また、幕が上がる
カミロ視点のお話です。
夜も深けたトルメンタ伯爵家。
皆が寝静まった屋敷に、硬い靴音が鳴り響く。
「カミロ様、お食事は」
「いい。軽く食べてきた」
「しかし、このように毎日遅いお帰りで……食事くらいしっかりお召し上がりになりませんと、お身体に障ります」
心配性の執事はカミロのあとを着いて歩き、あれやこれやを心配するけれど。本当に何も欲しくないのだ。城でも、上役から「何か食べろ」としつこく言われてやっと軽いものを流し込んだくらいで。
執事を廊下へと置いたまま自室の扉を閉めると、カミロは着の身着のままベッドに倒れ込んだ。
ランプひとつが灯る、ほの暗い部屋。
消えてしまいたいくらいに疲れている。身体も頭も。そして心も。
カミロは心の支えを失った。
長年、心の支えになっていたもの。それはフィーナを幸せにすることだった。
その気持ちが恋であったことに気づいた時にはもう既に遅くて。取り返しのつかないことをしていたのだと分かったのは、フィーナの涙を見てからだ。
彼女は失った『家族』を得ようと何度も縁談を繰り返してきたのに。カミロはその度に、彼女の想いをぶち壊してきた。己の正義感だけを振りかざして。
どの見合い相手にも納得できなかった。
きっと無意識だった。心の底では羨ましかったのだ、フィーナの唯一になれる男が。彼女にとっての唯一が、生半可な覚悟では許せなかった。自分以上の覚悟でなければ許せなかった。
自分こそがフィーナに相応しいと、自分ならフィーナを幸せに出来ると思いこんでいたのかもしれない。彼女の気持ちなど、まるきり無視したままで。
本当に間抜けだ。なぜそんなにも自信満々でいられたのだろう。フィーナと手を繋いだだけで、頭が真っ白になってしまうような情けない男なのに。
挙句、泣かせてしまった。拒まれてしまった。こんなどうしようも無い自分が、どうしてフィーナを幸せに出来るだろう。
しかしカミロは、フィーナのことばかりを考える自分に気付いてしまった。
彼女が世界一大切で、何より愛しい。心の奥まで、見せて欲しい。甘えて欲しい。幸せにしたい。彼女の孤独を埋めたい。彼女の、本当の家族として──
「カミロ様」
瞼を閉じていると、幻聴が聞こえる。
フィーナの声だ。幸せな夢でも見ているのかもしれない。
「カミロ様、少しお話を」
彼女はハーブティーを持ってきてくれた時にも、話をしようと言ってくれた。優しいひとときだった。もうあの時間は、二度と手に入らない。
「カミロ様……? 大丈夫ですか」
愛しいフィーナの声は、何度も語りかけてくる。
ずいぶんとリアルな夢だと、姿を見てみたいと……薄く目を開けると。
そこには本当にフィーナが立っていた。
「ーーーー!?」
思わずベッドから飛び起きる。
そんなカミロにフィーナも驚いたようで、彼女はベッドのそばで大きな尻もちをついた。
「い、痛……」
「大丈夫か!」
転けたフィーナに手を差し伸べると、彼女が戸惑いの表情を浮かべた。迷っているのだ、この手を取ってよいものかどうか。それもそうだ、カミロは縁談を台無しにしてきた、忌々しい相手なのだから。
「す、すまない、驚いて……しかしなぜフィーナがここに」
つい差し出してしまった手を引こうとすると、フィーナにガシリと手を掴まれた。
呼吸が止まる。彼女の小さな手が、カミロの手に縋る。まるで、逃がさないとでも言うように。
「あ……こちらこそすみません、お部屋へ勝手に入って待っていました。ディレット様には、許可を頂きましたが」
「母上が許可をしたのか」
「はい」
心臓が止まるかと思った。まさかこんな薄暗い自室にフィーナがいたなんて、思うはずが無いじゃないか。こんな遅い時間まで、ずっと、カミロを待って。
「……俺を待っていたのか」
「はい。最近はお屋敷にいらっしゃらないので」
「こんな遅い時間まで」
フィーナはカミロの手を掴んだまま、ベッドの脇に跪いている。掴まれた手に意識は集中してしまって……シンとした沈黙の中、カミロは彼女の言葉を待った。
「どうしても、お話がしたくて」
蜂蜜色の瞳は薄闇の中で強く輝き、こちらを見つめる。
(……なぜ、俺なんかと?)
