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UNE SAISON EN ENFER (地獄の季節)

 基礎的な数学の授業だ。レタは土を削って横向きの半月を描き、印と数字を書き加えた。半径は5km。半径の2倍が直径、10km。直径かける円周率が円周、31.41km。円周の半分と直径を歩く、25.71km。使う時間は現場と小休止を含めて6時間だ。


 なぜ半径5kmか。地平線に隠れるためだ。地平線までの距離はおよそ4kmで、微妙な起伏や相手の身長を加味して安全側に見積もる。


 なぜ地平線に隠れるか。平地で姿を隠せる唯一の障害物だ。1度目のレタは用事を済ませたら1時間以内に地平線の向こうへ消える。2度目レタは前回と同じ方向から現れる。


〝Chance is about 10%.〟(勝算は10%程度、楽勝ね)


 ブレインは苦々しく笑った。せめて10%を掴む手を考える、その態度は確実に勘違いがある。


〝10% is not at random.〟(博打だと思ってる?)


 黒板の隣にカードの絵を描いて説明した。散らばった図に1から10まで数字を順々に書いていく。5から先は棒を遅めて、8から先は止めた。最後の2枚の空白のカードはどちらかが9でもう片方が10になる。


〝I have 10 ways. 9 is minefield, 1 is mine.〟(正しく進めばいいだけ)


 たとえば道幅が十分の一になっても、不運なんかでは足を踏み外さない。残りの狭い道を確実に踏める。身体操作に自信が無ければ他の道を選んでもいいし、身体操作の訓練をして確実に踏んでもいい。どれが必要かを見つける技術こそが重要になる。それを投げ出したら確実に踏み外す。幸運なんかでは技術不足を補えない。


 襲撃は12時間後だ。太陽の位置から今は14時ごろ、定石通りに深夜の闇に紛れる。それまでブレインとササキを休ませて久しぶりの単独行動だ。荷物を隠して身軽になり、黒く塗った顔で偵察に行く。身分は行き倒れた黒人から拝借したものを使う。名はトーグ、出身地はウィスコンシン州のミルウォーキー、年齢は生きていれば34歳。それさえ澱みなく言えれば成り代われる。別の顔が必要な機会は少ないが、出番がくればこの上なく役立つ。たまに顔の手入れをするだけの価値がある。


〝Good luck.〟(よろしく)


 レタは説明もそこそこに足を動かした。久しぶりに肩が軽い。物理的な話はもちろん、一人は気楽だ。すべてが思い描いた通りになる。


 そのひとつが他者の目だ。目標が見えて、少しだが光った。相手の双眼鏡がこちらを見た。レタは架空のオペラとなった。舞台は緑で背景は青、ブルーバック素材に浮かぶ黒人だ。相手にとって異常な動きをしてはならない。観者の期待に応えてこそ演目だ。他者が何を見て何を思うかはこう見えて受動的だ。見せる側が操作している。


 15時、〝トロントの亡霊〟が待つ拠点に着いた。見た感じはただの町でも所々に変な物がある。少し長い草の奥にある、漫画本ほどのサイズに足をつけたモノ。現物を見るのは初めてだが予習したことがある。クレイモア地雷だ。露骨すぎるので気づく者を炙り出すつもりだろうから、気づかないふりをして平然と正面を歩いた。思った通りリモコン式だ。


 門番から声をかけてきた。白人の男だ。もっと態度が悪ければ白人至上主義を疑い、もっと軟派なら素の性格を疑った。どちらとも言い難い微妙な態度だ。受け渡し場所がどこかと問う。すぐ近くの建物へ案内された。


 ただの倉庫だ。奥の様子が見えない。外側の建物が高く内側が低い。見せない構えだ。それでも情報はある。風が獣臭い。車輪の轍がある。道路の舗装までは手が回らないらしい。


