「とんでもない馬鹿力でしたね――
「とんでもない馬鹿力でしたね」
ドライブを再開し、ディンウィック・スミスの背がようやく地平線に隠れたところで、ソウヘイは思い起こし、首をふった。
「世界広しと言えど、電柱を片手で持ち上げられる孤児院院長はあの人だけってわけだ。まったく、この国は到着早々面白いものを見せてくれたよ」
シファキスはラジオをつけた。カーソン・シティで連続殺人犯を捕まえたときの賞金でつけたもので、この自動車の基本モデルには搭載されていないものだ。
この田舎地帯に入り込んでから、電波が拾えないので消していたが、いまは何かの局を拾え、ビッグバンドのはちゃめちゃなアンサンブルをバックにした女性歌手の歌声が流れ出した。
――ジジジ、ブブブ……ありがとうございます。アルテマ・シスターズ楽団のアルテマ・ポーター・ストンプでした。アルテマ・インダストリーの提供でお送りする『アルテマでごきげんショー』。次の局はジミー・ラッキーとヒズ・アルテマ・セブンのアルテマ……ジジジ。
「あ、切れた。なあ、ソウヘイ。アルテマってのはほんとあちこちにあるんだな」
「そうですね」
「とにかくデカくて」
「カネも持ってそうです」
「ガソリンもあるかな」
「え? ――あ」
ガソリンの残量計の針が3の目盛りを指している。
「よし、ソウヘイくん。きみの出番だ」
「は?」
「押して」
「まだ、走れますよ」
「ガソリンをとことん節約する。だから、押して」
「あんたは?」
「おれはハンドルを手に取って、アクセルペダルを優しく踏むという重要な仕事がある」
「でも、そんな――えい、くそっ。もう」
車が止まると、ソウヘイは降りて、革製トランクが結びつけられた車の後部に手をぴったりつけた。
そして、シファキスはぐっとアクセルペダルを踏み込んだ。車はぶおん!と大きな音を鳴らし、ソウヘイを置いて走り出す。
「ちょっと!」
「冗談だよ」
二十メートル離れたところで車が止まり、シファキスは窓から顔を顔を出し、すまん、すまん、と謝った。
「今度やったら、もう知りませんからね」
「悪かったって。もう、しない。さっきのいたずらでガソリン残量が目盛りひとつ分なくなったから」
ふたりのうち、力仕事専門のソウヘイはぶつくさこぼしながら、車を押した。シファキスはソウヘイの負担を小さくするために絶妙な加減でペダルを踏み込んで、エンジンにガソリンを送り込んだ。
時計が五時を指すと、西へ向かう車は暮れゆく空の落陽へ向かい合った。
「沈んでゆく太陽へ車を押す。なんか、できのわるい哲学の教科書に載ってそうな話だなあ」
「くだらないこと考える余裕があるなら、手伝ってくださいよ」
「おれは、ほら、ハンドルを握るという重要な使命があるから」
と、言いながら、両手を自由にして、煙草に火をつけ、優雅な手つきで眼鏡を拭いた。
道の右側に石で作った低い壁が見え始めた。腰くらいの高さで子どもでも簡単に飛び越えられるようなもので、その向こうには菜園とガラス製の温室が見える。
そのうち、〈ペリカン荘〉と銘を打たれた鋳鉄製のアーチが見え、ハンドルを右に切ると車は荘園へと入っていく。そのとき、荷馬車が街道のほうからやってきた。馭者席には農婦らしい恰幅のいい女性とほっそりとした白服の少女が乗っていた。
「ひゅーう」とシファキスが口笛を吹く。
「あんた、女ならあんな子どもでもいいんですか」
「十六歳くらいか。あと五年も経てば、ものすっごい美人になる」
「いまは美人じゃないんですか?」
「いや、美人だけど、いまの美人は少女の美人だ。女性の美人とは違う」
「さっぱり分かりません」
荷馬車は車の横に並んだ。手綱を手に取っている農婦風の女性が言った。
「あれまあ」
「あ、どうも」
「あれまあ」
「どうかしたの、マーサ?」
恰幅のよい体の向こうから少女がちょっとだけ顔を出した。淑女としての教育を受けた女性ができるギリギリの前かがみなのだ。
「自動車ですよ。お嬢さま」
シファキスが憂いを帯びたように、すっと笑みを流す。
ソウヘイは経験で、シファキスがそういう顔をするのは女性相手にカッコつけるときだと知っている。
「こんにちは、お嬢さん」
「こんにちは。えーと……」
「ヴァレンタイン・シファキスです。お会いできて光栄です」
「こちらこそ、シファキスさま。それと、あの、後ろの方は……」
「ああ、彼のことは気にしないでください。車を後ろから押すのが趣味なんです」
「趣味じゃないけど……アシマル・ソウヘイ。あ、名前がソウヘイで、苗字はアシマル」
「ソウヘイさま……もしかして、ガソリンがお切れですか?」
「ああ、お切れだよ」と、ソウヘイ。
「では、こちらで少しお待ちいただけますか?」
そういうと、少女は農婦のマーサから手綱を取ると、先を急いだ。荘園の道はほっそりとした杉の並木になっていて、その終わりに大きな地主屋敷があった。荷馬車がそこで荷物を降ろすあいだ、少女の白いドレスがちらりと屋敷の右へとひらひらしたかと思うと、少女は両足を左側に出して座る淑女風の乗り方で黒馬に乗ってやってきた。その手には細い注ぎ口がついた赤いガソリン缶。
シファキスはいえ、そんな受け取れませんよ、と遠慮したが、ソウヘイは何の躊躇もなく、ガソリン缶を受け取り、無礼に思われないギリギリの会釈をすると、エンジンのキャップを外して、缶の中身を全部入れた。
ソウヘイが空の缶を少女に返そうするのを窓から手を伸ばして、ひったくると、洗ってお返ししますと言うが、少女は遠慮なさらないでください、と、するっと手を閃かせ、気づくとガソリン缶は少女の手へ移っていた。
両足を片側にそろえる乗り方で身を傾けすぎると、あっという間に落馬するものだが、少女はよっぽど身ごなしが優れるらしく、危うげなひと揺れもなく、馬上からにこりと笑いかけた。
「シファキスさまとソウヘイさまは旅の途中ですか?」
「ええ。まあ、そうです」
少女の馬と車は並んでゆっくり走った。
「オーランドさまがきっと喜んでくださいますわ。オーランドさまはよそから来た方をおもてなしするのが大好きですから」
「乗馬の腕は相当ですね。お嬢さん」
「リーベルと呼んでください」
「リーベルさん。乗馬はどこで?」
「もちろん、この農園ですわ。子どものころから乗っていますの。本当は乗馬ズボンを使う乗り方のほうが好きなのですけど」
「わたしはいまのほうが好きですよ。リーベルさん」
「ズボンのほうがいいんじゃないの? 刀とか左右に振るとき、そっちのほうが――いてっ」
「すいませんね。こいつ、生まれが戦闘民族でして」