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不機嫌王子と運命の伴奏者  作者: エウロパ
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── 一楽章 ──

「僕、聖川律ひじかわりつ、ピアノ伴奏科二年! この前の学内演奏会で君の演奏を聴いて一目惚れしました! 僕のパートナーになってください!」


 この嵐のような馬鹿が目の前に現れたのは本当に突然で、その前にはなんの前触れも、予兆も、予告も、ありはしなかった。

まるで愛の告白でもするみたいに、まっすぐ差し出された右手。深く頭を下げているせいで、相手の顔は見えず、つむじしか見えない。

 ──おいおい。

 肩からずり落ちそうになったヴァイオリンケースをかけ直し、久遠光琉くおんひかるはため息を吐いた。

 ──申し込むにしたって、こんな人通りの多い正門通りでやるかよ、普通。ほら、周りの奴らの視線、すげぇ突き刺さってる。恥ずかしい奴。

 内心悪態を吐いた光琉は差し出された右手をパシッと軽く払い除けた。そして溜息を吐くと、これまでに何度となく繰り返してきたお決まりの断り文句をすらすらと舌の上に乗せる。

「断る。俺は誰とも組まない主義だ」

 その言葉に反応してバッと上げられた相手の顔には、分かりやすく「がーん!」と効果音が浮かんで見えた。ふわりとした柔らかそうな黒髪の下から、こちらを覗く大きな瞳。つんと尖った小さな鼻にふっくらと桃色に色づく唇。

 かわいい顔してんなと、光琉はついくらりとしそうになったが、いや惑わされるなと自らを叱咤し、そのまま聖川律と名乗る男の脇を通り抜けた。すれ違いざまに肩がぶつかり、その拍子に律が手に持っていた楽譜が滑り落ちて、地面に散らばった。

途端に静観していた野次馬どもから冷笑と陰口が湧き上がる。

「何やってんのあいつ、ペアなんて組んでもらえるわけ無いじゃん」

「不機嫌王子が笑いかける相手なんていないのに、知らないのかしら」

「てか見て、首輪。あいつオメガじゃん」

「ヤバッ、身の程知らずすぎ」

「ていうか誰なん、あいつ」

「いや、知らん」

 複数の悪意ある視線が律に突き刺さり、聞こえる音量で囁かれる陰口。

 この世には男女という性別の他に、バース性という第二の性別が存在する。それはアルファ、ベータ、オメガという三種類に分類される。

ヒエラルキーのトップを占めるのは、生まれつき能力も才能も見た目も秀でている上流階級であるアルファ。

突出した能力や才能はないが、生産やインフラなど社会の重要な機能を担っている労働階級であり、実に人口の八十%を占めるベータ。

そしてアルファと同じく希少な性であるが、通常はほぼベータと変わらない能力、生活をしているオメガ。しかし特定もしくは不特定の周期でヒートと呼ばれる発情期が起こり、放散されるフェロモンがアルファを引き寄せるせいで社会生活を送るのに困難さが付きまとい、その性質のために蔑まれ、差別されることも多い。男でも女でも妊娠が可能な生殖に特化した性だ。

才能が物を言う音楽の世界では、圧倒的にアルファが多い。オメガなんてごく一部だ。そのためオメガであるというだけで、こうした侮蔑の言葉をかけられていることがよくある。アルファである光琉もその光景は何度となく目にしてきた。

きっと目の前で楽譜を拾い集めている律も何度も同じ目に遭っているのだろう。ぐっと身を縮めて楽譜をかき集める律は、聞こえないふりをしてすぐに立ち上がった。そして懲りずに光琉の下へ駆け寄ってくる。

「あの、僕、君の演奏に本当に感動して、ぜひ一緒に弾きたいって思って、その」

 諦めの悪いやつだな。光琉は舌打ちを一つするとくるりと振り返り、律と向かい合った。

途端に律の顔にはぱぁっと嬉しそうな表情が浮かぶが、光琉はそれを打ち砕くような強い言葉をわざと選んで拒絶の意思を示すことにした。

「おまえと同じこと言うやつなんて、これまで何十人いたと思う? 俺の演奏に感動した、俺の演奏に惚れ込んだ、一緒に弾けば最高の音楽が奏でられる。だが実際はどうだ? 誰一人として俺の相手が務まるようなやつは居なかった。今、俺の隣に誰もいないのがその証拠だ。どうせお前もそのうちの一人だろ。俺にはわかる。お前の音を聞く必要すらない。俺は今後も誰ともペアを組まない。組む予定もない。以上、この話は終わりだ」

