将軍のオフィスにはある女性の写真が貼ってあり――
将軍のオフィスにはある女性の写真が貼ってあり、ダーツの矢が十七本刺さっていた。
「家内だ」将軍が紹介した。「よくできた女だよ。わしのことをロクデナシの酔っ払いと呼ばないときは。つまり、いつも怒っている。わしは家内を喜ばせたくて、さらに飲む。脳みそを覆う、絶対に切れちゃいけない毛細血管が立て続けに切れれば、彼女は結婚の呪縛から解放される。どうだね? わしはいい夫だろう?」
「はい、閣下」
「よせよ、閣下だなんて。ジョージと呼んでくれ」
「はい、ジョージ」
「それで、お前のことは、フォンと呼ぶことにしよう」
「それは称号や領地名の前につける冠詞です」
「フォニーと呼ぶことにする。しかし、フォニーか。美容石鹸みたいな名前だなあ。フォニーはあなたのお肌を艶々にします。お買い求めは近くのドラッグストアまで」
将軍は深く腰掛けた革張りの椅子から手を伸ばした。仕事用のデスクには食べかけの固くなったステーキ、部隊のトイレ設置に関する未決の書類、将軍の署名がされた白紙の束、〈不可〉のスタンプ、鈍器になりそうな分厚い軍事教練書、そして、その軍事教練書の上にかなり大きなリヴォルヴァーが乗っていた。シファキスが見たら、ポーク・チョップを前にした犬のように大喜びしそうなリヴォルヴァーだ。将軍は弾倉を横に振り出した。空の薬室は六つではなく九つあり、そこに将軍は一発だけ弾丸を込めて、弾倉をまわして閉じた。
すぐに自分に一度、エミーリオに一度引き金を引いた。
確率は現在七分の一だ。
「対人炸裂弾だ。腰抜けの外交官どもが禁止条約に署名するまでは、みんなこの弾を銃に詰めた。手っ取り早く、誰かの内臓をぐちゃぐちゃにしてやりたいとき、こいつをぶち込めばいい。距離は近いほうがいいが、近すぎてもいけない。弾丸が完全に炸裂する前に背中から抜けるからな。だいたい、三メートルくらいが理想の距離だ。こいつで頭を撃てば、そいつの頭はピンクの霧になる。ストロベリーみたいなピンクにな」
頼むから、それを僕に向けるなよ。
「フォニー、フォニー、フォニー。お前たちは、よくやったもんだ。お見事だよ、アルテマくん。まあ、最後まできけ。こっちの正規軍は十万人、ところが、アルテマ軍は百万人。これじゃあ、どっちが正規軍か分かったもんじゃない」
将軍は競馬の記念でもらった銀のフラスクに口をつけ、真上を向き、喉を鳴らして全て飲んでしまった。
「うん、こいつは来るな。なあ、こっちはな、フォニーくん、負けを認めようというわけなんだよ。お前らは、アルテマはこのグリーンウィンドウ共和国を乗っ取った。そして、グリーンウィンドウ軍も乗っ取った。いいさ。国には愛着はなかった。もともと共和制は好かんかった。わしの家は代々王党派だったし。軍も——」
将軍はフォークでステーキを引っかけると宙に放った。ステーキが最も高い位置に飛び切って静止したところで素早く狙い、引き金を引いたが、カチッと空の薬室を打つ音がして、ステーキはべちゃっと床に落ちた。
六分の一。
「軍だって、国会議員とかいうクソ袋どもに予算を削られて、三十人もない分隊をひとつ、ピクニックにも連れていくのにも議員どものご機嫌伺いをしなけりゃならなかった。挙句、あいつらは隙さえあれば、わしの年金を減らそうとしやがった。わしを予備役にしろとほざきやがった。軍に、国に四十年も忠誠を貫いた、このわしに。だから、軍のことはもう知らん。きみらが好きに扱え。だがな、酒だけは駄目だ。こいつは妥協できん。アルテマどもが天下を取ったら、お前らはアルテマ・ブリュワリーのビール以外の酒を全部追い出しちまった。信じられんよ。わしが士官候補生だったころはビールは酒じゃなくて、ソーダ水扱いだった。この国じゃ、もう、その水もどきしか飲めない。前々から思っていた。あの色、あの泡立つ具合、アルテマ・ビールはまさに小便そのものだよ。そんな小便のために歴史ある蒸留所を潰したが、それをもとに戻すのに何十年かかるか、きみらは分かってるのか? 三十年? 四十年? 百年だよ、くそったれ」
エミーリオの眉間に銃を向けて、カチリ。
五分の一。
将軍はフラスクを逆さにしたが空っぽで、舌を突き出して、しずく一滴でも落ちてこないかと揺れていた。
「もし、よろしければ、お飲み物をおつくりしましょうか、閣下?」
「ジョージ」
「ジョージ。お飲み物は?」
「アルテマくんのお手ずから? それはいい」
