怪盗とさよならの賭け
オクタヴィアの立ち去り方はいつも颯爽としていて迷いがない。遠く鳴り響いていた彼女の踵の音が聞こえなくなるまで立ち尽くしていたレイヴンは、いささか乱雑に椅子に腰をおろした。
(こんなに早く気づかれるとは思わなかった)
今晩にでもさっさと逃げ出す予定だったのに、困ったことになった。彼女が何をするのか見てみたいと思ってしまった。
「……どうしようか」
ひとりごちるが、答えはない。
オクタヴィアに気づかれるのはかまわない。彼女は大雑把に見えてとても周囲をよく見ているし、勘もいい。レイヴンが怪盗クロウであることにも気づいているのに証拠が得られずやきもきしている姿を見るのは、とても楽しかった。帝室の継承者である彼女の秘密を暴くより、つかまるかつかまらないかの駈け引きのほうに熱心になっていたくらいだ。
だがそれは彼女だからであって、王弟の獲物になるなど、考えただけで吐き気がする。
とっとと逃げるのが吉だ。オズヴァード侯爵家を手に入れたのも、賭けに出て勝っただけで、未練があるわけではない。怪盗クロウなんて遊びを始めたのも、自分の能力を自由に使える開放感と、散々弄んでくれた王家を玩具にしてやりたかっただけ。自分の生い立ちを振り返ると復讐に走るのが常道かもしれないが、そんな気すらなかった。
全部、お遊びだ。
そもそも自分がどこの誰かもレイヴンにはわからない。だからどこにでも行って、なんにでもなれる。なんでも捨てていける。それが自分の強みだ。危険な遊びの代金としては妥当だろう。
緊急起動キーを奪われるのだけはさけねばならないが、おそらくそれは誰にもできない。自分を被験体にしていた研究所でさえ不可能だった。だからこその成功体だ。
――ひょっとしたら、オクタヴィアにはできてしまうのかもしれないが。
(ならいっそ、早く逃げたほうがいい)
なのにどうして自分は両腕を組んで考えているのだろう。
唸っている間に、ふと耳がまた足音を捕らえた。今、この塔には自分しか収容されていない。
誰かが登ってくる。音はひとりぶん。食事か何かだろうか、と思ったが、階段から出てきた姿にしかめっ面になった。
王弟だ。
かつてレイヴンがいた研究所を作った男。
「レイヴン・エル・オズヴァードだな」
厳格そうな顔をしているが、ねばつくような視線が隠せていない。こういう視線を、レイヴンはよく知っていた。
天使が道具を欲しがる目だ。
「貴殿の過去を知っている、とだけ言っておこう。まさかあの爆発で、生きているとは思わなかった。うまく逃げおおせたものだ。しかも、侯爵家を手に入れて堂々と生活しているとは」
「……何のお話でしょう。オズヴァード侯爵家の事故のことでしょうか? でしたらただの事故だったと、私より王家の方のほうがご存じのはずです」
「しらばっくれるか。まあいい、すぐわかることだ。お前さえいれば、研究もしきり直せる。お前に殺された研究員の後継を育てる時間もあった」
オクタヴィアの懸念どおり、これは勘付かれている。だが、なんのことかわからない、という笑顔を保ち続けた。
逃げるにしても、この場で「そうです」などと答え合わせをしてやるほどレイヴンは親切ではない。逃げたら肯定することにはなるのだけれど。
「だがもしお前が私に服従をするのなら、そのまま侯爵でいてもいい」
「仰っている意味がよくわかりません。私がここにいる理由ならば、冤罪です」
「もしお前の能力を姉上に知られれば、お前は帝国の末裔だと勘違いされて、王城に一生幽閉されるぞ。逃げることも死ぬことも許されず、一生、飼い殺されるだろう」
は、とレイヴンはまばたいた。
(一生幽閉? 処刑とか、殺すとかではなく?)
