢れ、それがうっとおしくて、眉間に皺が寄った。

 ──違う、こんなんじゃない。あの子が、かつての俺が、弾いていたのはもっと自由で、軽やかで、喜びに溢れた『音楽』だった。

──違う、違う、全然違う。こんなんじゃない!

 黒髪の男の子が弾いていた演奏への渇仰と、男達の忌まわしき記憶への嫌悪が相まって、眉間の皺は一層深くなっていった。


「それから俺は演奏する度に眉間に皺が寄る癖がついて、ついたあだ名が『不機嫌王子』。はは、改めて口に出すと馬鹿みてーなあだ名だよな」

 そう鼻で笑う光琉の顔にはこの世のあらゆる事柄に疲れ切り、諦めを帯びた悲しい笑みが浮かんでいた。衝撃的な過去を淡々と単なる業務報告みたいに話し終え、視線は宙に彷徨ったまま、ここではない靄の中に囚われている。

 隣でずっと黙って聞いていた律が突然、ぎゅっと光琉に抱き着いた。頭を抱え、背中を引き寄せ、光琉を全身で包み込むように。

「うわっ、おいおい、なんだよ」

「ごめんね、ごめんね、光琉、ごめんなさい」

 律の声は涙に濡れていた。

「な、なんでお前が謝るんだよ、律」

 謝るべきはこんな話した俺の方だろ。悪かったよ、嫌な話を聞かせて。

 ついそんな風に取り繕ってしまったが、光琉の胸の内には温かいものが込み上げてくるような感覚があった。これまで光琉の過去に同情して涙を流す輩なんていくらでもいたが、その涙のすべてに下心──仲良くなりたい、一番の理解者だという地位を手に入れたい──が透けて見えていた。

 しかし、律の涙は心からの涙だと思った。下心も打算もない、純粋で透明な涙。

律の頬から垂れ落ちた涙粒がぱたりと光琉の頬に着地した。あたたかい。光琉は目を閉じてその涙の雨を受け止める。律の涙が降り注いだ部分が浄化されていくように思えた。涙はさらにぱたぱたと降り注ぎ、光琉を包み込んでいく。

「僕、ごめんなさい、君がそんな辛い思いをしただなんて知らなかった。小さな君がそんな辛い目に遭っていただなんて。バッハを弾いてごめんなさい。君の恐ろしい過去を思い出させてごめんなさい。ああ、でも、僕がもし、その場にいられたら、護ってあげられたかもしれないのに」

 ごめんなさい、ごめんなさい、と律は泣き続けた。光琉はもし律があの場にいたら、真っ先に奴らの餌食になっていただろうから、律はいなくてよかった、なんてことぼんやり考えていた。

「謝らないでくれ、律。お前がそうやって涙を流して俺のことを想ってくれるだけで、俺は救われた気持ちになる」

「僕が泣いたって君を救えない……小さい君をこうしてぎゅっと抱きしめて、変態たちなんか蹴っ飛ばして、僕が君を守ってあげたかった……もし君と僕がその時一緒にいたら……僕が、僕が」

「律」

 ぼろぼろと大粒の涙を零し、過呼吸になりかけている律が不意に部屋の中を見渡した。律の目がある一点で止まった。そこには薄っすらと埃を被っている光琉の副科用のキーボードがあった。

律はふらりと立ち上がり、キーボードの方へと近寄っていく。

「僕にできることは、これぐらいしかない……」

 すぅっと息を吸い込んだ律が静寂を切り裂いて弾き始めたのは、あの日黒髪の少年が演奏していた、ショパンのエチュード作品十 第三番 通称『別れの曲』だった。

優しく染み入るような旋律が光琉を包み込む。そっと目を閉じ、律の奏でる音楽にゆっくりと沈むように耳を傾けた。

 ──あれ、この音。

律の音色は眩い光の中に降り注ぐ慈雨のようだと光琉は思った。あたたかく、柔らかな雨。ぽつぽつと雨粒が頬にあたり、肌を伝い落ちていく感覚すらある。

想像の中で、はじめはぽつぽつと滴る程度だった恵みの雨は、曲調と共に激しさを増していき、やがて温かな雨粒が全身を打ちすえるような勢いになった。まるで熱帯地域のスコールのようだ。光琉はそれをすべて全身で受け止めようと、空全体を抱き締めるように両手を大きく広げ、天を仰ぎ見た。

ばらばらと降り注ぐ幾千の雨粒が光琉の体表を洗い流していくと同時に、どんなにカウンセリングを受けても薬を飲んでも消えることのなかった、ヘドロのようにこびりついた悪夢の記憶が、いとも簡単にシュワシュワと溶け落ちていくのが分かった。

