ヴェントリーという町があるが――
ヴェントリーという町があるが、コヴェントリーという町もある。
ヴェントリーの住人たちはよく似た名前の町だと思っていたが、コヴェントリーの町はヴェントリーと同じ、人口七八九三人の町で、軍用列車の駅があり、その線路の向こうに何があるかは誰も知らなかった。
他にもヴェントリー町長の名前はコスグレイブだが、コヴェントリーの町長はグレイブという名前だったり、豚の脛肉煮が郷土料理だったりと共通点や類似点が不気味なほど見つかっている。ヴェントリーの住人はコヴェントリーは鏡面世界なのだと不安がり、ちょっとしたパニックに陥った。
すると、暴動寸前まで緊張した群衆のそばを、身長七フィートを超える、孤児院院長がロードスターに乗って、通りがかった。その腹話術の人形が「ドコノとんまガ最初ニ〈コヴェントリー〉ナンテ町がアルコトヲ言イダシタンダ?」とたずねたので、古い民謡にもある通り『うわさのうわさは誰からきいた?』をやってみた結果、ヴェントリー・モーニング紙が最初にコヴェントリーの噂を流したことが分かった。この新聞は売れればいいだろの煽動ジャーナリズムにどっぷりつかったお騒がせ新聞で、アルテマが流行る前には月面人との単独インタビューなどとありもしないことを報道して、結構な罰金を食らったことがあった。
そんなわけで町外れから見て、マッチの頭みたいにメラメラ燃えているのはヴェントリー・モーニング紙の三階建ての社屋だった。
ソウヘイとエミーリオは少し前、この、焼き討ちが遠くに見える、町はずれの、バンクス松が一本生えているだけの寂れた丘で車から放り出されて、
「おれたちは潜入とか、そんな特殊な訓練受けてないからな。もし、何かあったら狙撃で援護してやるよ」
と、置いてきぼりにされたのだ。
そのまま、ふたりの乗った車は丘を下り、ビアホールへと走っていくのがよく見えた。
「何が狙撃で援護だ、チクショウめ。ライフル持ってねえじゃんか」
「落ち着け、僕。任務のためだ。怒りを鎮めろ」
舌打ちを必死に抑制しながら、ふたりは夜闇に沈んだ丘を駆け下りた。
ビアホールの隣には装甲列車の駅がある軍事基地があり、そこには兵舎、士官用宿舎、武器庫、司令部、白い湯気を壁のように流している軍服専用洗濯工場、射撃場、軍用トラックの駐車場があった。
装甲列車と駅もあるが、それよりも大きな建物がアルテマ教会だった。
一度に千人の信者を収容できる礼拝堂にはアルテマ神話の神々しい場面がステンドグラスで再現されている。
そんな荘厳な空間が作り出されれば、この礼拝堂がかつて陸軍に缶詰を供給するための工場だったことをわざわざ大声で言うものもいないというものだ。
それに地上五十メートルの高さを誇る鐘塔は少なくとも後付けしたものだ。塔のてっぺんには巨大な鐘があったが、その材料はアルテマ芸術協会が堕落主義芸術として溶かした美女の裸のブロンズ像の数々だった。
最厳重警戒区域の基地にしては見張りが少ない。
罠かと思ったが、どうやらヴェントリー・モーニングを焼いた暴徒たちがもっと何かを燃やそうと走り回っていて、軍はその鎮圧のためにやはり走り回っていた。
「まったくなんてとこだよ、もう」
それでも煉瓦塀は三十メートルの間隔で見張り塔があって、サーチライトで撃ち殺してもいい人間がいないかと探している。
この難関に立ち向かうにあたって、シファキスとセールスマンはひとつの包みをくれたが、その中身はブラウス、スカート、ストッキングだった。
「あの子を見つけたら、それを着せてあげてください」
セールスマンはそう言うが、問題はこんなもの基地への侵入には何の役にも立たないし、これを持った状態で捕まったら、末代までの恥だ。
「お前、持ってけよ」
「嫌だ」
「着て、女に化けろ」
「くそったれソウヘイ」
「くそったれリミテッド」
「わかった。コイントスで決めよう。表が出たら、僕の勝ちだ」
そう言って、トスしたコインはエミーリオがしつこく造幣局に通い詰めて、造幣局長をハニートラップでハメて手に入れた、どちらも表のコインだった。
「くそったれ」
ソウヘイはガサガサ音がしないよう、紐で念入りにくくって背中に包みを背負った。その後、顔に黒い布を巻いて、彼の故郷で〈シノビのモノ〉と呼ばれるやり方、つまり、完全な忍び込みで行くことにした。
エミーリオは変装作戦で行くことにした。
「スカートいるか?」
「馬鹿にするといい。最後に勝つのが誰か分かるとき、せいぜい苦い涙を飲めばいいんだ」
エミーリオには秘策があった。夜闇に消えるソウヘイを見送りつつ、スパイらしくスマートなやり方というのを実行することにした。
サーチライトのあいだを抜けて、煉瓦塀を素早く越えた後、士官用宿舎の前にある古い空堀に身を潜めた。
