二月
二月四日日曜日、はしばみはすずらん市の中心部で開かれる小規模な同人誌即売会にサークル参加した。このイベントは、参加しているサークルの数はおよそ百で、一次創作、二次創作、漫画、イラスト、小説や評論などのサークルが揃っていた。はしばみの小説は一次創作のファンタジーだが、今回のイベントでは一次創作の小説は自分を入れて二つのサークルしかいなかった。ちなみに、はしばみは一人でイベントに参加しているが、一人でもサークルと言う。
十時四十五分。 はしばみは会場に到着した。到着した時、その場で集まっていたサークル参加者たちは三人ほどだった。運営スタッフが、参加者たちに会場入り口前に列を作るよう案内した。はしばみも後ろに加わった。
十一時。サークル参加者が会場に入場した。参加者たちがそれぞれのブースに散っていく。今日のはしばみのブースは入り口と反対側の壁の並びだった。入り口からまっすぐ自分のブースへ行くと、すでに宅配搬入していた本が入った小さな段ボール箱が二つ、黒い壁に沿って置かれていた。はしばみは、イベントに参加すると、いつも本が会場に届いているか心配になる。今回はすでにブースに置かれていて安心した。
はしばみはまず、設営の前に、ここが今日一日の自分の居場所なのだと心の中で確認した。緊張感が重たかった。しかし覚悟を決めて落ち着こうとした。そこに、明るい男性たちの声が聞こえた。はしばみはお隣さんを見た。右隣はまだ来ていなくて、左隣は評論の本を売る男性の二人組だった。今まではしばみは小説や漫画ジャンルの隣しかなく、評論ジャンルの隣になることがなかったので新鮮さを覚えた。
はしばみはまず、机に布を敷き、いつものように、白い紙の小さな本棚を組み立て始めた。本をディスプレイするための本棚だった。緊張の中、組み立てるのに頭を使う。冷静に、順番通りに、パズルを組み立てるように。今回は何度かイベントに参加しているので、作り方に少し慣れていた。本棚が出来上がると、壁際に置かれた段ボールを開けて、本を取り出して並べていった。組み立て式本棚に本を置き、その他の本を平積みした。
本棚に値段の書いた付箋を貼っていく。全部同じ値段だった。ポスタースタンドや名刺立てなどの他の小物も机に置いていく。
設営が完了したら、自分のブースの写真を撮影した。腕時計を見ると、十一時二十分だった。二十分で作業が完了したのは速かった。初めてイベントに参加した時は、一緒に参加していた先輩のなかが十五分で設営を完了しているのに驚いたが、自分も速くなったらしいと、はしばみは緊張の中でぼんやりと思った。
はしばみは設営の写真をSNSに流した。緊張している中、写真を流すのは、流れ作業のように自動的にした。大学のサークルの先輩のなかからリポストされ、橙やあすなろたちが即座にいいねをした。はしばみは、ネットの中を心に馴染んだ『家』だと思っていた。同人誌即売会という外の世界へ、『家』から応援を受けている気がした。心が少し落ち着いた。
はしばみはお品書きの書かれたチラシをチラシ置き場に置きに行き、席に戻ると、買い物をする一般の参加者の入場開始の十二時までぼんやりと待った。腕時計に携帯端末の通知が届いた。はしばみは携帯端末でSNSを眺めると、大学のサークルの先輩のあすなろが、はしばみの設営写真に返信して、後から挨拶しに行くとあった。
十二時。運営スタッフの挨拶と共に、サークル参加者たちが拍手で一般参加者たちを迎えた。買い物目当ての一般参加者たちが入り口から会場に散らばった。
十三時四十分。はしばみは腕時計を見て、それから会場を見回した。客足は落ち着いていた。はしばみは何となくもうお客は来ないかなと思った。はしばみが落ち着いた時を見計らったように、見慣れたコートの女性がブースに吸い寄せられてきた。
「やあ、はしばみちゃん、調子はどう?」
明るく話しかけてきたのは、大学のサークルの先輩のあすなろだった。はしばみは喜んだ。イベントの『非日常』から、安心できる『日常』が訪れた。はしばみは高い声で答えた。
「ありがとうございます、あすなろさん!今日は何冊か売れました。足を止めてくれる人もいて、空気になることは免れました」
「ほう。あ、これ、お土産ね」
あすなろは鞄から小袋に入ったお菓子をはしばみに手渡した。可愛らしい雪男の形のお菓子だった。はしばみはありがたく受け取った。
「すみません、今日はお土産を用意してなくて。お返しは、また一緒のイベントに参加された時にお返ししますね」
あすなろはにこりと笑顔で答えて、軽く問うた。
「この後、アフターイベントに参加するんだったよね?大丈夫そう?」
アフターイベントとは打ち上げのことで、今回はしばみが参加するのは、同人誌即売会の主催者が主催する、サークル参加者を集めたイベントだった。前日のメールで、お寿司とオードブルが用意されているそうだった。はしばみは、アフターイベントに参加するのは初めてだった。
「緊張する気持ちを切り替えて、たくさんお寿司を食べてこようと思っています」
あすなろは落ち着いた響きの声で言葉を贈った。
「いいね。アフターイベントは仲間を作る機会になるから、楽しめたらいいね。じゃ、また大学のサークルで」
はしばみはあすなろを見送った。
十五時十五分。はしばみはイベント終了の四十五分前に、撤収作業をした。ブースを片付けてしまうと、会場内で買い物に行った。
十五時五十五分。 はしばみは会場の隣の小さな控室に入った。控室には誰もいなかった。はしばみはアフターイベントが開催されるまでぼんやりと待った。控室には「お疲れさまでした!」という挨拶とともに、イベントを終えた高揚感の残る人達が、ぽつりぽつりと集まった。
十六時三十分。運営スタッフの案内で、はしばみや同じく待っていた参加者たちは、控室からイベント会場に戻った。イベントのブースがすっかり片付いて広くなった会場の隅で、長机が二つ並べられ、その上にお寿司やオードブルが並べられていた。スタッフはまだ片付け作業をしていた。はしばみは机の端に座った。反対側の端では、サークル参加者の男性たちが話に花を咲かせていた。はしばみは遠慮なく寿司を取った後、細々と周りの女性たちと同人活動の話をした。
そこへ片付けが終わった運営スタッフの女性たちが三人、近くに座った。新しく加わった女性たちは、少し遠慮ぎみなサークル参加者たちに、明るく自己紹介をした。そして普段仕事にしている名刺を配った。スタイリッシュなデザインの名刺を見て、はしばみは、社会人の世界に入ってしまった気がした。そして、それぞれが普段知り合うことのない仕事を持ちながら、イベントで協力していることに、縁の不思議さを感じた。
運営スタッフの女性たちは、明るく会話を始めた。はしばみは黙って聞いていた。話題はオタク活動の話になった。まずは、すずらん市で開催される同人イベントについて語られた。色々な同人イベントが挙げられ、皆、行ったことがあるそうだった。はしばみは、よく知らないイベントの話も聞けて、ためになった。
それから、首都圏の同人誌即売会の話になった。行ったことがある人が、人の多さなどを語った。
そのうち、学生時代の同人活動の話になった。はしばみは、先輩のなかのような、高校からサークル活動をしている人の話を聞いて、つわものだと思った。
スタッフたちは本当に同人誌即売会の世界を長年経験して楽しんでいるようだった。はしばみは、同人の世界の奥深さをのぞいたように思った。