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「なんだ、これ!」セールスマンが悲鳴を上げた――

「なんだ、これ!」

 セールスマンが悲鳴を上げた。

「いやらしいタイツで女の子が給仕してくれる〈スポーツ・カフェ〉がない! アンドレ親爺の放屁芸が有名な〈アンデレス〉がない! 本物の骸骨でシャンデリアをつくった〈グレイブヤード・バー〉がない! 天使に扮して下着をつけてない女の子たちが目いっぱい足をあげてラインダンスをしてくれる〈天国劇場〉がない! みんな……みんなビヤホールになっちゃってる!」


 そのセールスマンを拾ったのはプレハティまで十キロの地点。午後三時のことだった(ちなみにセールスマンが悲痛な叫び声を上げたのは午後五時半のこと)。

 彼は商品を詰めたトランクを片手に土地境界を示す並木道を歩いていて、ヒッチハイクをしていた。

 そのころにはシファキスもブレーキのない車を御すコツを心得始め、スピードを抑えながら走っていた。

「先生、ヒッチハイカーです」

「乗せてやろうか。車も重いほうがスピードを落としやすい」

 アクセルペダルから足を離し、車はセールスマンを追い抜いて、二十メートルほどのろのろ進んで止まった。

 セールスマンは喜んで後部座席に乗り込んだ。ヒッチハイクの礼儀として、乗せてもらったら、車をほめちぎるという暗黙の了解がある。

「いやあ、独創的で物持ちがいいですね!」口のうまいセールスマンが言った。「大量生産大量消費のこの時代、ここまで修理をして乗り続けるのだから、よほどの愛着があるんでしょうね!」

「まあ、そんなところだ。あんた、セールスマンだよな? 何を売ってるんだ?」

「教習本です。それが画期的な――」

 ドガン! 車が踏んだのは水切り向けの平らな小石だったが、それでも三人の体はポップコーンみたいに跳ねた。

「このサスペンションのない振動も車で移動しながら、体幹を鍛えられる!」

「あんた、本当にそう思うのか?」こいつアホなんじゃないのか?と思い、ソウヘイがたずねた。

「本当ですとも、若者よ!」セールスマンは弁護士よりも口がうまかった。「機械化自動化の進んだこの現代、こんな時代があと二十年も続いたら、人類は自分の足で歩けなくなるほど退化すると言われている。でも、あなたたちは違う! この車に鍛えられたあなたたちは金持ちたちが地面でミミズみたいにもぞもぞしているのを横目に自分の足で歩くことができる! いやあ、なんと先見の明があることか!」

 農道の交差点に教会があり、教会を中心に鍛冶屋、家具屋、医者、民家、厩舎が集まった田舎町に車の修理屋があったので、黒服から巻き上げたカネでブレーキをつけさせた。残金が二リロになったが、命には代えられない。

「素晴らしい!」これまでブレーキがなかったことを知ったセールスマンはこれさえも誉め言葉につなげた。「スリルがどれだけ人間精神を鍛え上げるかを、あなたがたは知っている! まったく紳士の決闘手段に先を丸めた、針金みたいな剣で突っつくこの時代、あなたたちは危険が男を男たらしめることを知っている!」

 シファキスは助手席のソウヘイにこっそり話した。

「ヒッチハイクは多少なりともカネを礼に払うことになってる。それについて、きいてみ?」

「わかりました。……なあ、あんた」

「なんですか?」

「ヒッチハイクのお礼――」

「あそこの老婆、歩いている! いやあ、素晴らしい!」

「ああ。ところで、お礼――」

「あの大道芸人はなんてうまく熊をあやつるんだろう! いやあ、素晴らしい!」

「ああ。そうだな。お礼――」

「しかし、どれもお二方にはかなわない。なぜなら、あなたたちは息をしている! いやあ、素晴らしい!」

「お――」

「わたしもヒッチハイクの仁義は知ってます。お金よりももっといい情報があります。プレハティに行くんですよね。わたしが街をご案内しますよ。仕事で何度も来ているので知っているのですが、わたしはムフフな場所に詳しいんですよ。素敵な夜になるのは間違いありませんよ!」

 畑や牛、草の茎をくわえた子どもが見えなくなったと思ったら、車はプレハティの市街地に入っていた。

 磨いた石を敷いた大通りは人と車でいっぱいで、クラクションと口論みたいなおしゃべりがやかましい。

 都会らしく洗練されたショー・ウィンドウにはボンボン菓子やプリンセス・ドレス、貝殻を詰めた籠を持った水着のマネキン、絵画、天体望遠鏡がキラキラ輝いていた。

 まだ残照のある紫の空だが、発電機のスイッチが押されたのだろう、青銅の街灯がいっせいに点り始めた。

 そして、一番目立つところにはアルテマがあった。ビール運搬トラックの青いタンクにはアルテマ・ブリュワリーとあり、アルテマ・デパートという一番いい立地にある百貨店のショー・ウィンドウにはアルテマ党の制服やサーベル、アルテマスポーツ協会推薦の競技用ラケット、アルテマ出版社の百科事典が並んでいるが、ビロード張りの台の上にデパートには不似合いな古代の石盤が置いてあった。五つのライトが異なる方向から当てられていて、このデパートの売り物で一番立派で見せびらかしたいものなのだろう。