チビの士官、自分と同じくらいのチビを探すと、いた。
気取った跳ね方をした口髭の士官が、二倍の背丈のある従卒に向かって、何かをわめき散らしていた。まるでしつけのなっていない小動物のように飛びはねる士官を見て、自分の背丈もあのチンチクリンほどなのかとかすかな落胆を感じつつも、なに、こちらはまだまだ成長期だと気を取り直し、小さな双眼鏡でチビの宿舎のドアの名札を読んだ。
――アルテマ軍 アルフレド・フォン・シュピングレリーネンホフ騎兵中佐。
その後、洗濯工場へと向かった。
何十という洗濯機械が吐き出す湯気が白い壁となって模造マホガニーで出来た受け取りカウンターを塞いでいた。
「アルフレド・フォン・シュピングレリーネンホフ中佐の洗濯物を受け取りに来ました」
すると、湯気の壁から太い腕が出てきて、籠を乱暴に置いた。
そこには騎兵中佐の礼服がきれいにたたまれていた。
これでは目立ちすぎるなと思ったエミーリオは房飾りや金モール、庇付き軍帽の羽根飾りを情け容赦なくぶちぶち引き剥がし、それでいて階級だけはしっかり分かるように肩章などは許してやり、今着ているシャツの上から軍服をささっと身につけた。
その時間、わずか七秒。
昔、あるスパイが、重要な情報を握っている伯爵夫人とベッドでいちゃいちゃしていたところを秘密警察に踏み込まれ、一分やるから着替えろと言われた。ところが、ショックでおたおたしているうちに一分が過ぎ、結局、そのスパイはパンツ一枚で銃殺された……。
リミテッドではそういうことがないように早脱ぎ早着替えを特別訓練プログラムに組み込んでいた。
このプログラムはリミテッドで養成されるスパイ候補生のなかでも特に優秀なものが受けられる。優秀なスパイは銃殺されるときも優秀でなければいけないのだ――もちろん逃げられるのなら、それに越したことはないのだが。
まあ、ともあれ、敵地潜入は隠密行動ばかりではない。頭は使うためについているのだし、この頭を支えるために人間は四足歩行をあきらめたのだから、せいぜい活用しようというもの。
基地の区画を結ぶアスファルトの道路を歩いていると、軍人に会う。
相手が少佐以下の軍人なら横柄に敬礼して、大佐以上の軍人に出会ったら、棒でも飲み込んだみたいに突っ立って、しぴっ、と音が鳴るくらいの敬礼をしてみせる。
これで何とかなる。
軍人たちというのは相手の顔を見ないで、階級章を見る種類の生き物だ。軍において、人間とは階級章につけるオマケに過ぎないのだ。
ただ、階級にものを言わせる行為は続けると、悪い癖となって、人間の価値観を蝕む。
あまり、やり過ぎてはいけないなと思ったが、シャコ―軍帽の運転兵がオリーブグリーンに塗った軍用乗用車を猛スピードで乗り回し、危うく引っかけられるようなことが何度も続くと、肩に着けた階級章が「おれにものをいわせて、このトンマ野郎に思い知らせたくないか?」と誘惑してくる。「それにこれ以上、この自動車に付きまとわれたら、悪目立ちして、正体がバレるかもしれないぜ? なあ、これは任務のためだ。仕方がない。全然悪いことじゃない。そうだろ?」
結局、エミーリオは暴走車に対して、おい、止まれ!と声をかけた。
車は簡単に止まった。
そのままのろのろ進んで、エミーリオのそばで運転手が降りた。
それは将軍だった。
ただ、これまで見たアルテマ軍ではなく、グリーンウィンドウ国の正規軍の軍服を着ている。この基地の司令官はアルテマ軍の司令官だから、指揮系統の外にいるのだろうが、将軍は将軍だ。エミーリオは、しぴっ、と敬礼した。
将軍も敬礼したが、目が充血していて、顔が赤く脹れていた。明らかに出来上がっている。
シファキス、ソウヘイ、セールスマンとともにいた短い時間で、エミーリオはトラブルの種を見極める力が飛躍的に向上していた。
だから、分かる。この将軍はとんでもないトラブルを持ち込む。そもそも酔っ払い運転をあのスピードで繰り返すあたり、相当ろくでもない。
このまま立ち去ろうとしたとき、カチリと撃鉄をあげる音がした。
将軍の骨ばった手にリヴォルヴァー。
素早い蹴術で倒そうかと思ったが、将軍は撃鉄を降ろした。そして、こんなことはなんでもないんだといった具合に笑った。
(やれやれ……酔っ払いめ)
将軍は銃の弾倉を開けた。真鍮の雷管が光る三八口径弾が六発入っている。将軍はそれを一発だけ抜くと、弾倉を勢いよくまわして、銃に戻した。
そして、銃身をくわえて、少しもためらうことなく、引き金を引いた。
カチッ。
銃身を吐き出し、こんなことはなんでもないんだといった具合に笑って、エミーリオに狙いをつけ、撃鉄を上げた。
「話がある。中佐。わしのバンガローに来たまえ」