 一瞬の価値を高めて観察する。俯いて体に対する眼球の位置をずらす。視野の左右方向が広がる。身振りを大袈裟にする。眼球を動かして片目でも立体視する。


 人とは別の足跡がある。おそらく牛かロバだ。いざとなれば食肉を得られて、周囲の草を食べて歩きやすい道を作っている。道でない部分の草の様子から畜舎の位置を推測する。おそらく中心に近い。荷物を運び出すなら最初から持っていく。


 時間にして三秒。情報は遅れて取り出す。人の脳はそういう造りになっている。思考は同時にひとつまでだが、ひとつあたりの時間がごく短ければ、多数を同時進行しているように見える。


 倉庫で荷物を受け取った。エンブレムの裏にある二次元コードを読ませる。読取端末に出た情報に合わせて確認した。レタではない誰かと分かれば警戒が薄れて荷物をまかせてくれる。どうせ偽の品だが問題はない。いつ投げ出してもレタではない人物の評判が下がるだけだ。


 荷物を受け取ったら反対側へ歩く。日没までに地平線を越える。大回りでブレインが待つキャンプへ戻る。普段なら眠る闇夜を歩く。小さな赤の光で足元だけを確認する。ぬかるみや石を越えて、ブレインとの合流は20時になった。


 小休止と最後の打ち合わせをして21時。夜の行動は眠気で判断が鈍る。睡魔はアルコールと同等の酩酊をもたらす。


 多量の毒を一気に飲み干した。錠剤カフェインだ。高額な正規品の半端な位置に空きが二錠分、すり替え対策にロット番号と空き方と書き込みの三段構えの目印にしている。半減期は6時間だ。6時間後にはすべてが終わっている。


 これから歩き始めて再びトロントの亡霊に着くのが22時。その間は小声で話を続ける。暗い中で見失ったら厄介だから。


 ブレインはお節介を焼く。こんな暮らしを続けられるはずがない、身を落ち着けられる方法はないものか。どうもレタの振る舞いは、危うさへの不安や庇護欲や価値判断が混ざった感性を刺激しているらしい。


 レタは当然わかっている。こんな暮らしに明日はない。昨日と同じような明日を続ける限り、時間だけが積み重なり、やがて老いて死ぬ。


 人間は社会的な動物だ。コロニーを作って外敵がない空間を作り、弱い瞬間を隠して繁殖する。コロニーの外では繁殖できず絶滅する。違いは遅いか早いかだけだ。荒くれ者でさえコロニーを作る。作れない者は死にゆくだけだ。


 せいぜい百年の期限付きの身だ。新たに期限を始め直せなければ記録しか残らない。記録には読み返す価値が必要だ。読み返す価値とは後の世を生きる者への影響力だ。トーマス・エジソン。アドルフ・ヒットラー。スティーブ・ジョブズ。オサマ・ビン=ラディン。テツ・ナカムラ。サキチ・トヨダ。良くも悪くも国境の外まで影響がある者だけが価値をもつ。


 自分の人生があるのは歴史に名を残す者だけだ。自分なら100%名を残す自信がないなら子を残せ。歴史を残す者になってくれる。自信があって失敗した者は残念だが必要経費だ。自信がない者は決して成功しない。日常の小さな一歩まで失敗尽くしだ。


 かつて子を残す以外にも歓びがあると説いた者たちがいる。奴らがどうなったと思う? 残らず死んだよ。くだらないと一蹴した遺伝子だけが生き残り、そうでない遺伝子は三通りの末路を辿った。一つは消滅。一つは高齢出産という名の敗者復活戦に臨んだが失敗して消滅。一つは高齢出産に成功して、40年前の子供しか知らない間抜け親が1人だけの子供を育てて、体力不足を言い訳に独房の死刑囚同然の暮らしを強いて、子供はせめて生きようとして、体力も経験も自信も得られない暮らしではもちろん負け続けて、遅れて消滅した。遺族がない者には墓標もない。


