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四月

カレンダーを四月に戻す。

四月の中旬の日曜日の朝、つつじ駅内にある喫茶店の二人がけ席は空いていた。はしばみは、これから向かう同人イベントの前に、一時間ほど店で心を休めていた。


今日一般参加で行く同人イベントは、二次創作の小さなイベントだった。つつじ市で開催される同人イベントは少ないので、はしばみはその原作を知らないが、行ってみようと思った。


はしばみは、これから行くイベントがどのような雰囲気か想像ができず、周りに人がいない店内で、空気となってぼんやりしていた。どれだけ人が集まるのか、コスプレも可能だがどういう風に盛り上がるのか、予想できなかった。


茶色のテーブルに置いていた携帯端末の画面が光り、通知が届いた。はしばみがSNSを見ると、朝に投稿した『イベントに行ってくるね』に対して、湊がいいねをしていた。


10:50 はしばみは初めてのイベントに心にエンジンをかけて店を出た。




はしばみは駅を離れ、外国人を含めた観光客が多く歩く駅前通りをゆっくり歩いた。イベントの会場は、商店街の中にあった。駅前通りから横道に入り、アーケードに覆われた道を歩く。通りには時代を重ねた煉瓦の喫茶店や、地元の人が入る小さな食事処など、長い時間が流れたぬくもりのある店が並ぶ。商店街の入口からそう遠くない所に会場はあった。


会場は、小さなビルの一階だった。入口にはカタログ売り場があり、はしばみは到着すると、ピンク色の表紙の薄い冊子を購入した。

11:00 はしばみは待機列の先頭に並んだ。まだ誰も他の参加者は来ていなかった。両袖のシャッターの間にあるビルの入口の中を眺めると、明るい照明の中で、ブースの設営をしている様子が少し見えた。古本屋のような匂いが風に流れてきた。

少し経つと、後ろに人が並び始めた。若い男性たちや、母と小学生の女の子で髪の毛先を黄色に揃えた家族連れなどが集まり、まるで仲間が揃うように開場を待った。たまにコスプレをした女性が会場の入り口に入っていった。



12:00 ビルの入口が開いて、はしばみはカタログをスタッフに見せて入場した。会場は広くはなかった。35程のブースが互いに知り合いのように仲良く並んでいた。はしばみはいつもは同人誌即売会の会場に入る時に緊張するが、今回はしなかった。会場内の通路は幅があり、近くに寄らなくてもブースを見ることができて、はしばみは『ちょっと立ち寄ったお客』でいられた。


ブースでは主に、色紙、キーホルダー、CDなどグッズが目をひいた。可愛い女性キャラにコスプレをした売り子も何人かいた。客と店の主が久闊を叙するように賑わっていた。

はしばみは二周すると、会場を後にした。




はしばみはつつじ駅へ戻り、汽車で大学図書館へ行った。二階のエントランスからエスカレーターで一階へ降りて、一階の海の見える喫茶店で再び心を休めることにした。


今日は休日の昼時だというのに、店の中は客入りが少なく、いつもなら埋まっている窓際の席が空いていた。はしばみはいつもの席に着くと、クルーザーの並ぶ海辺をぼんやりと眺めた。何はともあれ、心が心地良く温まった。軽快なジャズが程良い音量で流れていた。


この店はコーヒーも美味しいが、カフェラテやはちみつラテなどのコーヒー系の飲み物が豊富だった。はしばみはメニューにあるコーヒー系の飲み物を試しに一回は注文したことがあった。どれもそれぞれに甘みと苦みが異なり、飲む者の気分を変えた。はしばみは昼食と共にラテショコラを注文した。


はしばみは静かに携帯端末を取り出して、いつも見るSNSを眺めた。そこは実家のようだった。初めて行くイベントという今まで知らなかった世界から、毎日住んでいる世界に心が帰った。はしばみのSNSのアカウントは、一次創作の小説を書いている人たちを多くフォローしていた。その中で、よく創作談義がされていた。多くの人が、タグをつけて個々人の経験談を発表していた。今回の話題は、小説の文章が上手くなる秘訣についてだった。ネットの投稿サイトに小説の連載を続けている人は、ひたすら書くことだと言う。逆に小説を読むことが好きな人は、たくさん書くよりも、良質な読書をすることだと言う。はしばみはその人にとっては正解なのだろうと思った。はしばみは漠然と自分の文章は好きなので、それでいいのかなと思った。


はしばみは、昼食のガレットを食した後、もう一息休むために、ホットはちみつレモネードを頼んだ。それほど経たずに、白いマグカップが届いた。薄い黄色の液体に小さなレモンの輪切りが浮かぶ。四月のまだ暖かくない室内に白い湯気が散った。はちみつの甘さとレモンの酸っぱさが混ざった温かい飲み物だった。一口づつ口を潤し、ゆっくり喉に流す。


いつの間にか、店内は席が埋まっていた。隣に年配の男性が座った。客は注文より前に鞄から厚い本を取り出し、読み始めた。


温かな飲み物を飲み終わるまでの間、はしばみは考えた。小説は魔術である。一文一文が呪文と同じで、言葉を間違うと文章の魔力が発動できなくなる。凝った文章ではないけれど、ガラス細工のように形作った文章は見てみてしたくなるものだった。


SNSで創作談義を言ってしまうと、反対意見のフォロワーの目に止まる。ゆえにはしばみは密やかにこっそりとネット小説の隅の隅で言葉を流していた。はしばみは喫茶店の空間の中で、SNSでは言えない自由な言葉を心の中で棚卸しした。それは小説という暖かな血の通った言葉だった。SNSのような、熱すぎたり鋭すぎたりする言葉ではなかった。はしばみは心の“お休み”を楽しんだ。




マグカップを空にすると、はしばみは喫茶店を出た。蔵書エリアとは反対のフードコートの方へ行くと、フードコートはコスプレイヤーばかりだった。まるで異世界の酒場に迷い込んだようだと、はしばみは思った。

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