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IBM     (難病)

 レタは旧街道を歩く。ササキの運動として枝を投げては拾わせる。犬の嗅覚を向ける先はこうして指示する。


 かつては車道だったコンクリートだが所々のわずかなひび割れだけで豪華な歩道に成り下がった。強引に車で通るのもまだ夢ではないとはいえ、その先に待つのはならず者の町と知って走るとか、逆に何も知らずに走るとかの無謀は、特に一般車では、誰一人として考えたくもない。寄付にも冒険にも限りがある。


 不毛の荒野と化した大陸を渡り歩くには知識と道具が必要になる。双眼鏡の視程はおよそ四キロメートル、前にも横にも二本脚の生き物を見つけたら、地平線で隠して距離を測り、彼我の位置関係に気を払う。同業者なら挨拶と情報交換を、ならず者なら警戒を、テロリストの集まりなら退避を。


 地平線までは徒歩で60分、車で5分だ。マニアが持つ全盛期同様の車なら1分まで縮む。地平線を見るとき、地平線もこちらを見ている。だだっ広い荒野でただひとつ隠れられる段差が地平線だ。脚が2本より多いものだけを友とする。これは共通認識では決してなく、レタだけがこんな仕事を何年も続けられる秘訣だ。100のうち、発想さえないのが95、頭をよぎるだけが4、泣き虫が1。孤独への強さは一朝一夕ではとても足りない。


 ササキが見つけた何者かの動向を窺っていた。地平線越しに見える動きから、脚が2本でタイヤなし、目的らしき行き先もなし、おそらくはふらふらと彷徨い歩くだけの行き倒れ候補生だ。おおかた数日前の轍の持ち主で、くだらない理由で車を失った結果だろう。珍しくもない。車は壊れるものだ。壊す価値があるバスは特に。


 レタの興味は寝床に移った。陽が傾いてから沈むまでのわずかな時間が作業時間だ。


 横転したトラックを風除けにする。すでにガソリンからボルトまで漁り尽くして骨と皮だけになった鯨の死骸だ。指を舐めて風向きを測る。変わりなし、彷徨う者から見て風下だ。トラックの陰を陣取る。


 寝床には必要なものが3つある。天井と、壁と、床だ。天井は晴れているのでよし、壁はトラックでよし、床は持ち歩いている。毛布を二つ折りにしてハンモックの網を挟み、空気の層を増やす。森林が多い地域ならもっと楽だが贅沢は言っていられない。これでも寝床としては当たりだ。明るいうちに日光で毛布を温め、紫外線で虫を焼く。口内の衛生、寝床の衛生、荷物の位置、すべてよし。


〝Good night.〟(寝ましょうね)


 ササキと共に横になった。頭が下がると闇夜が始まる。1人と1匹の旅路は長かった。色々なことがあり、いつも通りがある。


 虫たちが再び動き始めた。レタという名の異物を警戒していた先住民だ。捕食者でなく、暴れる様子もないとわかれば、皆は求愛に大忙しだ。虫の命は短い。


 動物たちは天然の鳴子だ。異物が現れれば静まり、異物が離れれば元に戻る。先住民に受け入れられるのは簡単ではないが、受け入れられれば強い味方になる。空間にはリズムとテンポがある。虫もカエルも鳥も、鳴き声にはそれぞれの周期がある。ハイハットとスネアが独立しながらも一定のリズムを刻むように、レタは呼吸や寝返りのギターを鳴らしてセッションに加わる。ジャズに加わるならジャズで、メタルに加わるならメタルで。


 落ち着くと頭がせわしなく動きだす。


 銃を撃ったのは久しぶりだ。ましてや人に向けるのは。早撃ち用の銃はあまり使いたくなかった。まともな設計なのでそこそこの距離でも精度と威力を持つ反面、弾薬の入手性に難があり、あと一発しかない。9mmパラベラム弾、人気がありすぎてブラックマーケットの粗悪品もまともな外見をしている。正規品でないととても命を預けられない。


