〈オールド・ブリュワリー・ホテル〉は――
〈オールド・ブリュワリー・ホテル〉はアルテマ・ブリュワリーとは何の関係もないホテルだった。
前身は〈オールド・ブリュワリー〉という醸造所で、〈オールド・ブリュワリー〉は生まれたときから、オールドだったのだが、これは銘柄にオールドとつけておけばうまくなる気がする創業者の安直な意思が反映されていた。
この田舎の小さな醸造所は世界的なワイン・ブーム、ウィスキー大氾濫、ホップ疑獄事件など、アルコール絡みの様々な事件のなかでもみくちゃにされた。そして、二十年前にほんの一か月だけ、実験的に施行された禁酒法でトドメを刺され、〈オールド・ブリュワリー〉は〈オールド・ブリュワリー・ホテル〉になった。
もともと醸造所だった建物を宿泊施設に転用したので、やたらと高さが異なる屋根の坂や無駄に生えた煙突、つやつやした赤い銅、踏むとじわっと古いビールのにおいが上ってくる絨毯、広すぎるロビーなど他の宿屋にはない雰囲気があった。ホテルのどこかには税務署をごまかすための二重帳簿がいまも眠っていると言われている。
そんなホテルはお財布にやさしい。ただ、夕食の値段は少々辛くあたってくる。というのも、食堂が使えず、料理と酒は個々の部屋へ持っていくからだ。
「食堂はどうしたんだ?」
雇われ学生はカウンターから出て、レストランのドアを開けた。テーブルが薪に変わって、窓が全部割れ、壁には何十発という熱い弾丸のせいで焦げた跡。
「捕り物ですよ。外国人スパイたち。なんか、変な名前の。有限会社とか」
ソウヘイとシファキスは「おっと」と言いそうになり、セールスマンは???な顔をしている。
「部屋ごと蜂の巣ですよ。修繕費は誰が出してくれるんですかね。まあ、僕はオーナーじゃないんだけど。――と、そんなわけで」と雇われ学生が言った。「食事はお部屋までお持ちしますよ」
「自分たちで持っていくからまけてくれ」
「ダメですよ。オーナーがせこいから、絶対自分で持っていかせるなって言うんですから」
ソウヘイとシファキスはセールスマンを全権交渉役に任命し、粘った結果、二階まではホテルの従業員が持っていき、三階までは自分で持っていくことで値段を少しまけてもらうことになった。
三階の彼らの客室は三角形の床に壁が立ち(醸造所のころの名残)、三つのベッドがそれぞれの点に置いてあった。
中央には丸テーブルがあり、白さギリギリ合格圏内のテーブルクロスがかかっている。
妥協の産物と言える特異的な給仕システムで三人が持ち込んだ料理は牛の尻尾のデミグラスソース煮込み。炒めた牛の舌に卵でつくった黄色いヌードルを添えたもの。いったい肝心の肉はどこに行ってしまったのかという大いなる疑問があるが、食べてみれば、どちらも非常にイケたので、肉の在り処はどうでもよくなった。
こうなると、地元産の赤が欲しいところだが、もちろん供せられるのはアルテマ・ブリュワリーの瓶ビールだ。
「うまいよ。うまいけど、ビールは万能じゃない」
シファキスが不満げに言った。
「わたしはキーランド人なので、何でもビールで平気です」
「そりゃキーランドが、ポテトチップスの山に溶けたチーズかけて、ディナーって呼ぶ国だからだよ」
セールスマンは肩をすくめて、食事中邪魔にならないよう、肩まで伸びた髪を紐で後ろに結びつけた。
「あんた、シャンプーのセールスはしないの?」
「なんでです?」
「いや、髪、サラサラだから。女の人なら、どんなシャンプー使ってるのか、知りたがると思うけど」
「シャンプーなんて使いませんよ。水で洗って、適当に拭いて、終わりです。使ってないものは売れませんよ。詐欺になります」
「それ、女の人の前で言わないほうがいいよ」
「どうしてです?」
パン、パン!
路地から銃声がきこえた。
「ろくでもない銃撃戦に何十回と巻き込まれると」と、ソウヘイ。「その銃声が自分を狙ったものかどうか分かる。あれは関係ない銃声だから、気にしなくていい」
パン! パキン!
「あの、……窓に穴が開きましたよ?」
「そうだな」
「これも関係ないんですか?」
「流れ弾だ。先生はどう思います?」
「流れ弾だな。でも、この牛の尻尾、すごくうまい。口のなかに入れるととろける」
雇われ学生がドアをノックした。
「お食事中、すいません。入っても?」
「いいよ」
雇われ学生は窓を見て、毒ついた。
「くそっ。一発当たってる」
「捕り物か?」
「リミテッドの残党をブリュワリーに雇われた探偵たちが探してるんです」
学生がオーナーに惨状を伝えるべく、去っていくと、
「あいつ、おれたちの怪我の有無についてはまったくきかなかったな」
「客の命より窓ガラスなんですよ、先生」
「あのー」と、セールスマン。
「ん、なんだ?」
「リミテッドっていうのはなんですか?」
シファキスは口をナプキンで拭った。「スパイ有限会社。国際的なスパイ組織だ。世界の平和は自分たちが守ってると本気で思っている、ある意味で幸せなやつらだよ。やつらの基準じゃアルテマは悪役になるようだな」
「どうしてお二人はそのことを知っているんです?」
ソウヘイが説明を代わる。「こっちの仕事を邪魔されたことが何度もある。ショットガンで武装したギャングたちに改造自動車で追っかけられてたら唯一の逃げ道だった橋を爆破されたり、自爆テロリストの爆弾ジャケットから抜いたはずの信管がまた元に戻されてたり」
「どうしてそんなことをされたんですか?」
「おれたちは基本的に善玉だけど、やつら、偏頭痛か更年期障害がひどくなると、おれたちが悪役に見えるらしい。先生、今回のおれたちはさすがに善玉ですよね?」
「そのはずだけど、この大量のアルテマ・ビールの空き瓶を見られたら、保証はできない」
そのとき、ドアが開いた。開いたと同時に閉じられたのだが、その速度に反比例して、閉じたドアの音は極小。そういうドアの閉じ方をする人間は誰かから隠れて、ここに自分がいることを知られたくないわけだ。
突然の客人は姿を見極められない速度で三人の食卓の下へと隠れた。
テーブルクロスが閃き、カチリと音がして、二丁の銃がシファキスとソウヘイの股を狙う。
「妙な真似をしたら、撃つ」