くしゃくしゃの紙幣が三枚――
くしゃくしゃの紙幣が三枚。すり切れた銅貨が二枚。
シファキスとソウヘイは車の座席の下からトランクの底まで探し、服を全部脱いで、知らないうちにパンツに高額紙幣が挟まっていないか調べた。
通りがかった行楽用のオープン・カーの、後部座席の貴族らしいご婦人に凄まじい目で見られたが、『なんだ、文句あるのか? こっちは所持金が尽きて、くたばる寸前なんだ』と睨み返した。
車はあっという間に通り過ぎていったが、シファキスは急にこっちのパンツ一丁を見たんだから見物料を取るべきだと思ったが、ソウヘイが――、
「やめましょうよ、先生。パンツ一枚で車を走って追うとか、アホの極みですよ」
「そうはいうけど、カネがない時点で尊厳もへちまもない」
言葉遣いと先生という呼び名から考えると、年上のシファキスが立場が上らしい。
手のひらのカネ――くしゃくしゃの紙幣が三枚。すり切れた銅貨が二枚。
お使いをした子どもだって、もっとマシなお駄賃をもらえる。
金欠になると、心理的な要因でたとえ初夏でも体感温度がケタひとつ下がるので、ふたりはいそいそ服を着た。
シファキスはシャツの上にリヴォルヴァーの入ったホルスターをつけた。ソウヘイは人を殴るためのグローブとナイフを弾く防刃ベストを顎のすぐ下までボタンで留めた。
シファキスはソウヘイの髪をじっと見て、言った。
「焦げたイワシだっけ?」
「サバです。余計なお世話ですよ」
ソウヘイは髪が黒い。東方の国出身で、みな髪の色が黒いから、黒髪をあらわす比喩はたくさんある。特に優れた黒髪は〈カラスの濡れた羽根〉と〈深い艶のある翠石〉だが、ソウヘイの髪がたとえられたのは〈黒焦げのサバ〉のような黒髪だった。ソウヘイが故郷を捨てた理由はいろいろあるが、髪に対する比喩もそのひとつだ。
ソウヘイの背はやや低い。一六九センチでそのことは本人も気にしている。そして、ソウヘイが言うには日によっては一七〇センチになることもあるそうだ。たぶん重力が関係しているのだろう。
「で、今日は何センチ?」
「一六八ですけど、何か?」
「あ、今日の重力は強めなんだね。ねえ、おれの身長きいて」
「嫌です」
「そう言わずに。教えないと人生台無しになるまで、付きまとうよ?」
「……はぁ。先生、今日の身長は何――」
「一八四センチ!」
「――ちっ」
「あ、いま、舌打ちした?」
「社交界デビューに備えて、ワインをテイスティングする練習をしただけです」
「ごめんね。背が高くって」
「気にしてません」
「額に青筋が浮かび上がってるけど?」
「気に、して、ませ、ん!」
ソウヘイは背が低く、骨格も小ぶりだった。だが、体格の不利を体力で補うべく、しっかり鍛えていた。鍛えた体の使い道は港湾労働やサーカスのレスリング・ショーではなく、戦士のそれである。誰かを蹴飛ばすときはソウヘイの体は竹でつくったブービートラップみたいによくしなった。
一方、シファキスは背が高かった。ただ、腕力は強いほうではなく、もっぱら銃頼みだった。愛用の銃はウィンターズ・カノン。四五口径の強装弾を発射できるリヴォルヴァーで、走ってくる車のエンジンをぶち抜いて停止させることを念頭に置いて設計された銃だった。
「老眼でしたっけ」
「近眼だよ、失敬な」
フレームレスの眼鏡はなかなか度がきついが、これさえかけておけば、五百メートル先の煙草を狙撃銃で撃ち抜くことができる。
「先生、銃の撃ち方はどこで習ったんですか?」
「通信教材」
本当は軍で覚えたのだが、そのことを話そうとしないので、ソウヘイはしつこく突っ込まなかった。というより、きいてほしそうな顔をしているのがムカついてきかなかったのだが。
ソウヘイは知らないが、シファキスは自分の髪質を気にしている。女性がうらやむプラチナブロンドは癖が強く、帽子のおさまりが悪い。ふたりで旅をしていて、ときどきシファキスが不機嫌になることがあるのだが、それは新しい癖毛を伸ばす薬を買って、使って、全く効果がなく、だまされたときに限った。何も知らないソウヘイはシファキスがそうなる日のことを〈男の子の日〉と呼んでいた。
奇妙なふたり連れの足は型落ちの中古のA型パーカーでエンジンをかけるのに車の前についているクランクをまわさないといけない。
シファキスが車に乗り、チョークを操作してピストンに燃料を満たし、イグニッション・スイッチを入れて、親指を立てた。
ソウヘイはフロントグリルの下にある金具にクランクをつなげて、ぐるっと勢いよくまわした。
エンジンはゼエゼエ呻きながら、軸が回転をはじめ、ソウヘイはさっとクランクから手を離して、助手席に戻った。
