第一話 絶望の底から
雨が降っている。
私、ルミナは、アルカディア魔法学院の正門前で、呆然と立ち尽くしていた。
掲示板に、私の名前はない。
何度見ても、ない。
「……うそ?」
震える声が、唇から漏れた。
全てが、終わった。
故郷のアンティブの港町から、ここクレセントベイまで来るのに、どれだけ苦労したか。父と母が必死に貯めてくれたお金。
全財産を注ぎ込んで、この試験に挑んだのに。
魔法の家庭教師セラフィナ先生との五年間も、無駄になった。
『あなたには、魔力量では貴族に勝てない。でも、魔力操作の精密さでは誰にも負けない技術を身につけられる』
先生の言葉を信じて、毎日、毎日、基礎を繰り返した。
そして、去年、先生は言った。
『あなたなら、絶対に合格できる。私が保証する』
その言葉を信じて、受験を決意した。
みんなの期待を、全て裏切ってしまった。
(どうしよう……)
所持金を確認する。銅貨が数枚。
故郷に帰る船賃には足りない。
両親に、セラフィナ先生に、どんな顔をして会えばいいのか。
(終わった……全てが、終わった)
「あら、これはこれは」
突然、頭上に傘の影が差した。
顔を上げると、そこには鮮やかな赤髪と、豪華な服に身を包んだ美しい少女が立っていた。ブラウンの瞳が、私を値踏みするように見下ろしている。
(……貴族だわ)
その立ち振る舞い、服装、そして何より、その傲慢な視線。全てが、私とは違う世界の住人であることを示していた。
「平民の方ですの?まあ、お気の毒に」
赤髪の少女はわざとらしく同情の表情を浮かべた。でも、その瞳には明らかな侮蔑の色が浮かんでいる。
掲示板に視線を向けて一点を指さす。そこには、「イザベラ・ベルモンド」の名前が刻まれている。
「これが私の名前よ。あなたの名前はあるのかしら?」
後ろから、クスクスという笑い声が聞こえる。イザベラの取り巻きたちだ。
「大金をドブに捨ててご苦労なこと。でも仕方ありませんわ。そもそも、その程度の魔力量でアルカディア学園の試験を受けようなんて、身の程知らずもいいところですわ」
(その程度の魔力量……)
胸が、ぎゅっと締め付けられた。
「努力は素晴らしいことですわ。でもね、努力だけでは越えられない壁というものがあるのよ。それが血統というものですの」
イザベラは、赤い髪を払った。
「私たちベルモンド家は、代々強力な魔力を受け継いできた名門。あなたのような平民とは、生まれた時点で魔力の総量が違うのですから」
(違う……私だって……)
言い返したかった。でも、声が出なかった。
なぜなら、イザベラの言葉は、ある意味で正しかったから。
試験会場で見た光景が脳裏に蘇る。貴族の受験生たちが持っていた、豪華な杖。魔力を増幅する機能、魔力制御を補助する機能を持つ、高性能な魔導具。
それに対して、私は杖を持たずに受験に参加したのだ。
道具の差。魔力の総量の差。圧倒的な格差があった。
イザベラは満足げに微笑むと、私に背を向けた。
「さあ、行きましょう。こんな場所で時間を無駄にするのは、私たちには相応しくありませんわ」
「そうですわね、イザベラ様」
「平民が背伸びするから、こういうことになるんですのよ」
取り巻きたちの声が遠ざかっていく。
私は、ただ黙ってうつむくことしかできなかった。
悔しさで胸が張り裂けそうだった。叫びたかった。でも、何も言えなかった。
雨が、より一層激しくなった。
私の体は完全に濡れそぼり、寒さで震え始めた。
「終わった……。」
呟いた声は、雨音にかき消された。
どれくらいそこに立っていただろうか。
気がつくと、掲示板の前にはもう誰もいなくなっていた。
私は、ようやく足を動かした。どこへ行くというあてもなく、ただ雨から逃れるために、近くの裏路地へと入り込んだ。
建物の軒先に身を寄せ、壁に背中を預ける。
膝を抱えて座り込む。全身が冷え切っていた。
(これからどうしよう……)
故郷には帰れない。船賃がない。
所持金は、わずか数枚の銅貨だけ。今夜の宿代にもならない。
(このまま、野宿……?)