 新たに拾った銃もまともだが、レタの肩はまだ.45ACP弾の反動を知らない。これまでに見たことがなかったから。銃は最後の手段だ。最悪の状況でしか撃たない。銃を出すと最悪な状況が始まる。信用できない弾とは、最悪な状況と不安要素を併せ持つ矛盾した存在だ。


 レタが主に使う銃は廃材で作った見窄らしい品だ。レンコン状に束ねたパイプで銃身と薬室を兼ねて、径さえ揃えればどんな弾でも発射できるし、銃身が傷んだらパイプをどこかで拾い直して修理する。当然ながらガス圧の効率は絶望的でライフリングもない。殺傷力を期待できる距離はナイフに毛が生えた程度しかない。


 それでも弾は使える。銃の強さは銃口にある。くらい穴による死の予感が見窄らしさを覆い隠す。弾がなくてもなおそうと知れるまでは役に立つ。


 さて、その使い道が来たかもしれない。目を閉じてからの時間は星の位置からひと眠りほど、多少は動ける。


 虫が静かになり、それまでのリズムを無視した音が紛れた。草が折れる音。柔らかいものがぶつかる音。ちなんで空気を押し出す音。隠密行動を知らない1人だ。孤立した者を甘く見てはいけない。窮鼠猫を噛むと言うように、ただ死を待つよりもやぶれかぶれで動く。


 レタは気づいてすぐに体を起こした。こちらに音はない。右手は廃材のほうの銃を持つ。位置関係の都合で自分からは動けないが、動くときは至近距離から始まる。


 何者かは知らないが夜に歩くのは命知らずだ。知識不足か自信過剰か、予想がつかないほうの危険さが来る。


 予想がつかなすぎて、その男が放つ声が耳から心臓まで震わせた。意味を持たない呼びかけだ。ここに誰かがいると期待して、誰がいるかはわからなくて、自分に気づいてほしい。発声の訛りから屋内での活動が主と見た。返事をするのも手だ。予測不可能な男を予測可能にする。


〝Howdy, guy. 〟(ご用事かしら?)


 レタの言葉に続いて男の返事が来た。闇への声に闇が返事をする。男は情けなく声を上げて足を止めた。


〝Storkers' Nest?〟(運び屋ギルドの方、ですよね)

〝You looks lady's room. Go another hotel.〟(お泊まりなら他を当たることね)


 彼の呼吸音が腰抜けの震え声を落ちつかせた。


〝Uber-lady, I hope your help. I want go to the city. but the bus happend accident, then be charged by rogues.〟(腕利きのお方、助けてほしい。街行きのバスが襲われて、ならず者から逃げてきたんだ)


 無用心な男だ。バスと言えば自らを富裕層と誇示するのと同じで、外には荒くれ者がいくらでもいる。憂さ晴らしの棍棒が飛んでくる。


 運び屋ギルドの規定では、実質的に護衛になる仕事でも納得済みならば引き受けられる。生半可なボディガードでは届かないような細かな知識は商品になる。とはいえ、実務上ではレアケースだ。二年以内の離職率が九割以上の環境では経験を積むのも信用を築くのも至難そのものだ。文字通り一生を捧げる覚悟で歩く道を、覚悟もない足手纏いを連れて歩くなど、まともな神経ではやっていられない。裏切って手に入る荷物のほうが確実だ。


 レタは嫌悪した。同行は可能な限り避けたい。似た話は少ないながら経験があり、いくつもの面倒ごとに巻き込まれた。主に同行者の事情による制限が最適な経路を遠ざけるせいだ。結果的にいい思いがあるかもしれないが命はひとつしかない。もう受けないと決めるに十分な経験がある。無能は見えないミサイルだ。周囲を巻き込んで爆発する。


 レタは左で指を鳴らした。パチン、パチン、パチン。音は減衰するが、減衰しにくい音もある。強く短い波長がレタの耳まで帰ってくる。エコーロケーションだ。コウモリが暗闇を自在に飛べるのと同じ、レタは暗闇でもどこに誰がいるかを見つけられる。精度にはまだ難があるものの、木よりも柔らかい服の位置なら見つけられる。彼の両手とポケットは空っぽだ。


〝What do you have anything in bag?〟(その鞄の中身は?)