 レタもいずれはどこかに身を置くつもりでいる。だがそれは今ではないし、この場所でもない。

 妊娠したらこうまでは歩けない。エネルギーが胎児に回る、ベルトはきつくなる、食糧で補えばさらに身が重くなる。とてもやっていけない。


〝I face catastrophe.〟(私もひどい状況を見た上で立ち向かえる)


 到着だ。


 燭台で燃え盛る炎、肉が焼けた音と匂い。毎日のように中小規模の宴会をして士気を保っているらしい。炎を使ってくれるなら話が早い。必ず助けになる。


 前提条件、大騒ぎを起こす。必須条件、食糧を破壊する。勝利条件、安全圏まで撤退する。耳寄り情報、車を盗めるかもしれない。


 武器はまず、新しく拾った木の枝で作った投擲機と、以前から拾った木の枝から作っておいた炭だ。


 獣臭い位置は方角までなら把握したから炭をばら撒けばひとつくらいは干し草に燃え移る。炭は消臭や洗浄に便利な品で、今日もこれから消臭と洗浄を始める。


 燃え移る経路は風が決める。これから進む経路に対して向かい風だが、戦場における立ち位置としては追い風だ。風上から炎を送り込む。炎の壁を作る。光が目を塞ぐ。煙に紛れてレタが忍び寄り、炭火をばら撒く。もしテントの中身が火薬だったら大変だが、連中がそんなに持っているはずがない。


 敵は物資を守らなければならない。食糧を失えば組織は崩壊する。非対称戦だ。無抵抗の物質を叩く。


 一対多数戦闘では壁や隊列が重要になる。3人には勝てないが、3連勝ならできる。一瞬限りの一騎打ちを繰り返す。敵は軍隊ではない。まともな教育がないので団結できず、カリスマがないので統率できない。待って足並みを揃える動きの有無が生死を分ける。


 その最初は見張り番の突破だ。ブレインが主かのように挨拶をして、横からレタ指を伸ばし首の左にある動脈を塞いだ。番人は仕事を投げ出して通してくれる。悠々と中へ入り、別行動を始める地点へ歩く。


〝Aller la chasse〟(銃を構えて)


 作戦開始の合図だ。共有しておいた位置へ炭を投げこむ。最初は風下側に。気づくまでに時間がかかるので長く育てられる。次いで風上側、挟み撃ちの形にする。最後にもっと風上側の端、これが切り札だ。最大の勢いで燃やし尽くす。


 いくらか時間が経ち、異変かもしれないと気づいて警戒を始める頃に、打ち合わせ通りブレインが叫んだ。


〝Kill betrayer!〟(裏切り者!)


 曲者を発見したと曲者自身が騒ぎを起こす。追手に変じて大音声をあげる術だ。次に火の手が上がる方向を示して視線を集める。焦った状態では声から敵味方の識別ができない。ひと通り騒ぎを起こしたらブレイン自身は姿を隠す。大パニックはもう止められない。味方を見るたびに裏切り者かもしれないと考えて観察するひと手間になる。総合的に1分は稼げる。


 敵は近くにいる。煙が上がるので次に行くべき方角はわかる。しかし、姿が見えない。練度の低いものにとってこの上ない脅威だ。思い思いの手順で敵を探す動きが別の者からは敵に見える。鵜呑みと拒絶の二通りで物事を見る。判断する基準を育まずに生きてきた腰巾着に思考はない。最新の刺激に反応するだけの、オジギソウ程度の存在だ。思考を手放し、自己家畜化の果てに自己道具化して、どうにか遺伝子を残してきた。道具は道具らしく刺激によって動く。走り回って自分の荷物だけでも持ち出す。後回しにした索敵を始める頃にはその持ち物こそが疑いの目を向ける理由になる。