「うわーん!お腹すいたー!試験にも落ちるし、もう最悪だー!」
突然、すぐ近くから大きな泣き声が響いた。
顔を上げると、同じ軒先の少し離れた場所に、私と同じようにずぶ濡れになった少女が座り込んでいた。
銀髪のショートヘア。琥珀色の大きな瞳から、大粒の涙が溢れている。小柄な体を丸めて、子供のように泣いていた。
「試験、頑張ったのにっ!魔力だってたくさんあるのにー!なんで落ちるのっ!」
(……この子も、不合格だったんだ)
私は、少しだけ気持ちが楽になった。
自分だけじゃない。同じように苦しんでいる人がいる。
「……あなたも、不合格だったの?」
私は、思わず声をかけていた。
泣き声が止まった。少女は、涙と雨で濡れた顔を上げて、私を見た。琥珀色の瞳が、大きく見開かれる。
「えっ?あ、うん……そうだよ。あなたも?」
「ええ……。」
少女は、涙をぬぐった。
「私ね、魔力はすごくたくさんあるんだって。試験官の人も驚いてた。でもね、全然制御できないの」
少女は、鼻をすすりながら話し始めた。
「試験の実技で、魔力が暴走して大爆発。試験会場の壁、吹っ飛ばしちゃった」
「……それは大変だったわね」
私は、少し苦笑した。
「でしょー?あはは……笑えないけど」
少女は、また泣きそうな顔になった。
「それでね、お金を旅費に全部使っちゃって。今、所持金が銅貨数枚しかないの。今夜、どこで寝ればいいか分からないし、お腹すいたし……」
(この子……、私と同じなんだ)
「……私も、同じくらいしかないわ」
「え、本当?」
「ええ。受験料が高すぎて、旅費と合わせたら全財産が消えた」
二人は、しばらく見つめ合った。
そして、なぜか同時に笑った。
笑うしかなかった。あまりにも悲惨すぎて、もう笑うしかなかった。
「私、ノエル!」
「ルミナよ」
握手を交わす。冷たく濡れた手と手が触れ合った。
「ねえ、ルミナ。どうする?このままだと、私たち野宿だよ」
「……そうね」
私は、少し考えた。
このまま二人で途方に暮れていても仕方がない。何か行動を起こさなければ。
「仕事を探しましょう。住み込みで働ける場所を」
「仕事かあ。でも、住み込みで働ける場所なんて、そう簡単には――」
「商人ギルドに行ってみましょう。求人を扱っているはずよ」
私は立ち上がり、ノエルに手を差し伸べた。
「もしかしたら、私たちでもできる仕事があるかもしれない。ほら、立って」
「うん!」
ノエルは、私の手を取って立ち上がった。その琥珀色の瞳に、希望の光が灯る。
「ルミナ……、ありがとう!」
少し照れくさかった。でも、悪い気はしなかった。
「よし、行こう!」
二人は、雨の中を歩き出した。
クレセントベイの商人ギルドは、港に近い商業地区にあった。
石造りの立派な建物に私たちは、ずぶ濡れのまま中に入った。
受付には女性職員がいた。私たちの姿を見て、少し驚いたような表情を浮かべる。
「いらっしゃい。どうされました?」
「あの……住み込みの仕事を探しているんですが……」
尋ねると、受付の女性は私たちをじっと見た。
「……アルカディアの試験帰り?」
「はい……」
女性の表情が、少し柔らかくなった。
「大変だったわね。ちょっと待ってね」
彼女は、棚から何枚かの求人票を取り出した。
「住み込みで、となると……これとか、これとか……」
私は、求人票を一つ一つ見ていった。
でも、どれも条件が厳しい。
『港湾倉庫・荷運び作業員募集。住み込み可。報酬は日給銀貨2枚。食事なし。労働時間、日の出から日没まで』
(力仕事がが多い……)
「港湾都市なので女の子の住み込みの仕事となると、なかなか難しいわね……」
受付の女性が、申し訳なさそうに言った。
ノエルが、明らかに落ち込んだ表情になる。
(どうしよう……このままじゃ、本当に野宿だわ)
不安が、胸を締め付ける。
その時、受付の女性が「あ」と声を上げた。
「そういえば、一件だけあるわ。ただ……ちょっと変わった募集なのよ」
彼女は、引き出しの奥から、少し古びた求人票を取り出した。
「これなんだけど……」
私とノエルは、その求人票を覗き込んだ。
『月光亭・住み込み管理人募集。店主長期不在につき、店舗運営を任せられる者を求む。住居・食事付き。報酬は店の純利益の80%。詳細は直接店舗にて』
「……八割?」
私とノエルは、同時に目を丸くした。
(八割って……そんな破格の条件、あるの?)
