探偵、巻きこまれる
それは、古い地図だった。いかにも年季の入った紙に描かれた地図が、銀色の額縁におさめられている。
だがオクタヴィアは、見間違えたりしない。
「鉄道王肝いりの列車には、ああして地図の一部が飾られている。その中でもあれはとくべつ、かつての統一帝国の首都が描かれているらしい」
「……地図」
「――オクタヴィア?」
レイヴンのひとことにオクタヴィアは我に返る。
『オクタヴィア、今は落ち着いて、座れ』
ハットにも制され、椅子に座り直す。いつの間にか立ちあがっていたことにも気づいていなかった。レイヴンが心配そうに覗きこむ。
「どうかした?」
「い、いや。統一帝国の遺産と聞いて、つい、驚いて……き、危険な、ものだろう。悪魔の遺産とか言われてる……」
「ああ。でも今は女王の封印が施されているからね。安全だって話だよ」
「そう……なのか」
「夜行列車の開通祝いに、女王陛下から鉄道王に下賜されたっていう話だからね」
頭上で飾られたものをにらんでいるだろうハットが毒づく。
『……だめだ、反応がない。封印されているというのは本当そうだ』
「ひょっとしたら、今は地図よりも額縁のほうが、目玉かもしれないな」
レイヴンの説明に、もう一度オクタヴィアは地図を見あげた。
「あの額縁は女王陛下直々に魔力を込められたものだって話だ。帝国の遺産が暴走しないよう封印しているのはあの額縁らしい」
「そ……そういうのは、王都には結構、あるのか」
「そうだね。怪盗が出る程度には」
「は、怪盗?」
ハットと額縁の中身に気を取られていたオクタヴィアは、唐突な単語に意識を引き戻された。
レイヴンがおどけるように首をかしげる。
「知らない? 王都ではだいぶ有名なんだけどな。怪盗クロウ」
「は、初めて聞いた」
「女王陛下のお膝元で帝国の遺産を狙う、世紀の大悪党だよ」
窓から差し込んだその日最後の光が、レイヴンの顔を黒く染め上げる。なぜだろう。表情の読めなくなったその顔を食い入るように見つめてしまったせいで、反応が遅れた。
「失礼」
はっと背筋を正す。背後に黒服のボーイが立っていた。腕にかけたナプキンで隠しているのだろう手には、銃。その銃口が向いているのは、オクタヴィアの後頭部だ。
「オクタヴィア?」
正面の席でレイヴンからは見えないだろう。そっと、ボーイが令嬢に伝言を告げるように、上半身を折り曲げた黒服の男がささやく。
「こちらへ、オクタヴィア・ド・レーヌ嬢」
どうも、正体を突き止められてしまったらしい。
(……今はこいつひとりか?)
ならば、自分ひとりでどうにでもなる。目的を聞き出すのもいいかもしれない。何より銃口がわずかにレイヴンの方向に動いたのを察して、オクタヴィアは立ちあがった。レイヴンの視線を感じて、にこりと笑う。
「すまない、席をはずす。すぐ戻ってくる」
「そう」
レイヴンが頷いたのを見届けて、席を離れたその瞬間だった。椅子を蹴ったレイヴンが男の鳩尾に的確な一撃を入れて沈める。
「がっ!」
「レ、レイヴン、お前」
「相手はひとりじゃない、走って!」
上着をかぶせられたオクタヴィアを身をかがめるように押さえ込んで、レイヴンが走る。悲鳴と食器が落ちる音、転げ落ちるご婦人に逃げ出す青年。あっという間に伝播した混乱と人の波を、レイヴンは上手に縫っていく。
「止まれ、そこのふたり!」
視界の隅で、トレイを投げ捨てた男が食堂車の出口に向けて銃を構えた。息を呑んだ瞬間に、発砲音が響く。牽制だ、悲鳴があがっただけで誰かに当たった様子はない。
「いいか全員、動くな!」
だが、牽制のために発砲されたその銃弾は、ちょうど食堂車の出入り口の上に飾られた額縁に当たっていた。
四隅の端を撃ち抜かれた額縁が、がくんとずれる。ハットが叫んだ。
『オクタヴィア、まずい! あれが本当に封印なら、地図が暴走するぞ!』
「我々の狙いはそこの女だけだ、他は――」
黒服の男の警告はそこで止まった。その目に脅えが走り、再度銃がかまえられる。レイヴンに抱きかかえられたまま、オクタヴィアは叫んだ。
「撃つな、額縁がこれ以上壊れたら――!」
「う、うああああああ!」
何発かの銃声と一緒に額縁が、硝子が撃ち抜かれて、中身が落ちる。その瞬間、真っ黒な触手が銃を持った男を、締め上げ、呑みこんだ。
かつてあった統一帝国の遺産を、悪魔の遺産、と呼び出したのはいつ頃で、誰だったのか。
「逃げろ!」
「殺されるぞ!」
だがどれだけ逃げても魔力のほうが早い。完全に男を呑みこんだ球体が四方八方に黒い魔力を飛ばす。食堂車を呑みこむまであっという間だ。
甲高い金属音が響き、揺れが激しくなる。
『おい、地図! ――だめだ、列車が乗っ取られる!』
「レイヴン!」
無駄でも逃げろと言おうとしたオクタヴィアは、途中で言葉を止める。遅かった。ぐらりとレイヴンの体がかたむく。レイヴンだけではない、周囲の人々が全員だ。
力の抜けた重い体を支えながら、床に横たえる。
見れば、起きているのはオクタヴィアだけだ。男を呑みこんだ丸い球体もない。周囲は先ほどまでが嘘のように静まり返っていた。
『オクタヴィア。このままでは列車ごと皆、あちら側につれていかれるぞ』
「わかってる。地図は――先頭車両だな」
道具はいつだって自分の役目を忘れない。そして、地図の役割は案内することだ。きっとこの列車を、神が封印されている世界へと導こうとしているのだろう。
それを止めるのがオクタヴィアの役目だ。
立ちあがろうとして、ふとレイヴンの姿に気を取られた。自分の肩に手を置く。言葉は自然に出た。
「……ありがとう」
『どうした?』
「いや」
首を横に振って立ちあがる。でも、なんだか忘れてはいけないことのような気がした。
皆が逃げ惑うあの瞬間、レイヴンは最後までオクタヴィアの肩を強く抱いて、守ろうとしてくれたのだ。