 くるりと律に背を向けて、光琉は足早に歩き立ち去った。周りからはまたくすくす笑いが起こり、光琉は忌々しい気持ちで冷たい一瞥を周囲に向けた。途端にピタリと止む笑い声。

 ──少なくとも。

 光琉は心の中で吐き捨てる。

 ──なんの努力も行動もせず安全地帯からただ笑っているお前らみたいなクソよりかは、勇気を出して声をかけてきたコイツの方がよっぽどマシだけどな。

 素気なく律の申し出を断っておきながら、律の肩を持ちたくなっている矛盾──これまでの候補者には感じたことのない感情だ──に光琉は自分でも気が付かないまま、その場を去っていった。

 

「いいか、プロコフィエフ、ヴァイオリンソナタ第一番二楽章、頭から。この一回こっきりだからな、たとえお前が失敗してもやり直しはしない。いいな!」

 苛ついた光琉の声がレッスン室に響き渡る。向かい合っているピアノの前には満面の笑みの律が座っていた。

 あの公開パートナー申し込みから毎日付き纏われ、いつでもどこでもきらきらした大きな瞳に見つめられることにうんざりした光琉は、ただ一度だけの約束でセッションすることを受け入れたのだ。簡単に言えば、律との根比べに光琉は音を上げたのだ。

それで今、二人はレッスン室の一番奥の部屋──誰にも見られたくないからこの部屋がいいと希望したのは光琉だ──に籠もって向かい合い、楽器を構えているというわけだ。

 威圧するような光琉の言葉に怯む様子もなく、律は「それでいいよ」と頷き、楽譜を広げた。

 正直プロコフィエフというだけで敬遠する演奏家も多いというのに、律が嫌な顔ひとつ見せず了承したことに光琉は驚いていた。弓の毛に松脂を塗りながら横目で律の様子を窺う。

こんな反応を見せるということは、自分の実力を読み誤っている尊大な自信家か、それとも研ぎ澄まされた音楽センスと天性の演奏技術、そしてもちろん膨大な練習量でプロコフィエフを飼い慣らした実力者。そのどちらかなのだろう。

 ──まぁいいさ、こいつが本物なのか、薄っぺらな偽物なのかはすぐに分かる。最初のたった一音だけでも、な。

 松脂を塗り終わり、ヴァイオリンを構えた光琉と律は目配せを交わし、互いに頷きあった。

 律が静かに鍵盤に指を置くと、途端に纏う空気が変わった。柔らかく穏やかだった雰囲気が、突然静かに凪いだ明け方の海のように張り詰めたのだ。

 光琉がその変化に気づいて吸い寄せられるように視線を向けたのと同時に、律は鋭く息を吸い込み、最初の一音を打鍵した。

 ──うわっ。

 最初の一音。それだけで光琉は律が薄っぺらなハリボテの偽物なんかではないことを悟った。

 みっしりと重たい空気の層を切り裂く稲妻のような一撃。深く重厚な音なのに、底につくと軽々と跳ね上がる弾力を併せ持つ摩訶不思議な音。

律に続いて音を鳴らした光琉は、そんな律の演奏につられてついいつもより力んでしまい、初っ端から音が割れた。

 なんだこいつ、調子狂う。大人しそうな顔してるくせに、こんな凶暴な演奏できるのかよ。

腹の底がぞわぞわと粟立ち、適当に流して弾けばいいだろと侮っていた気持ちが吹き飛んで消えた。

 生半可な演奏では振り落とされる。まるで荒波に揉まれる船の乗組員にでもなった気分だ。律の奏でるピアノに追随して、光琉のヴァイオリンの音色がついていく。ともすれば律が主奏で光琉が伴奏なのではないかと聞き違えるような緊張感の中、演奏は淀みなく進んでいった。

 はじめは虚を突かれて圧倒された光琉だったが、展開部に入ってからは落ち着きを取り戻し、律から演奏の主導権を取り戻すべく、テンポも強弱もこれでもかというほどに揺り動かした。伴奏者であるならば、主奏者のどんな演奏にでもついてこなければならない。並の演奏者ならこれだけでもついてこられずにボロを出すはずだ。

 だが律はそれでも寸分違わぬ正確さでぴったりと光琉の後ろをついてきた。顔には薄っすらと笑みを浮かべ、まだ余力を残していそうな余裕すら漂っている。これは純粋に演奏を楽しんでいるが故の笑顔だろうか。それともパニックに陥って意味も分からず笑っているだけか。恐らくは前者だろう。もうそれだけで律がこれまでの立候補者たちとは一線を画しているとわかる。

 これまでの挑戦者たちは皆カチコチに緊張して杓子定規なつまらない演奏になるか、あるいは力み過ぎて激しいだけで中身のない演奏になるかのどちらかで、光琉が途中で演奏を止めて帰ってしまうこともしばしばあった。

