悪夢の幕開け
「ハッ。」
秀は息を呑んだ。潰れた顔、変な方向に曲がった手足、はみ出る内臓、止まらない血…。そこにいたのは見るも無残な死体だった。
「…ヒデ!」
秀の耳にようやく麗の声が届いた。麗は強く秀の腕を掴むと、引きずるようにして化物から遠ざけた。
「何を見た?」
秀は激しい頭痛に膝を付いた。化物の悍ましさに、ではない。あれを見たことがある。脳内に勝手に音が響いてくる。歪んだ映像が脳裏に浮かぶ。
クラクションとブレーキ音、視界を覆う白い光。滲んでくる視界と鉄の臭い、人の声、サイレン…。
『どうしてお前が生きてるの?』
「大丈夫だ。ゆっくり息を吐いて。」
麗の穏やかな声が脳内の声を徐々に掻き消していった。秀は過呼吸になっていたが、どうにか目の前の光景を認識することができるようになってきた。
「交通事故だ…。」
秀が呟くと、麗の表情が強張った。
「あの人は交通事故で亡くなった。今もその時の苦痛と恐怖の中にいる。僕のことも道連れにしようとしているみたいだ。」
麗は口を開いて、暫くして閉じた。
「…どうして?」
「分からない。あの人が誰なのかも…。顔が判別できる状態じゃない。」
「もういい。帰ろう。その人のことは忘れろ。」
秀は弱々しく頷いた。
秀は帰宅するとすぐに自分の部屋の隅にお札を貼った。何とも言えない不安に襲われたが、気のせいだと思うことにした。
秀は一人で夜道を歩いていた。後ろから聞き覚えのある、びちゃびちゃという音が聞こえてきた。
「そんな…。どうして?」
秀はそいつから逃げようと走り始めた。後ろから何かを引きずるようなずるずるという音、血の垂れる音、死臭が迫ってくる。秀は恐怖で足がもつれそうになりながら走ったが、家の前に辿り着いても玄関の扉が開かなかった。
「開けて!」
必死に扉を叩くが、扉は固く閉ざされたままだった。そうしているうちにも轢死体は迫ってきて、遂には秀に覆い被さってきた。秀の目鼻から血が滲み、激しい痛みと吐き気に襲われた。秀は悪霊を振り払おうと藻掻き、その顔を見たところでハッと目が覚めた。
「夢…?」
見慣れた天井が見え、傷一つない身体を確認しても、秀の悪寒は収まらなかった。秀はぼーっとしていたが、徐にスマホを手に取り、家の外に向かった。
「出掛けるの?」
後ろから声を掛けてきたのは優だ。秀は振り返らず、無言で玄関の扉を閉めた。
「夢見が悪い?」
秀は麗に電話を掛け、事情を説明した。
「夢の中であいつに追われたんだ。何なら家の扉が開かなくて殺されかけた。それと…。」
「何?」
秀は言いにくそうに続けた。
「顔を見たんだ。…優だった。」
「…取り敢えず榊に相談しな。オレには分からない。」
「そうだね。ありがとう。一旦切るわ。」
秀は電話を切って榊に電話した。
「悪霊が夢に出てきたんですけど。本当にあれ、効果ありますか?」
「申し訳ありません。完全に除霊するのは時間が掛かるのです。直接危害を加えられない分、夢に現れたのでしょう。もう暫く耐えて下さい。」
秀はあんな夢をしばらく見なければならないと思うと眩暈がした。
「あと、その悪霊が兄の顔をしていたのですが…。」
「よくあることです。悪霊は相手の動揺を誘うため、最も親しい人物に化けるのです。お気になさらないよう。」
「そうですか…。」
秀は釈然としないまま電話を切った。
こんな事態に陥ったら、作者であればパニックになりますが、登場人物が冷静すぎますね。ちょっと秀が可哀想になってきました。