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09話 : レンの目覚めの前夜

家が見えた。

木々の隙間から、いつもの屋根が顔を出してた。


何も変わっちゃいない。

灯りも、煙突の匂いも、まるでいつも通りだ。

……外から見れば、な。


でも――

俺の中は、さっきから張り詰めっぱなしだった。


片手で柵を押して、軋んだ音を聞きながら門をくぐる。

彼女は、まだ俺の腕の中にいた。

軽いけど、ちゃんとそこにいる。現実の重さだ。


玄関まで歩いた。足元の板が、ぎし…と鳴く。

扉の下から、灯りが漏れていた。


――起きてるな、オヤジ。


ゴクリと唾を飲み込む。


なんて言えばいい。

言う必要、あるのか。

ていうか……言いたいのか、俺。


足でそっと扉を押し開けると、

中の空気が、急に現実味を帯びてきた。


オヤジは、暖炉の前に座っていた。

背筋を伸ばして、湯気の立つカップを手に持ったまま。

顔はまだ上げない。

でも、呼吸の変化が聞こえた。


そして――

ゆっくりと顔を上げたとき、

時間が一瞬、止まった気がした。


視線が、俺から彼女へ。

そして、また俺へ戻って……もう一度、彼女を見た。


何も言わなかった。

でも、目が全部を物語ってた。


あれは――「知ってる」目だ。


恐れ。

迷い。

……そして、責任。


静かに立ち上がって、音を立てずにカップを置いた。

その動き一つ一つに、意味が込められているようだった。


「どこで見つけた?」


「森で。……クレーターの真上に、浮かんでた。」


返事はすぐには返ってこなかった。

代わりに、彼女の顔をじっと見ていた。

息遣い、傷、表情……全部、確かめるみたいに。


そのときだった。

ほんの、ささいな仕草。

頭を、ほんのわずかに――下げた。


髪が頬から滑り落ちる。オヤジは、それに指を触れようとはしなかった。


……見たことがある。

あれは、敬意の仕草だ。


彼女が「誰か」である必要はなかった。

オヤジには分かっていた。いや、少なくとも、察していた。


「客間の寝台に寝かせてやれ」


オヤジは俺を見ずに、そう言った。


頷いて、静かに部屋を横切る。

ぶつけないように気をつけて、彼女を運んだ。

あの、来客用の刺繍入り毛布の上に――そっと、寝かせた。


オヤジも隣に膝をついて、

彼女の袖を、指先でほんの少しだけ持ち上げた。肌には触れずに。


その顔が、わずかに曇った。


たぶん、見えたんだ。

腕の色。痣。処置されてない傷。

枝や泥がついたままの肌。


「全身に打撲があるな……斜面を転がり落ちたな、これは」


呟くように言った。俺にじゃない、自分に確認するように。


立ち上がる。

冷静に見えて、でも肩の力がどこか昔の記憶に引っ張られてる感じだった。


「薬師夫婦を呼んでこい。今すぐにだ。

軟膏と包帯、消毒薬があれば持ってこさせろ」


「こんな時間に? さすがに――」


「頼んでない」


オヤジの目は、ずっと彼女から逸らさなかった。


「振り返るな。俺が、清めて包んでおく」


そんなオヤジ、見たことがなかった。

誰に対しても、こんなふうにしたのは。


動きが、遅くて――でも、正確だった。

間違いの許されない儀式みたいに。


それは配慮じゃない。

もっと深い……

――敬意だった。

神聖なものに触れるような、それだった。


俺はフックからマントを取って、扉を開けた。


外は雨。でも、不快じゃなかった。

むしろ……こういう空の下、俺は嫌いじゃない。


空気が澄んでて、土がちゃんと息してる感じがするから。


でも――

扉を閉めたあと、腹の奥に妙な違和感が残った。


まるで、「戻ってきたときには、全部変わってる」って――

どこかで、もう分かってたみたいに。

薬師の夫婦が住んでるのは、北の斜面の途中だ。

「近いようで遠い」ってやつで――急いでる時に限って、妙に長く感じる道のりだった。


走ってはいなかったけど、心臓はずっと喉元まで上がってた。


家の前に立って、拳を握る。

ドアを、三回。コン、コン、コン――


……反応なし。


もう一度、今度は少し強めに。

すると、ぼんやりと明かりが灯った。

何秒かしてから、眠そうな声がした。


「……だれ……?」


「俺だ。オヤジの使いで来た。急ぎだ。」


ズルズルと引きずる足音。

ドアが、少しだけ開いた。


現れたのは――

町の一部では“偽の魔女”なんて呼ばれてるけど、

本当は「不可能なハーブの達人」として知られる女の人だった。


ガウンは半分肩からずり落ちてて、髪は見事にぐしゃぐしゃ。

だけど、目だけは……驚くほど冴えてた。


「何があったの?」


「誰かが怪我してる。

オヤジが言ってた。包帯と軟膏、打撲と熱用の薬が要る。

意識はない。」


「誰が?」


「若い女。誰かは……分からない。

でも、森で見つけた。」


その時、背後から――

「またか……」って顔の旦那が現れた。


そしてさらに、

想像より低くて、しゃがれた声が聞こえた。


「今度は何だ、骨折か? それとも……野菜泥棒か?」


振り返ると、

寝ぐせ全開、シャツはヨレヨレの――ナエルが、ドア枠にもたれかかってた。


まるで舞台裏から間違えて出てきた役者みたいに。


「こんばんは、ナエル。」


俺がそう言うと、彼は眉をひそめて、あくび混じりに言った。


「今学期だけで三回目だぞ。

しかも、まだ折り返してない。」


「今回は俺じゃない。」


「おまえ? こんな時間に言い訳する想像力なんかないだろ。」


「ナエル、いい加減にしなさい。」


奥の部屋から、母親の声。

「話すなら、ちゃんと服着替えてきなさい。」


「これが正式なドレスコードだろ?

“深夜の怪我人ドラマ”仕様、バッチリだ。」


父親が小声でぼそっと。


「誰か水ぶっかけてやれ。」


「おい!」

ナエルは抗議しながらキッチンの方へ歩き出す。

「俺だって道徳的支援してるんだぞ、ちゃんと記録しといてくれよ!」


薬師の奥さんが、俺をまっすぐ見た。

さっきより、真面目な顔。

でも、目の端には――少しだけ笑みがあった。


「ベルドさんに伝えて。すぐ行くって。

それと、お湯を用意しておくように。」


頷いた。

一歩下がって、ドアを静かに閉めた。


……やっぱり、この状況は普通じゃない。


そう思いながら、足を前に出す。

家に戻る道は、来た時と同じなのに――


なぜか、空気が少し違って感じた。


オヤジの家じゃない、

あの“空気ごと変えてしまった場所”へ――俺は歩き出した。

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