話がしたかったというその一言だけで、カミロの胸はじわじわと満たされてゆく。話してもいいのだろうか、彼女と向き合うことが許されるのだろうか……そう思うといても立ってもいられなくて。
「フィーナ、悪かった」
「カミロ様……」
「俺はお前の気持ちをまるきり無視していた。おまけに鈍い。やっと自分のエゴであったと気付いた愚か者だ」
謝って許されることではないが、目の前にいるフィーナへ謝らずにはいられなかった。それが自己満足であったとしても。
「許されようとは思わない、お前を深く傷つけた」
「……はい、傷付きました。でも私も考えてみたんです。カミロ様の言葉を」
フィーナの手に、わずかに力がこもる。
「結婚はお互いが本気でなければと……実際、その通りでした。私も相手もすぐ辞められる、全てそんな縁談だったのかもしれない」
「あ、ああ」
『中途半端な縁談は流れて当然だ』
以前カミロはそう言った。そしてその言葉通り、見合い相手の彼らはカミロの牽制で簡単に断りを入れてきた。
「でもカミロさまは、他の方々と違って本気のようでした」
「ああ、そのつもりだった」
「私、カミロ様が私と本気で結婚しようと思ってるなんて、ずっと信じていなかったのですが。それなら、私が本気になればこの縁談こそ成立するのではと」
耳を疑った。
残念ながら、フィーナの言うことが理解できない。
「……は? 何の事を言っている?」
「カミロ様との縁談についてです」
疲れ切っていた頭が更に混乱する。
フィーナとの縁談は、自業自得のまま終わったはずだ。ついこの間、拒否されたばかりではなかっただろうか。
「お、おい、フィーナ……正気か?」
「正気ですし、本気になりたいと思っています」
「俺とトルメンタ伯爵家で、一生暮らすことになるんだぞ」
「カミロ様こそ……これで最後にしろと仰ったけれど、果たしてそのお覚悟はあるのですか」
フィーナは勢いよく立ち上がり、カミロをじろりと見下ろした。
「浮気はしないと誓えますか」
「し、しない。するわけが無い」
「私よりも長生きする自信はありますか」
「ああ。今以上に身体には気を遣おう」
「お、お覚悟は……」
「俺の人生には、お前だけだ」
気丈に振る舞う彼女の瞳には、みるみるうちに涙が溜まってゆく。ついにぽろぽろと涙が溢れたフィーナの頬にそっと手を伸ばすと、彼女は照れたように目を逸らした。
ああ……幸せとは、こういうものなのでは無いだろうか。自分の手はこの涙を拭うためにあったのだと、心からそう思った。
「私……し、信じても良いのですか」
「っ、フィーナ」
カミロはフィーナを力の限り抱きしめた。突然のことに彼女は腕の中から逃げようと藻掻くけれど、こればかりは我慢できそうにない。
「痛いです! カミロ様」
「俺と……家族になってくれ、フィーナ」
「……はい、カミロ様……はい」
なおも抱きしめ続けていると、彼女は諦めたように身を委ねた。フィーナの小さな手が、カミロの背中へと恐る恐る回される。その温もりに、信じられないくらいの満ち足りた気持ちがカミロを襲った。
「フィーナは、やはり誰にも渡せない」
「……カミロ様のお眼鏡にかなう相手は、カミロ様以外いませんよ」
決意を新たにするカミロを見上げ、彼女はぽつりと呟いた。
泣き笑う、愛しいフィーナ。
二人は静かに瞼を伏せると、やがて顔を寄せ合いキスをした。
間近にある彼女の瞳には、自分勝手で心の狭い男の顔が映っている。
やっと心から笑い合えた二人を、夜の闇がやさしく包み込んだのだった。
次回で完結となります。
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