あたたかい雨に抱かれて、光琉の冷えきったまま長いこと温まることのなかった身体は、次第に熱を取り戻していった。瞼の裏で感じる光がより強くなったなと感じて、光琉はそっと目を開けた。光琉はいつの間にか、光あふれる眩い空間に辿り着いていた。

ここは先ほど見上げていた分厚い雲の上なのだろうか。光と雲に満ちているこの空間では遠くを見通すことが出来ない。とにかく少し歩いてみようと足を踏み出してみると、光の向こうから子供らしき甲高い笑い声が聞こえてきた。この世の汚れにも悪意にもまだ接したことのない、無邪気な笑い声だった。そしてその声に交じって『別れの曲』の旋律も響いてくる。

──ああ、きっとあの子だ。どこにいるんだろう。

音に導かれて光琉は光のもやの中を進んでいった。足元の雲たちが前に進むのを応援してくれているみたいに、一歩一歩、ふわんと押し上げてくれるような感覚が足の裏に伝わる。それに勇気づけられて、光琉の歩みは次第に早足になり、小走りに変わり、気付いた時には駆け出していた。進むごとに音はどんどん近づいてくる。両手でもやをかきわけ、跳ねるように走り続け、確信へと迫っていく。

──もうすぐ、もうすぐ。

やたらと分厚いもやを両腕で力いっぱい掻き分けた、その瞬間。

──いた!

漆黒のグランドピアノの前に、小さな黒髪の男の子がちょこんと座って、楽しそうにピアノを弾いていた。光琉からはその後ろ姿しか見えない。

──ああ、あの子だ。

俺に音楽の楽しさを思い出させてくれた、あのピアノの子。

光琉はすぐにでもその子の下へ駆け寄ろうと一歩踏み出そうとした、その時、光琉の身体にどんっと強い衝撃があった。大きな手で背中を強く押されるような感覚。気付いた時には光琉の目の前には、光琉の走り出す背中が見えていた。

その背中は最初こそ大学生の光琉の姿をしていたが、駆けていくうちに高校生、中学生、少年とどんどん小さくなっていき、男の子の元へたどり着いた時には五歳くらいの幼児になっていた。そしてピアノを弾いている少年も同じくらいに姿を変え、小さな光琉が少年に声をかけ、少年はあどけない笑顔で光琉を受け入れ、二人で椅子にちょこんと座って、連弾を始めた。

無邪気な二人は屈託のない笑い声を時折あげながらピアノを弾き、飽きたら鬼ごっこをはじめて二人して転び、靴飛ばしをして靴下を泥だらけにして、木登りしようとして落ちて黒髪の子が泣いたりしていた。

光琉はその様子を見て、胸の内がいっぱいになっていた。光琉の人生にこの子がいてくれていたら、全然違う道筋を辿って来たのかもしれない。あんな悪夢なんて経験せずに済んだかもしれないし、「不機嫌王子」だなんて不名誉なあだ名をつけられずに済んだのかも。

眺めている内に二人は少しずつ姿を変えていき、気付いた頃には小学校を卒業するくらいの年齢に成長していた。

光琉がヴァイオリンを構え、その後ろで少年がにこにこしながら見守っている。ああ、なんだか既視感があるな。そうか、俺と律がレッスン室で弾いてる時に似ているんだ。光琉がそんな風に思っていると、二人は何かを弾き始めた。

何を弾いているのかは聞こえなかったが、光琉には二人がまるで一つの楽器を演奏しているかのように、ぴったりと調和していることが分かっていた。実際に、今の光琉と律がそうなのだから。

 その時、ふと光琉は気が付いた。

 ──そうか、この男の子は……お前だったんだな、律。

 それに気づいた瞬間、光琉の精神は凄まじい力で後ろへと吸い寄せられた。逆行した時間から現代へと無理やり引き戻されるように、少年の光琉と律がどんどん遠ざかっていく。縋るように伸ばした手の指先からちょんと小さく見えるだけになった二人が、遠ざかる光琉を見守っていた。

 ヴァイオリンを大切そうに胸に抱えた光琉。その隣に寄り添うように並び立つ律。その姿を見た瞬間、光琉の心の奥底に杭打ちまでされて固定されていたあのパンドラの箱が、音を立てて焼き消えたのが分かった。