〝Medicines kit, Smartphone, and laptop〟(薬とスマホとパソコン)


 足がつく品は言わずもがな、薬の内訳は風邪薬と痛み止めと抗生物質だ。ありふれた品で、レタもいくらか持っている。この場でいただく価値もない。


 付近の治安は把握済みで、モーテルで眠れる町と終わっている町が点在する。とはいえ逆恨みの懸念がある今はどこでも眠りたくない。宿はすべて森林にする。足手纏いを入れる暇はない。


〝if you do no trust, you may call Theodore Philip Casorio.〟(支払いはできる。テオドア・フィリップ・カソリオに確認を取ってもいい)


 固めかけの切り捨てる決心が揺らいだ。その名前には覚えがある。レタは恐る恐る、絞り込みの質問を選ぶ。


〝Did you know Inclusion Body Myositis?〟(封入体筋炎を診たことは?)


 筋肉内に繊維くずが現れ動きが不自由になる、2025年時点では治療法が見えない難病。ニュースで知れ渡ったばかりの今でなければ聞くはずがない病名。面食らったらしき息遣いが聞こえた。答えれば半ば特定できるが、レタの問いの意味がわかるはずだ。正直に言わなければ人差し指が動く。


〝Yes. Last year.〟(ある。去年のことだ)

〝May?〟(五月?)〝Yes, 28〟(そう、五月二十八日)


 決まってしまった。医療行為は一人ではできない。麻酔医が覚醒と死亡の間を維持し、執刀医が病変の切除や再建を担い、アシスタントが三本目以降の手を担う。事前の検査や機材の整備やらにも臨床検査技師や臨床工学技士などさらに多数が関わるし、事後も同じく検査やリハビリがある。それらの多くは表立っては名前も出ず、患者自身さえ知らないかもしれない。巨人の一部が彼だ。


〝I know PHIPA. I talk to my spirit.〟(守秘義務を知ってるから、独り言として聞いて)


 レタがこの依頼を請ける理由として、明示せずともブレインには理解する能がある。とある漫画家が少し前まで病床にいた。漫画を描く手をまともに動かせない病だ。治療費をとても払えないので打ち切りという知らせに対し、とある熱心なファンによる多額の寄付のおかげで彼女は治療を受けられた。


 このくそったれた荒野でレタが拠り所とするたった一作の漫画の作者だ。久しぶりの続きをレタは電子配信で読んでいる。


 恩人の恩人の名前が出た。すなわち恩人と同義だ。iPS細胞の実用化により不治の病が減っていき、もう減らし尽くしたと誰もが思った後でもさらに研究を重ねて発展させた名前のひとつだ。レタが最後に家に住んでいた頃の、どうにか持ち出せた一冊と半分は今でも荷物として抱えている。続きを読めるのは彼のおかげでもある。


 では成功の見込みはあるか。


 結果は三通りにわかれる。第一に、無事に成功すること。第二に、失敗して死ぬこと。第三に、彼女への一生の負い目と引き換えに彼を見捨てること。レタの生き方では昨日の友が今日の敵になるものだが、彼女は違う。見捨てればレタは彼女に合わせる顔がなくなる。


 よって第二と第三は価値が同じだ。


〝You are lucky. Winter is killing you..〟(夏でよかったわね。冬ならとっくに死んでた)


 紙とインクによる毒が回っている。人の判断を歪める毒が。自嘲しつつもレタは新たな決心を右手で示した。空の手をブレインは握った。


〝You may go to safe.〟(届けましょう)


 壊れた天秤と評せばいい。無意味なリスクと蔑めばいい。彼女がいなければレタは生きられなかった。恩人への負い目は作らない。確実な失敗より、不確実でも成功へ向かう。


 腹を減らした遭難者に食糧を与えた。夜を越すに十分な量を食べたら、医療従事者にあるまじき衛生環境で眠った。

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