「ええ。でもね、この店、評判が……その、料理がまずいって有名で」
受付の女性は、少し言いにくそうに続けた。
「店主のマグナスさんは、すごく良い人なのよ。元傭兵で、今は職人として働いてるんだけど……。料理の腕が、壊滅的でね。開店以来、ずっと客が来てないの」
「料理が……まずい?」
「ええ。料理屋は趣味でやっている人で本業は別にあるのよ。本業は造船区画で働いているんだけど……」
受付の女性は、地図を広げて場所を示した。
「月光亭はここ、ベイサイド通りの角。造船区画はここ。歩いたら1時間半くらいかかるのよ」
「それで、住み込みで働ける人を……」
「そういうこと。マグナスさん、造船区画での仕事が忙しくなって、毎日通うのが大変なんですって。だから、料理ができて、店を任せられる人を探してるの」
受付の女性は、私たちを見た。
「あなたたち、料理はできる?」
家庭料理なら、できる。母と一緒に、毎日のように台所に立っていた。
「家庭料理なら、できます」
「私は、その……あんまり得意じゃないけど、接客ならできる!人と話すの、好きだもん!」
ノエルが元気よく答える。
「それなら、ちょうどいいかもしれないわね」
受付の女性は、地図の一部を破って私たちに渡した。
「場所は、ベイサイド通りの角。『月光亭』って看板が出てるから、すぐ分かるわ。明日の朝、訪ねてみたら?今日はもう遅いし」
「はい……。ありがとうございます」
私たちは深々と頭を下げた。
「頑張ってね。良い仕事が見つかりますように」
受付の女性の優しい言葉に、涙が出そうになった。
商人ギルドを出ると、雨は小降りになっていた。
「ねえ、ルミナ。本当にあの店で大丈夫かな……? 料理がまずいって……」
ノエルが不安そうに呟く。
私は、ポケットの中の銅貨を握りしめた。
「分からないわ。でも、他に選択肢はない」
「……そうだね」
「それに、料理がまずいなら、私が作ればいいだけよ。大丈夫っ!」
(……そう思いたい)
「今夜の宿代を払ったら、私たち、もうお金がほとんど残らないわね」
現実的な計算をする。
(この仕事が決まらなかったら……)
野宿。飢え。そして、故郷にも帰れない絶望。
「……とにかく、今夜は宿に泊まりましょう。明日、月光亭に行ってみましょう」
「うん……」
私は、ノエルの手を取った。
「ほら、行きましょう。安い宿を探さないと」
「ルミナって、本当にしっかりしてるね」
「そう?慣れてるだけよ」
セラフィナ先生の姿を思い出した。彼女は魔法使いとしてはすごい人だった。
けど生活能力が皆無だったので、よく世話を焼いたものだ。
(セラフィナ先生……今頃、どうしてるかな)
私は、空を見上げた。雨雲の切れ間から、わずかに青空が見える。
(先生……私、諦めませんから)
二人は、安宿を探して歩き出した。
ここまで読んでくださってありがとうございます
久々に小説を書きました
皆さんに楽しんでいただけたらうれしいです