「先生、ちょっと停めてください」

 車が停まると、ソウヘイは助手席の板を外して、外に出た。

 石盤は暗い青に若干の光沢がある円盤で、鳥と人間のあいの子みたいなものの画が中央に刻まれている。そして、その図柄をソウヘイには一文字だって理解できない象形文字が取り巻いている。値札には〈非売品〉とあった。

 そして、おかしいのは通りがかる人びとがこの円盤を見て、うっとりしていることだ。きれいな異性に見惚れるようなものではなく、変な薬の入った注射を打たれたみたいな顔で――誰かが敷石を外してウィンドウに投げつけ、円盤をふたつに叩き割ったら、そいつを生きたまま八つ裂きにしかねない顔で。

「なんだ、これ?」

 気づくと、シファキスとセールスマンも一緒に見ていた。

 セールスマンが言った。「奇妙ですねえ。売り物ではないものをこんな一番目立つ場所に置くなんて。経営者は商売する気があるんでしょうか?」

「古代のフリスビーかもしれない」

「先生。まずいです」

 まわりにいる人間が――、帽子屋の少女が、子連れの夫婦が、水兵服の五歳児が、非番の近衛兵が、巡査が、今夜の客を探す娼婦が、シファキスのことを見つめた。

 にらむでもなく、ただ見つめた。

 三人はささっと車に引っ込み、クランクをまわして、走り去った。

「フリスビーって言っただけなのにな。昔、おれに恋人を寝取られたってデマを信じた男が銃を持ち歩いて、おれのことを探したことがあるんだが、あのとき、おれを見つけたやつの目が、いまの目とそっくりだった」

「言動には気をつけたほうがいいですね。アルテマってのは、どうも何かあります。あんた、何か知らないのか?」

 セールスマンは首をふった。「わたしはキーランド人なんですよ。ここには期間を決めてのセールスに来てるんです。確かに前に来たときは、こんなアルテマなんてのはなかったんですがね。あの目はわたしが売りつけた教習本を返品しようとする客の目そのものですよ。ああ、恐ろしい。それよりプレハティのテンプルトン通りに用があるんですよね?」

「ああ。そこのオリオン・ホールって店だ」

「きいたことのない店ですね。まあ、あそこはこのあたり一帯で一番の歓楽街です。きっと見つかるでしょう。案内はわたしに任せてくださいよ。忘れられない夜になりますよ」

 そして、テンプルトン通りについたとき、セールスマンは叫んだのだ。

「なんだ。これ! いやらしいタイツ姿で女の子が給仕してくれる〈スポーツ・カフェ〉がない! アンドレ親爺の放屁芸が有名な〈アンデレス〉がない! 本物の骸骨でシャンデリアをつくった〈グレイブヤード・バー〉がない! 天使に扮して下着をつけてない女の子たちが目いっぱい足をあげてラインダンスをしてくれる〈天国劇場〉がない! みんな……みんなビヤホールになっちゃってる!」


 エッチな劇場や怪しげなカフェはビヤホール大流行の前に壮絶な戦死を遂げたらしい。

 試しにそばにある店に入ってみると、なかにはアルテマ醸造所ブリュワリーの焼き印がある広告用の巨大ビア樽があり、それをくりぬいたなかにビアジョッキが並んだカウンターがあった。出すビールはアルテマ・ビールだけだ。シファキスとセールスマンがビールを注文と頼むと、下戸のソウヘイは断った。

「それなら」とバーメイドがにこりと笑う。「ノンアルコール・ビールもありますよ」

 これまでアルテマにいいイメージのない一行だったが、ビールはなかなかイケた。

「ノンアルコール・ビールのほうはどうだね、ソウヘイくん」

「そうですね。ちょっと癖になる味です」

「あのすみません」と、セールスマン。「前にここに来たときは〈スポーツ・カフェ〉って店だったと思うんですけど」

「いまは違います。アルテマ・カフェ商会が買い取って、現在はアルテマ・カフェ第三十七支店です」

「第三十七支店?」

「アルテマ・カフェ商会が経営する飲食店チェーンです。グリーンウィンドウ国のあらゆる場所に支店があって、全部で三百以上の支店があります」

「そいつはまた、ずいぶん繁盛してるね。ところで、お嬢さん。ビール以外には何があるんだ?」

「え? ありませんよ。アルテマ・ビールがあれば、他に何も必要ありません」

「でも、ワインとかウィスキーとかは?」

「アルテマ文明には蒸留酒が存在しません」

「え? だから、ワインとウィスキーはダメなの?」

「もちろんです!」

 自信いっぱいのキラキラした笑顔だが、どうも作りものっぽい。これ以上余計なことを言ったら、すぐ、あの気味の悪い目で見られそうだ。

 ソウヘイが代わる。「オリオン・ホールって店を探してるんだが、知らないか?」

 バーメイドはソウヘイたちの後ろを指差した。ふたつの入り口ドアのあいだの壁にポスターが貼ってあった。

「なになに」シファキスは眼鏡をくいっと少し上げて、読み上げる。「アルテマ党プレハティ支部演説会。五月二十三日、午後五時より開始。演説者、チャールズ・ケーストン支部書記長、題目は……『人はいかにして、よきアルテマになるのか』 おっ、聴衆にはビール一杯とソーセージ一皿無料配布だって」

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