 だが聖川律の演奏は、そのどれとも異なっていた。重々しいのに軽やかで、苛烈でありながら穏やかさを併せ持ち、伸びやかなのにキレがある。つまり、律は演奏を完全に「自分のもの」としていたのである。

 光琉の中にかつて感じたことのない高揚が生まれた。はじめて本気で弾き合える相手に出会ったかもしれない。

 それならば、と光琉は罠を仕掛けることに決めた。これに気付くようなら、本物だ。そんな期待を込めて。

 貴族から依頼された肖像画に変態画家がかねてより収集していた処女の血をただ一滴垂らすが如く、不穏なフラットを演奏の途中でただ一音紛れ込ませてやる。ただし、何も考えず紛れ込ませるだけでは駄目だ。それだと単純に間違えただけのバカになる。

 音の連なりの中、全く違和感のない場所に一音。そっと置いてやるのだ。あたかも元からそこにフラットがあったかのように。ごく自然に、素知らぬ顔で。

 ──どうだ?

 ピアノのほうへ振り向くこともせず、注意を払う素振りも見せず、光琉は律からの返答を待った。万が一、律が光琉のフラットに気づいた場合、次のフレーズにフラットを置いて返音するはずの箇所があるのだ。光琉は変わりない様子で弾き続け、そこにさしかかるのを待った。

 そして、その瞬間が来た。律の演奏を聞く耳につい意識が集中する。ゴクリとつばを飲み込み、緊張で耳から首に掛けて強張った。端から見れば、好きな女の子が近くを通るたびにラブレターの返事をもらえるのではないかと身構える少年のように滑稽に見えたことだろう。

 ──さぁ、どうでる、聖川律。

 しかし、光琉の期待をよそに律はあっさりとそこを通り過ぎ、何事もなかったように次のフレーズへと向かっていった。

 律からの返音はなかった。

 じわりと失望が滲む。コイツならもしかして、と一瞬でも期待した自分に腹が立った。裏切られた、許せない、こいつもやっぱり他の奴らと同じか。光琉は演奏を中断して帰ってやろうかとすら思った。

 しかしその時、ポン、と。まったく予期していない場所で明るい音が散った。激しく情熱的でありながら薄昏い闇に沈んでいく憂鬱さを持ったこの曲の中で、そんな明るい兆しが覗く箇所などあろうはずもないのに。

 最初はどうせミスタッチだと思った。俺の問いかけに気付かなかった奴だ、どうせ間違えたんだろう。まぁ演奏技術は多少かってやるけどさ、などと光琉はまたも律を侮り、彼の演奏の真意から目を背けた。

 しかし薄暗闇の中で頼り無げな灯りは、その後もぽっぽっと灯っていく。

 ……おかしい。これは本当にミスタッチなのか。先程から律が紛れ込ませてくるナチュラルやシャープ。曲調にまったくそぐわないそれらの音は、しかし単なるミスとは思えず、何らかの意図が秘められているように光琉は感じた。

 点々と入り込んでくるこの灯火のような音。消えるかと思えばその瞬間、次の明かりが灯される。なんだ、これは。まるで夜から朝へ移り変わるように、曲全体をまるごと転調させようとしているみたいだった。

 並のピアニストであればこの曲を譜面通りに弾き切るだけでも手一杯なはずなのに、コイツは間違いなく弾きこなしながら、今この瞬間調性を書き換えようとしている。これがまぐれでなければ、相当な実力者だという証左になる。

 光琉は一か八か、律からの問いかけに答えてみることにした。

 光琉の辿る道の上にもぽつり、ぽつり、と明かりを灯してみる。するとやはり律から返答があり、曲全体が明るい方に向かって動き出した。まさか、嘘だろう。信じられない気持ちで一瞬チラリと律の方へ振り返った。同じタイミングで律も光琉へ目を向け、大きな瞳がにっと笑いかけてきた。こいつ、まじかよ。やっぱりあの灯りのような明るい音は律の落とした道標だったのだ。光琉を導くように、辿る道の上にいくつも置いて煌めかせて。

 知らず知らずのうちに光琉は口角を上げて微笑んでいた。

 ──こんなやつがいたなんて。

 沸々と喜びとも興奮ともつかない奇妙な高揚感が胸の奥から湧き上がってくる。一瞬光琉は昂る自分を制御しきれずテンポを崩しかけたが、すぐに冷静さを取り戻し、演奏を完璧にコントロール下に置いた。

 しかし湧き上がる気持ちはなくなるどころか、今や弾け出さんばかりに膨れ上がっている。音にもそれが反映されて、重苦しいだけだった音が、軽やかに伸びやかに響き渡っていく。