調理場にはアルテマ政府が禁止している度の強い酒が大量にあった。サウスアイランド産のラム。ノーザン・ハイランド蒸留所のウィスキー。五十七種類の材料からつくった高級ジン。はるか東の異国でつくられた米の焼酎。全部ジョッキに入れた後、度の強さをごまかすために氷をたっぷり入れ、念入りにかきまわした。最後にライムをちょっと絞った。
将軍のバンガローは客船の壁を再利用したらしく、ひどく小さな丸いガラス窓しかついていない。一応開くことができたが、直径が三十センチと少ししかない。肩の関節を外せば、ひょっとすると通れるかもしれない。だが、将軍が異変に気づいて、こっちにやってきて、窓にはまりかけたエミーリオの尻に弾が出るまで引き金を引きまくることを考えると、この方法は危険すぎた。
それよりは酔い潰したほうが安全だ。
そんなことを考えていると、黒布を巻いた顔がひょいと姿を見せた。自分の嘲笑がきちんと見えるようにしたいのだろう、ソウヘイは覆面を剥いだ。
「よう。くそったれリミテッド」
「……」
「無視すんな」
「……はぁ……なんだ?」
「中佐に変装とは、それなりに知恵がまわったみたいだが、策士策に溺れたみたいだな。しかも、お前が溺れたのは水じゃなくて、芋焼酎だ。あのじいさん、お前を丸ごと飲んじまうぜ」
「それより、麻酔針の吹き矢のようなものは持っていないか?」
「麻酔針の吹き矢のようなものは持ってない。麻酔針の吹き矢そのものならあるけどな」
「それであの酒乱を眠らせてくれ」
「あわれなじいさんじゃないか」
「あれは狂人だ」
「まあ、いいんじゃないか。寂しい老人の話し相手になってやるのは善行だぜ、くそったれリミテッド。じゃあな」
「おい、待てっ……くそ、何をしに来たんだ」
おーい、と、将軍の声がきこえてきた。
「何をしてるんだ? 敵の歩兵一個師団が待ち伏せしてたかね? そうじゃないなら、はやくアンクル・ジョージに飲み物を届けてくれ」
オフィスに戻ると、いきなり引き金を引かれた。
カチッ。残り四分の一。
「どうぞ、ジョージ」
将軍はジョッキをひったくって、ぐびぐび喉を鳴らした。
「あああーっ、内臓が燃えるようだぞ。こいつぁ。うん、がっつり来るな。なんて、名前のカクテルだね」
「アンリミテッドです、閣下」
「そいつはいいな。うん。そいつはいい。アンリミテッドには脳みそを這う毛細血管を全部破裂させるだけの価値がある。どこでこいつの作り方を習ったのだね?」
「士官学校です。ジョージ」
「わしらのころは、両翼包囲を仕掛けてくる敵に対して、騎兵を使って先端対抗包囲をする方法しか教えてくれんかった」
「時代は進歩しているのであります。ジョージ」
「違いない。さて、国、軍、アルコール飲料。きみはこれらの点でわしに先んじた。わしから奪ったわけだ。そして、最後に家内の話だ。いや、否定せんでもいいんだ。フォニー。わしはもうずっと前から知っておる。別に謝ったりする必要もないぞ。むしろ、わしは、こう、スカッとした気分だ。きみがあのアバズレを引き取ってくれたなんてな」
なんだか雲行きが怪しくなってきた。エミーリオはスパイの養成課程で自由選択科目に『上官の妻を寝取っていない将校の見分け方』があったことを思い出した。そんな何の役に立つか分からない訓練よりは半自動小銃を使った連続狙撃訓練のほうが大切だと思い、履修しなかったが、生きて帰れたら、絶対に履修しよう。
将軍は完全に酔っぱらっていた。それよりもまずいのは目が据わり始めたことだ。思い切りまわし蹴りをしてやりたかったが、人差し指はほとんど奇跡ともいえる、ギリギリの力加減で引き金にかかっている。下手な刺激をしたら、間違いなく撃たれる。
「家内はな、背の小さい男はナニがでかいと信じてるんだよ。だからな、フォニー。きみをさぞ立派なデカチンだと思って、あいつはきみを誘惑したわけだ。それとも、きみが家内を誘惑したのかね? どっちにしろ、構わないか、なあ、フォニー」
「はい。ジョージ」
「おい、いま、なんて言った? ジョージだと? 貴様、一介の騎兵中佐がわしをファーストネームで呼びやがるのか?」
呼べといったのはお前だろうが、と、思ったが、口には出さなかった。酔っ払いに道理を説いて成功した人類はいまだかつて存在しない。
さっきまで真っ赤だった将軍の顔がどんどん色を失って、白いゲジゲジ眉毛の下にある両目は不気味なくらい潤んでいた。
「アルテマ軍じゃあ、階級の絶対を教えてないのか? いいか、この騎兵中佐野郎。お前がわしをジョージと呼ぶにはな、まず大佐に出世して、次に准将、少将と進んで、議会の承認を得て、陸軍中将に任命されて、初めて、貴様はわしをジョージと呼べる。いや、呼べないな。わしのほうが先任なのだから、序列ってもんがある。お前はわしのことを閣下と呼ばなきゃいけない。わかったか、この騎兵中佐野郎」