初耳だ。帝国の末裔といえば、危険な遺産を使い国を転覆させる悪人として、異端審問官に念入りに狩られたと聞いている。少なくともそれが世間一般の認識だ。
レイヴンの表情を見たヘンリーが笑った。
「色々あるんだ、天使にもな。だがあの空の幽閉塔では、帝国の遺産も使えない。そういうふうに作られた塔だからな。それよりは私の庇護を受けて侯爵として贅沢に生活しつつ、研究に協力したほうがましだろう?」
だとしたら、オクタヴィアは――帝国の末裔、女王陛下と遺産たちが謳う彼女は、もしその正体が知られれば殺されるのではなく、ただ飼い殺されるのか。
その想像は、なぜだかレイヴンを動揺させた。動揺は心の奥底を不意打ちでゆさぶって、そのままいらぬことを気づかせてしまう。
(僕と、同じになるのか。彼女が?)
――どうやって、彼女はレイヴンを助けるつもりなのだろう。
目の前でいかに自分に庇護されるほうがいいかヘンリーが語っているが、もはやレイヴンの耳には入っていなかった。頭をしめているのは、すっかり逃げるつもりで、きちんと彼女の秘密を暴こうとしなかった自分への後悔だ。
「ここまで譲歩してやるんだ。文句はないだろう?」
どうすればいい、と回転し始めた頭の中で、彼女の声が響く。
――だから、わたし以外から、逃げないでくれ。
「ひとまずは明日の謁見が終わり次第、お前には私の宮殿に移ってもらう」
「――目をかけていただくのは大変嬉しいのですが、すみません」
「なんだと」
「研究だとか、なんの話か僕にはさっぱり。何か勘違いしておいででは?」
まだ言質は何も取られていない。
にっこりと笑い返したレイヴンに、ヘンリーが口調を荒らげた。
「私に逆らって、生きていけるとでも?」
「そう言われても、心当たりがありません。そもそもあなたが仰るような能力が本当に私にあるならば、私はここからすぐにでも逃げられるのでは?」
ぐっとヘンリーが詰まった。
「何より冤罪ですから、私はここから出られるでしょう。探偵も調べてくれているはずです」
「……ふん、またあの女か。エドワードがずいぶんやり込めたがっていた。レーヌ伯爵家の女というのは、爵位を継げるせいか昔からわきまえぬ女が多かったが……所詮人間の女だ。何もできはしない」
小馬鹿にしたように笑うこの男は、オクタヴィアのことを何もわかっていない。それでいいはずなのだが、侮られていることに腹の底がざわついた。この瞬間だけは、オクタヴィアを目の敵にしているエドワードたちのほうが好ましく思える。
ヘンリーがわざとらしいほど大仰に、嘆息した。
「私は寛大なほうだ。明日、謁見が終わったあとにもう一度同じ問いかけをしてやる。あの探偵とやらではお前を救えないと判明したあとにな。そうすれば気分も変わるだろう」
「……そう決まったわけではないでしょう」
「決まっている。いくらエリザが気にかけようと、こんな短期間では何もできない。それにもし万が一のことがあっても、最悪私はお前を突き出せばいいだけだ。お前が今からすべてを打ち明けたとしても、あの女ではお前を守ることなどできん」
そうだ。むしろ彼女こそ、逃げなければいけない立場だろう。彼女は本物なのだから。
「……私は、わりあい賭け事が好きなほうなんです」
でも、腹の底に感情を押しこんで、レイヴンは笑い返す。
「そして負けたことがない。――今までも、これからも、その予定です」
負け惜しみととらえたのか、ヘンリーは一笑して踵を返す。足音が消えてなくなるまでその場に立ち尽くしてから、レイヴンは鉄格子に腕と額をぶつけた。
「ああ、ほんとにもう……」
危険な遊びは大好きだ。自由だからこそできる選択。主導権をにぎる優越感。何より、生きている感じがする。怖いと思ったことはない。
なのに、こんなに胃の痛い賭けは初めてだ。
彼女を信じるか、信じないか。ただそれだけの賭けにこんなに怖じ気づくなんて、自嘲しか浮かばない。
「ひょっとしてつかまると、こういう気持ちになるのか」
両足を折られるほうが楽そうだ。
怪盗が、冗談じゃない。
鉄格子を両手でつかんだレイヴンは息を吸って吐いて、それからゆっくり閉じた目を開いた。