 ──楽しい、演奏が。音楽が。こんなにも楽しいなんて。

 久しく忘れていた感覚だった。自分にもまだこんな感情が残っていたのかと光琉は驚きとともにそれを受け止める。

 お互いの奏でる音に夢中になって対話を続け、ラストの一音に向けて共に駆け上っていく。体全体で表現し音の洪水に飲み込まれ、もはやミスタッチがあろうが、音が割れようが、まったく気にならなかった。

 二人の魂同士が触れ合い、共鳴している。この世界に存在するのはただ二人だけ。この至上の喜びを共有しているのは、光琉と律、この二人の他には誰一人としていないのだ。二人の魂は音楽を奏でる歓喜に沸き、一番深いところで濃密に絡み合った。

 そして最後の一音へと到達した。全く原型を留めていない、馬鹿みたいに明るい音。薄闇を突き抜けて澄み渡る青空に飛び出していくような、鮮烈で清々しいまでに明るい重音。光琉の弓が華々しく空中で弧を描いたあとも、空気中には二人の演奏の余韻が残っていた。

 しばらく放心状態で上がった息を整えていた二人は、そのうちにどちらともなく、くすくすと笑いだし、最後には破裂するように大笑いし始めた。

「おっ前なぁ」

 光琉が目尻に浮かんだ涙を拭い、呆れたような感心したような声を上げる。

「いや、だって君、どんどん暗い方へ、暗い方へって弾くんだもの!」

 同じように涙を浮かべて腹を抱えて笑う律が、笑い声の合間に答える。やはり律は光琉の仕込んだフラットに気付いていたのだ。ううん、と光琉は思わず低く唸る。聖川律、侮れない。

「でも、だからってこんな明るい曲にしたら、もう原型留めてなさすぎるだろ。あーやばい最後の重音の解放感思い出したらまた笑えてきた」

「んっふふ、僕も今日の演奏で三日は笑えるそうだよ。でも君のフラットましましバージョンも最後までやってみたら面白いかもよ」

「冗談だろ。最後には地獄みたいに暗くなって、表情筋動かすことすらいやんなるぜ、きっと」

「あーたしかにそうかも」

 不機嫌王子──そう光琉を形容した者たちがこの状況を見たら、驚きで卒倒するに違いない。それほどまでに光琉の雰囲気は演奏前と、演奏後とで様変わりしていた。

 誰も寄せ付けないオーラを放ち、少しでもテリトリーに侵入されようものなら即座に噛み付いてきた野良猫のような不機嫌王子が、今では可愛らしい子猫のように律の足元に擦り寄り、頭を撫でられることを良しとしているのだ。辛うじて喉を鳴らすことは我慢してプライドを保っているようだが、それも時間の問題だろう。きっと今に腹を見せてゴロゴロと律に甘えるようになる。

 二人はくっつきそうなほどに顔を寄せ合い律の楽譜を覗き込んで、あーでもない、こーでもないと演奏についての議論を繰り返す。

 「お前のここのフレーズ、テンションの差がやばかったよな。よくこんな激しく弾いたあとにあんな軽やかさすぐ出せるよ」と光琉が弾き真似をしてみせると、律も「君だって弦切っちゃいそうなピッツしたあとに一音も落とさず完璧にアルコ弾くのすごいよ。腕が三本あるのかと思った!」とピアノで再現してみせた。まるで将棋や囲碁の感想戦でもしているみたいに、二人は次々とお互いの演奏を再現しては、あそこも、ここも、と即興で繰り広げられた一度きりの演奏の衝撃を隅々まで共有していく。

 小さな頃から共に育った兄弟のように、二人は同じ音楽的センスを共有している実感があった。だからこそ今日初めて合わせたにも関わらず、ここまで息ぴったりな演奏をすることができたのだろう。

 光琉も、律も、もはや言葉にする必要すらなかった。言葉にせずとも、お互いに今何を思っているか、正確に理解していた。

 ──やっとみつけた、俺の、僕の、パートナー。

「なぁ四楽章も合わせようぜ。今度は転調させずに原曲のままで」

「もちろんいいよ。むしろ一楽章からだって、僕は大歓迎さ」

 陽が落ちて辺りがすっかり暗くなったあとも、一番奥のレッスン室から響き続けるヴァイオリンとピアノの音は止むことがなかった。その合間には、間奏曲のような明るい笑い声が必ず挟み込まれていた。


 そしてその翌日以降、常に律と行動を共にする不機嫌王子の姿が学内各所で目撃されるようになり、一大ニュースとして大学内へ瞬く間に広がっていったのである。


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