「はい、閣下」
「そうだ。どこのクソ間抜けが中佐ごときが陸軍中将を呼び捨てにしていいと言った? そのトンマをここに連れてこい。わしが銃殺してやる」
そう言いながら、将軍は自分のこめかみに銃をあてて、引き金を引いた。カチッ。
ここで弾が発射されれば、このバカげたやり取りは寓話として使えただろう。残りは三分の一。
「貴様はわしから祖国を奪い、次に軍の職能を奪い、酒を奪い、挙句にわしの女房を奪いやがった。この山賊騎兵中佐野郎。どれだけ盗んだら気が済むんだ? おまけにわしのグラスを見て、おかわりを持ってこようとしない。おい、おかわりだ! はやく行け!」
「はい。閣下」
調理場に行き、このちっぽけな窓からの脱出をかなり真剣に考えたが、関節外してどうなるレベルを超えている。もっと小さくならないといけない。今でさえ、小柄なことには文句があるのに、さらに小さくされたら、それはもうマスコットだ。
くそっ、と舌打ちすると、床にストローが転がっているのが見えた。
「こんなもの、さっきはなかった」
拾ってみると、それは小さな吹き矢だった。その先端には薬を塗った矢がつけてある。
「ふん。たまには役に立つんだな。気が向いたら、礼を言ってやってもいい」
さすがに吹き矢くわえて、将軍のリヴォルヴァーと正面で対決する気は起きないが、アンリミテッドをこれでかき混ぜれば、かなりの薬がカクテルに溶ける。
アンリミテッドを吹き矢筒でステアしたものを持っていく。将軍はまた自分のこめかみに銃を当てた。
カチッ。残り二分の一。
「おい、酒をよこせ!」
エミーリオの目の前には人類史上最も錯乱した寝取られ男がいる。吹き矢の麻酔がどのくらいで効果があるのか知らないが、いま――
カチッ。
――っと、引き金を引かれて、確率は一分の一。もはや確率ではなくなった。
「あー! こいつはきくなぁ! なんだか、眠気が吹っ飛んで、ギラギラしてきたぞ!」
くそったれソウヘイ。やつの善意に一瞬でも期待した僕が馬鹿だった。
将軍の引き金からエミーリオを救ったのは三百六十度だった。
将軍の事務所は高速で動く何かにぶつかって、三百六十度まわって地面に着地したのだ。
なかにあるものはみなバラバラになった。ダーツが十六本刺さった細君の写真から密造酒だらけのキッチンまで。
一番バラバラになってほしかった将軍はバラバラになっていなかったが、目をまわしていて、銃はどこかに吹っ飛んでいた。エミーリオは頭をぶつけて、視界に星が飛び散っていたが、ゆっくりと立ち上がり、腕が折れているとか、ズボンがなくなっているとかないことを確認すると、二足歩行動物の誇りとともにドアから外へと歩み出た。
そこで見たものはまさに混沌。無秩序。交通違反。
一時間前に、バンクス松が一本だけ生える丘にエミーリオとソウヘイを捨てた、あの自動車が、発情期のミツバチみたいに暴走していた。急ブレーキからバック走行で軍曹をバンパーの端に引っかけ、アクセルを踏み切ったまま、きわどいカーブで大尉や中尉といったステキな連中へ泥水を飛ばしている。そして、また、将軍の事務所にぶつかると、事務所は蹴っ飛ばされたゴミ箱みたいに吹っ飛んだ。
「おかしいな。あのふたりが僕を助けに?」
自動車で突っ込んで暴れて敵の目を引きつけるなんて、そんなかわいらしい行動をシファキスとセールスマンという、打算のカタマリ人間が採択するとは思えない。
だが、実際、エミーリオは助かった。――ソウヘイは知らないが。
あちこちで車に向かって銃撃が始まる。ちょっと注意して観察すると、運転席に誰もいなかった。じゃあ、打算カタマリ人間たちはというと、後部バンパーに足をひっかけて、トランクにへばりついていた。おめでたいアタマの持ち主だが、手を離せば即死ということくらいは分かっていて、必死になってつかまっている。セールスマンはバツリの教本を入れたトランクとウィスキーボトルをしっかりつかんで、車につかまっていた。それには腕が四本いるはずなのだが。
しかし、そんな些末なことはどうでもよくなるほど、タイヤが光っている。あの、アルテマたちが後生大事に戦艦にのせていた、あの石盤たちが。車が暴走した原因は石盤だ。やはり、中古車のタイヤに使われることについて、相当な不満があったに違いない。
「――まあ、いいか」
自分が乗っていないときでよかった。
駅から次々と兵士が出てきて、車を狙い撃ちにしようとするなか、エミーリオは悠々と大理石を敷いた将校用通路から駅に入った。