「幸い、ガソリンがある。こいつが尽きるまでに何かしらの仕事を見つけないとなぁ」
ホルスターに銃を入れ、人を殴るための手袋をつけるふたり組の『仕事』というのはパンを焼くとかカブの収穫を手伝うとかではない。
一応、悪党退治の何でも屋と言っているが、彼らが仕事をすると、必ず地元の保安官なり司法官なりがブチ切れて、二度とここに来るんじゃねえと言われる。
まったくひどい話で、彼らは一度も法を破ったことは、まあ、だいたいはない。
多少あるかもしれない。
ただ、彼らがなした善行に比べれば、大したことはないというのがふたりの考えだ。正直な話、さまよえる自営業ふたりにはとれる選択肢が少ない。与えられた道のなかで一番法を破らず、地元の司法機関の怒りを買わないやり方を選ぶのだが、彼らの仕事が見事に成功すればするほど、地元の警官たちの馬鹿さ加減があらわになり、いわれのない敵視をされてしまうわけだ。
ふたりの車はいま、草原に敷設された街道をガソリンを節約する絶妙な速度で走っている。グリーンウィンドウ国はほとんどがこんな草原だ。アクセルペダルを優しく踏めば、牧草地と畑、野花が咲く小道、風車が並ぶ丘、豪族の墓らしい小山、そんなものがあらわれては後ろへ優しく流れていく。
アクセルペダルを優しく踏めば、空を漂う雲ですら優しく見える。
シファキスの得意技はいろいろあるが、アクセルペダルを優しく踏むことは財政状態に不安があり、今あるガソリンだけで、できるだけ遠くへ行きたいとき、非常に重宝する。
「なあ、ソウヘイ。運転してみるか?」
「結構です。どうせ動かない」
ソウヘイの得意技は殴る、蹴る、投げる、頭突き。自動車についてはクランクをまわす技は極めたが、運転はさっぱりだった。クラッチペダルを強く踏み込み、ガタンプスンと車が止まる。そうすると、クランクをまわすところからやり直しである。
「おれは車に嫌われているんです」
青空の雲は羊のようで、牧草地の羊は雲のよう。
牧歌的なのは構わないが、平和なところに彼ら向きの仕事はない。スラム街に逃げた銀行強盗を捕まえてカネに換えるとかあこぎな稼ぎ方をした成金の用心棒とか、そういう仕事がしたいのだ。
「ここには馬の尻を手綱で叩く以上の暴力があるとは思えないなあ」
「おれたち、そろそろこういう暮らしを卒業するときなのかもしれません」
「おれは三十三で、お前は十九のガキで――」
「二十です」
「二十のガキで、保険のセールスマンでもするのか?」
「もっと農業によりましょう。お米を脱穀するとか」
「腹が減ったな」
「おれたちの所持金じゃ卵ひとつも買えませんよ」
「そもそもまあ流通してるのかも怪しい。紙幣なんて五十年以上前のやつだ」
牧歌的が退屈になるのはそう時間のかかることではない。
「いいこと考えた。今度見つけた農家の前で、お前が素っ裸になって、ああああああ!って叫ぶんだ。そうしたら、哀れに思って、パンのひとつでも恵んでもらえるかもしれない。というより、もらえるまで叫ぶんだ」
「ただのゆすりじゃないですか。だいたい、なんで、おれが。先生、あんたがやればいいじゃないですか」
「おれは無理だ。繊細だから」
「おれだって繊細です」
「人間の顎に何のためらいもなくアッパーカットをする人間は繊細とは言いません」
「人間の足元を銃で撃って、踊れって言う人間も繊細とは言いません」
「関節技決めて、目をらんらんと輝かせて、折ってもいいかと言う人は繊細とは言いません」
「一発だけ入ったリヴォルヴァーで三回連続で引き金引く人間も繊細とは言いません」
「頭突きを――おっと、あれを見ろ」
街道からそれる短い道があり、そこでは収穫した黄色い稲の山を脱穀している農夫たちがいた。大きな鉄製のトラクターの動輪にベルトをかけて、脱穀機械の動輪にかけているのだが、噴出孔からはもみ殻が金粉のようにきらきらと輝いて、空中に噴き出されている。麦わら帽子をかぶった男が別の噴出孔に袋の口をつけて、中身を米で満たしていた。
「ほら、ソウヘイ。あああああ!だ」
「それより、この辺で安い料理屋がないかききましょう」
米の袋がトラックに積まれ、稲の山に立つふたりの農夫がフォークで稲の塊を刺し、鉄の顎のような脱穀機械の入り口にせっせと放り込んでいる。
トラクターに乗っている無精髭を生やした農夫がふたりに気づいた。
「あんたたち、アルテマ党の役人か?」
「なに?」
「違うのか」
「あー、と。もし、おれたちがアルテマ党とか言うのなら、こう、メシにありつけたりするかい?」
「さーな。どうだろうな。こんな田舎じゃな。腹減ってるのか?」
「これから減る予定」
「カネは?」
シファキスはポケットから全ての所持金を手のひらにのせて見せた。