 さてレタも騒ぎに乗じて建物を漁った。まずは武器庫をみつけた。弾薬はブラックマーケットで小銭に替えられる。主目的ではないのでひと握りを手癖で持ち出し次の建物へ、また次へ。ただの居室。倉庫。食糧庫。ここだ。


 油と炭を投げ込み、銃で天井を撃ち、仕上げに窓を割ったら万全だ。天井の換気口から一酸化炭素を逃がし、窓から空気を供給すると、炎は勢いを増して燃え続ける。酸素を求めて奥から手前へ迫る。完全燃焼により煙が少なく、遠くから見て状況が分かりにくく、気づくのが遅れたら状況を考え直す。脳の限界を超えた情報の波がストレス反応へ追い込む。


 用が済んだら逃げるだけだが、銃声と窓が破れる音が続けば当然、注目がたんまり集まる。トロントの亡霊たちがレタの姿を見た。金髪で白人の女、前情報と同じ特徴だ。以前にも邪魔立てしたと聞いた姿だ。ある者はナイフを、ある者は拳銃を、全員が殺意を。今やレタは漏斗の狭い側だ。すべての攻撃が指向性を持ち一点へ集まる。


〝Slagt henne! hedensk vindes datter har dåret〟(殺せ! あの女が敵だ)

〝Des Montana-Alten wonnigste Maid!〟(ガトリング砲の仇!)


 多国籍の集まりらしく聞き馴染みない言語で喋る。意味不明な叫びでもイントネーションから大まかな意図が伝わる。本能の声を聞きつけてさらに集まってくる。


〝Ruthless People.〟(殺したい女がいるみたいね)


 女だと叫ぶのでブレインへの目が甘くなる。計画の次の段階を始める。レタは現実をオペラにした。可能な限りの損害を与えて、少しの希望を残し、決死の救命があればどうにか助けられる程度に、大出血を強いた。人は生きているほうがいい。怪我をさせるほうがいい。適当な道具も不足させたほうがいい。幅広いほどいい。すべて食糧への負担を増やすためだ。道徳とは脳髄の衰弱だ。効率化の逆を押し付ける。


〝Slagt henne!〟(殺せ!)

〝Schlachtet sie!〟(殺せ!)


 背後では鳴り止まぬ歓声が評価を伝えている。悪くない味だが、静寂のほうがよほどいい。まだ敵への攻撃という暇つぶしの余裕がある。自分のことで精一杯になるまで資材を破壊する。移動手段だ。牛の近くの星草へ、ホンダの運転席へ、炭を投げ込む。窓を割るコツは助手席の窓の四隅を垂直に狙うことだ。フロントガラスより弱く、中央付近より衝撃を通しやすい。


 ここまでの過程で鍵を拾った。見様見真似で車を動かし、ブレインを拾ったら、手近な若者を転ばせて、その脚だか腕だか見えないが細いものを踏みつけた。英語がわかるかの確認の後に知るべき内容を教えた。


〝Repeat. Ignore or ignoble.〟(覚えておいて。長生きしたければ手を出すな)


 若者が頷き、弱々しく同じ言葉を呟いた。聞き届けたら用事は終わりだ。こんな町に用はない。


 ササキが退路を確保していた。風上にいるので悪い臭いが届かず、伏兵がいない位置へ。クラクションを鳴らすと遠吠えで答えた。位置がわかったら向かうだけだ。助走をつけるササキを追い抜き、ドアを開けて減速したら飛び込んでくる。しっかり撫でてアクセルを踏み込む。最も重要なのは窓を開けておくことだ。


 さて、トロントの亡霊はこの夜だけで資材の半分以上を失い、集め直しに奔走する日々が始まった。その過程で食糧の不足を軽減する名案を何人もが実行した。情報を聞きつけて各地の警察組織による各個撃破が始まり、ついには指導者たちも死亡した。大陸からテロ組織がひとつ消滅した発端は知られていない。


 過ぎ去った事だ。今、レタは美を前にして御辞儀の仕方を心得ている。


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