 ──もう大丈夫だよ。

 光琉の心に声変わり前の幼い二人の声が響いた。ああ、もう大丈夫なのか。光琉は素直にその言葉を受け取った。もう二人の姿は豆粒くらい小さくなっていた。その姿が消えてしまう前に、小さな光琉が律の肩を抱き寄せて、ぐっと親指を突き立てるのが見えた。その生意気さが俺らしいなと光琉は小さな笑いをこぼして、すっと自分の身体に戻って来た。その瞬間、優しい旋律は最後の一音を鳴らして終演を迎えた。

 瞼を開けて、律を見つめる。視界が歪み、頬が濡れている。いつの間にか泣いていたらしい。あたたかな雨粒と熱い涙に灌がれ、ずっと灰色がかっていた視界が嘘のように晴れたと感じる。光琉は立ち上がると、まっすぐに律の元へと向かった。

 ピアノの前に座り、俯いたまま泣いている律を、光琉はこれでもかと抱き潰す勢いで抱きしめた。律の存在が愛おしくて堪らなかった。

「ぐえっ」

「ありがとうな、律」

 ──ありがとう、ありがとう。俺を助けてくれて、俺の過去を、魂を救ってくれて、本当にありがとう。

 先程の白昼夢は夢か現か。そんなこと、どっちでも良かった。俺には律がいる。そう思うだけで、光琉は過去も未来も、何も怖くないと思った。あの変態どもに二度と脅かされる必要なんてない、そう心の底から思った。

「律、律、ありがとう、律!」

「わわわ、光琉、力強すぎ、いたいよ」

 自分が光琉にとってどれほど眩い存在なのかをまったく自覚していない律は泣き腫らした顔で鼻をすすり、ぎゅうぎゅうと抱き着いてくる光琉を諫めながらも、その身体を優しく抱き留めて嬉しそうに笑っていた。

 どうしてこんなにも落ち着くんだろうか。光琉は律の肩に顔を埋めて熱い涙を流し続けながら考えていると、ふいに身体を抱き止める腕が二本だけではないことに気が付いた。他に二人、光琉を三方から包み込むように抱き付かれている。それが誰か、光琉には確かめなくても分かった。過去の律と光琉だ。光琉にとっての絶対的な味方が今、光琉の全身を包み込んでくれていたのだ。

 護られている、だからこんなにも落ち着くんだ。

「光琉には僕がいるし、僕には光琉がいるよ」

 だから大丈夫。そう律に囁かれた声には、幼い二人の声も重なっていたように、光琉には聞こえた。

 しばらくそのまま黙って溶け合うように抱き合っていると、その内に律の頭がカクリと倒れ、すぅすぅと健やかな寝息が聞こえ始めた。どうやら安心して眠ってしまったようだった。もう少年の律と光琉の気配は消えていた。

「まったく、どっちが年上なんだか」

 呆れながらも光琉は、律のその単純な健やかさが愛おしくて堪らないと思った。律を抱き上げてベッドにそっと降ろす。起こさないように気をつけながら、光琉もその隣に横たわって電気を消した。

家に誘う時あんなにも気を揉んだバース性の違いを、光琉はもっとすごいことをしているはずのこの時、まったく気にしていなかった。アルファやオメガなんて関係なく、光琉は光琉だったし、律は律だった。お互いを愛おしいと思う気持ちだけが存在していた。

瞼を晴らして無防備に眠る律の様子は、まるで赤ちゃんのように純真無垢で可愛らしい。

「キスしても……いいか、いいよな」

 意識のない相手に聞いても意味のないことを承知の上で問いかけ、光琉は身を乗り出して唇を突き出し、ぷちゅっと瞼の上にキスを落とした。俺の過去なんかに律が煩わされないように。泣き腫らしたあとがすぐ引くように。そんな祈りを込めたキスだった。

「はぁー」

 他のところへもキスしたい気持ちをぐっとこらえて、光琉はごろりと仰向けに寝転がり大きく息を吐いた。

大災害のあと、ノアの箱舟から放たれて大空へ舞い上がった白鳩のような、明るい未来への期待に満ち溢れた爽快な気分だった。こんな気持ち、いつぶりだろうか。いや、初めてかもしれない。

 ──律のおかげだ。本当に出会えてよかった。

 光琉はじんわりとあたたかな幸福を感じながら心の中で呟いた。

──律は俺の運命の相手だ。伴走者として。そして、おそらく番としても。

 律を抱き寄せ、また一つおでこに口付けを落として満足した光琉も、すぐに目を閉じて眠りについた。

 寄り添い合って眠る二人は夢の中で小さな子供に姿を変え、降り注ぐ祝福の中、楽しそうに遊んでいた。そしてそこには、光の中で出会った少年の律と光琉も加わり四人で、いつまでも、いつまでも、仲睦まじく遊び続けたのだった。


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