農夫は笑った。
「そいつをまだカネって呼ぶ人間はいるのかね。あんたらが生まれる前のカネじゃないか」
「これで焼いた卵でも食わせてくれる店はないかな」
「このあたりには料理屋はないよ。みんな料理は自分でつくるし、卵も自分で拾える。ほんとにそれしかないのか?」
「パンツのなかまで探したよ」
農夫は笑ってこたえた。
「じゃあ、戻った街道をずっと西へ行くといい。そのうち、大きな荘園の入り口が出てくる。〈ペリカン荘〉って名前の荘園で、そこの主人は旅人をもてなすのが好きなんだ。ただで食わせてくれるし、泊まらせてくれるさ」
「ガソリンが心もとないんだがな」
「そんなに遠くない。歩いていけば夕暮れまでに着くさ」
礼を言うと、ふたりは車に戻り、クランクをまわして、エンジンのご機嫌を取りながら、街道へ戻った。
しばらく、道路はなだらかな起伏を走り、畑とブナの木立、小川、屋根の落ちた廃屋などを通り過ぎていく。しばらく走ると、電信柱が右の丘のほうからあらわれて、道沿いに合流した。
脱穀機から運転して一時間以内にやっと見つけた近代文明の利器である。
すれ違うのは荷馬車や行商馬車で自動車はなかった。
「なあ、ソウヘイ。ここ、ガソリンスタンド、あるかな?」
「太っ腹の領主がくれるんじゃないですか?」
「まあ、いいや。ガソリンがなかったら、押すのはお前だし」
「ハァ? 冗談じゃないですよ」
「おれは、ほら、都会っ子だから。四十五口径より重いものもったことないし」
「うそだ。プラムバレーで女抱きかかえてたじゃないですか。クジラみたいにデカい女で、そいつ――先生! あれ!」
咄嗟にハンドルを左に切る。車はギリギリで倒れた電信柱を避けた。車は盛り土の上に乗り上げかけたが、なんとか逆にハンドルを切り、ひどい揺れに尻をどやされるだけで済んだ。
ソウヘイが振り返ると、電線は切れ、電信柱の切断面はノコギリでやられたように真っ平らだった。
「あー、危なかった」
「どこの馬鹿だか知らないけど、迷惑なやつがいたもんですよ」
「こののどかな穀倉地帯で初めて見かけた犯罪ってわけだ」
「もうちょっと、のどかなのを想像してたんですけどね。豚泥棒とか」
「電信会社は犯人の身柄にいくら払うかな?」
「無理じゃないですか? 都市部ならともかく、こうも田舎じゃ。どうせ犯人は酔っ払った村の人間ですよ」
シファキスは車を止めた。電線のそばにひどく古いロードスターが停まっていて、その運転席から尋常ではない背の高さの男が座っているのが見えたからだ。
ふたりは車を降り、電柱に対する犯罪の犠牲者に挨拶した。焦げ茶の山高帽をかぶった老紳士で、運転席に座っているだけでも十分高かったが、車を降りて、立ち上がると、さらに高かった。
「身長いくつ?」
「去年測ったときは二メートルと八センチありました」
もうひとつ、このニコニコした老紳士には特徴があった。左手を腹話術の人形に突っ込んでいたのだ。その人形は老紳士と同じ、山高帽に蝶ネクタイの古い服を着ていて、顎と目と腕が動くタイプのよくある腹話術人形だった。
「先生ハ成長ガ止マッテナインダヨ。タブン、イマハ二メートルと十五センチハアルヨ」
「いくらなんでも、そんなにはないよ」
「えーと……あなた、芸人さん?」
「ああ、申し遅れました。わたしはこういうものです……すまないね、スピンくん。名刺を切らしてしまった。きみ、持ってないかい?」
「仕方ナイネ。ホラ」
名刺は人形サイズの小さなものだったが、ゴマ粒みたいな小さな字はかろうじて『アルテマのお日さま孤児院院長 ディンウィック・スミス』と読めた。
「だから、腹話術の人形か」ソウヘイは孤児たちが老紳士を取り囲み、お話をせがむ様子を想像した。「で、またアルテマか。このアルテマってのはなんだ?」
「オイオイ。ソンナコトモ知ラナイノ?」
「スピンくん。静かに。説明しましょう。アルテマとはこのあたりにあったと言われる。古代文明です」院長の声は孤児院の子どもたちに話すような、落ち着いて優しいものだった。「その古代の知恵を現代に生かし、よりよい世界を目指そうという運動ですな」
「じゃあ、アルテマ党ってのは」
「現在の政府与党です」
「つまり、国の金庫の暗証番号を握ってるわけだ」
「そういう言い方もできますな」
「おれたちはこのまま進むけど、あんたはどうする?」
ディンウィック・スミスはにっこり笑うと、電柱のそばで体を曲げ、大きな右手で電柱をつかんだ。そのまま上体を起こして、電柱を持ち上げると、陶製の白い碍子が落ちて割れ、電線がずるずると引きずられて、土に貴族の署名のような優雅な筋を残した。老紳士は道の端まで持っていくと、電柱をそこに静かに下した。