探偵、いきなり旅立てない
「一等車しかあきがない……?」
「はい。本日発のものはもう二人用の個室が一室しかあいておらず……申し訳ありません」
「じゃ、じゃあ明日は?」
「明日はどの席も予約だけで満席ですね。二等車のあきは……半月先です」
「半月!?」
「シーズンが間近ですから。申し訳ございません」
切符売り場の駅員に頭をさげられ、オクタヴィアは慌てて首を横に振り、その場を離れた。
大きな駅のホームは行き交う人々でごったがえしている。ホームに佇む紳士、見送る女性、汽車に手を振る子ども、荷物を運ぶ駅員と様々だ。急ぎ足の乗客の邪魔にならないよう隅によけて、白い帽子のつばにさわった。
『乗ればいいのでは? 金はあるだろう?』
帽子に化けているハットが、頭上から尋ねる。オクタヴィアは思案した。
「そうだが、でもこれからを考えると……」
王都には祖母から生前譲り受けたオクタヴィアの屋敷があるが、住む場所があるというだけで贅沢はできない。それに今から乗ろうとしている汽車は、この国初の長距離夜行列車だとかでそもそも値段が高めだ。貴族御用達の個室がある一等車となると、なおさらである。
だが、二等車のあきを待って半月ここで足止めされれば、その分宿代がかかる。それも決して安くない。この列車に乗れば、あと一泊二日で王都に着くことを考えると、かかる値段と時間が見合わない。王都で半月もあれば、探偵の看板を掲げられる。
「簡易寝台のある二等車にキャンセルが出ればいいんだが……」
『二等車は男女相部屋だろうが。家の連中が何を言おうが、お前はレーヌ伯爵令嬢――いや、それ以上に尊い女性だ。わけのわからん男にまじって寝るなぞ、俺様許さんぞ』
「そう言われても背に腹はかえられない」
『どこかに空間ごと列車を切り取る道具がないものか』
「いきなり異端審問官に捕まるようなことはやめてくれ、ハット」
『王都でもなければそうそう乗っておらんだろう、そんなもの』
「――どけ!」
ひそひそとした相談を、背後から大声が切り裂いていった。ざわめきと動揺、悲鳴に馬のいななきがまざる。深く帽子をかぶった男が、日傘をさしたご婦人や子どもを突き飛ばし、駅のホームに向かって走ってきた。
「泥棒だ、そいつ!」
「つかまえろ! 警備兵!」
「くそっ」
人混みをうまくすり抜けられず舌打ちした男と、オクタヴィアの視線がかち合った。
ナイフの刃が、日に照り返す。
ぐいと引っ張られ、男に羽交い締めにされたオクタヴィアはぱちぱちとまばたく。喉元にはナイフが光っていた。男に羽交い締めされたときに落ちてしまったハットがぼやく。
『旅立ち早々、また不吉な……』
「この女の命が惜しければ近づくな!」
男を追っていた警備たちが足を止め、距離を取って半円を描くようにして囲む。オクタヴィアの首に腕を回し、ナイフの刃先を周囲に見せつけながら、男は笑ったようだった。
「よ、よし。おい、汽車を用意しろ! 車掌以外、乗客は追い出せ!」
『どうしたものか。今、目録にあるものの中で使えそうな道具は……武器は目立つな。さりげないもので……おっ裁縫道具とかどうだ。ちくっとやれば逃げられんか』
「要求を呑みましょう。そのかわり、そのお嬢さんを解放してくれませんか」
緊迫したその場にわってはいったさわやかな声に、オクタヴィアは顔を向けた。警備と野次馬の壁の向こうだ。
「オズヴァード侯爵、危険です。どうかうしろに」
「人質がいるんです。被害者の私が交渉しなければ、犯人の信頼を得られませんよ」
警備のうしろから、若い男が出てくる。と同時に、かぶっていた紳士帽を取った。
さらりとした艶やかな髪が潮風に流れる。切れ長の瞳は鋭く見えたが、目元は涼しげで、微笑みは柔らかい。雑多な埠頭の中でも舞踏会で立っているようなぴんとした背筋には、気品がある。
先ほどまで暴漢に脅えた顔をしていた女性たちも、オクタヴィアを捕まえていた男さえ、見惚れたように動きを止める。
美しい青年だった。だが、オクタヴィアはつい眉をひそめてしまう。
(なんだろう。詐欺師?)
洗練された黒のフロックコートに、お洒落なチェックのウエストコート。シャツの襟元は葡萄色のタイで結ばれ、足元はキャラメル色の革靴を履いている。どこもおかしなところはない。むしろ完璧な着こなしをした貴公子だ。
なのに、何かが引っかかる。
「あなたが盗った私の財布を取り返そうとは思いません。あなたを追おうともしない。だからそのお嬢さんを放してあげてください」
「そ、そんな話、信用できるか」
そう――物憂げに影を作る長い睫だとか、どこかわざとらしいのだ。こちらを案じるような表情も美しすぎて、作り物みたいに見える。
「本当ですよ。私には必要ありませんし、差し上げます」
「ひ、必要ない、だと」
震える声で男が繰り返す。周囲には驚きに聞こえただろう。だが男の腕にこもった力でオクタヴィアは察する。
これは交渉ではない。挑発だ。
警備のひとりにステッキを渡し、上等な革靴の踵を鳴らしながら両手を広げて青年が進んでくる。武器と敵意がないことを示しているのだろう。
だが、少しも隙がない。はしばみ色の冷たい双眸が三日月のように、嘲笑を浮かべる。
「ええ。いくらでも差し上げますよ。――それがお前の人生の値段だ」
「こっ……!」
「やめろ人生が終わるぞ」
低く男に忠告したオクタヴィアはナイフを投げようと振りあげた男の足を、軽く振り払った。あっと体勢を崩した男を突き飛ばし、這うようにして逃げ出す。
「お、おい、今だつかまえろ!」
慌てて警備たちが駆けよって男を取り押さえる。周囲には憤った男が勢いあまってつまづいて転んだように見えただろう。
『ま、この程度なら俺様たちが出る間でもないか』
「ならいいが」
妙に誇らしげなハットを拾う。オクタヴィアは周囲がまだ対処に手を取られ、混乱しているうちにさっさと立ち去ったほうがいい。聴取なんてことになったら、ここで足止めされてしまう。
だがオクタヴィアの目の前に、手が差し出された。
「お怪我はないですか、お嬢さん」
さっきの青年貴族だった。