序章
「おとなしく出て行け」
「わかった、出て行こう」
「えっ?」
目を丸くされて、オクタヴィアは首をかしげた。出て行けと言ったのはあちらなのに、どうして同意して驚かれるのか。
レーヌ伯爵邸の玄関口である大理石の広間には、旅行鞄やコート、帽子と、オクタヴィアの自室にある外出用の物が散らばっていた。たった今、階段上から投げ捨てられたのだ。投げ捨てるのは如何なものかと思うが、旅立ちの準備がはぶけて助かりもした。
そろそろ潮時だと思っていた。
祖母の葬儀の翌日にこうくるとは想像していなかったが、向こうからすれば待ちわびたというところだろう。
コートを拾ったオクタヴィアは、広間の壁際で固唾を呑んで見守っている使用人に声をかけた。
「旅行鞄に、お祖母様からもらったドレスは入っているか?」
「は、はい。着替えなど、三泊分は入っています……あのそれしか用意できなくて」
「いいよ。ありがとう。助かった」
「……い、いいのか」
階段上からおそるおそる尋ねられた。不思議に思ってオクタヴィアは自分を見おろしている家族を見あげる。
途中で交差する階段の踊り場には、異母妹とその肩を抱いている元求婚者、そして実の父親がいた。何か物言いたげな視線は、ひょっとして心配してくれているのだろうか。
「いいとも。心配しないでくれ」
毒気を抜かれたような顔をしたあとで、出て行けと宣言した張本人である元求婚者が毒づく。
「うぬぼれるな、心配など。お前のような娘は由緒正しきレーヌ家に、伯爵令嬢にふさわしくないのだ。私が入り婿として入る以上、この家に置いておけないと判断したまでのこと」
「そうだな、あとは頼んだぞ」
「……ッレ、レーヌ伯爵も、先代レーヌ伯爵夫人が言うから、本当は素性も知れぬとわかりながらお前を養育していただけだと言っている」
「ああうん、そのとおりだ。お祖母様はわたしをとても可愛がってくれた。お父様は若い頃、手をつけた使用人のお母様が私を生んだということを認めるわけにはいかず、しかも肝心のお母様も私を産んですぐ亡くなってしまったから、私に八つ当たりしかできないし」
「オクタヴィア! 口をつつしめ!」
父親は真っ赤になって怒っているが、この屋敷どころかおそらくレーヌ伯爵領の領民ならば誰もが知っている醜聞である。
良家のご令嬢と婚約していた放蕩息子が、結婚前に使用人の娘に手をつけて産ませた長女。それがオクタヴィアだ。相手は下級階級の女だから手切れ金でも渡せば関係はすぐ切れると父は思っていたらしい。レーヌ伯爵家がアンゲルス王国建国時から女性にも爵位が認められる特別な召喚状を持つ家系とは知らなかったのだ。祖母がレーヌ伯爵と呼ばれているのも、亡くなった祖父の代理だと勘違いしていたらしい。最近まで先代レーヌ伯爵は祖母だと気づいていなかったのだから、なかなかの間抜けである。
「今更そうやって隠そうとしても皆が知っていますが、お父様」
「わ、私の娘はジェシーだけだ! お前を娘だと思ったことはただの一度もない!」
「ご安心ください、わたしもあなたを父だと思ったことは一度もありません。育ててくれたのはお祖母様ですし……ただ、便宜上お父様以外に適切な呼称が思いつかず、申し訳ないです」
「お、おま、おま……っ」
申し訳なく答えたオクタヴィアに、父親が口をぱくぱくさせている。酸素不足だろうか。
その横から、眉をひそめた美しい異母妹が口をはさむ。
「お姉様。そんな悲しいことおっしゃらないで」
「ジェシー。わたしは別に悲しくはないぞ」
「わかっているわ。私も、エドワード様の件は本当に悪いと思っているの」
ジェシーが肩を抱いているオクタヴィアの元求婚者エドワードを見あげる。その視線を受けて、エドワードがジェシーの額に頬をよせた。
「安心してくれ、ジェシー。私が求婚すべきはレーヌ家のご令嬢だ。私をここにつかわした王弟殿下はオクタヴィアと名指ししていたわけではない」
「でも、お祖母様はお姉様に家を継がせるつもりだったわ」
「それは、正しくレーヌ伯爵家の血を引いていると最期まで信じてらしたからだろう。レーヌ伯爵家は女性に継承権が認められるが、血統を無視しているわけではない。間違いを正すのならば、お祖母様も何も言われないだろう」
そう――祖母は、もう何も言わないだろう。
この家でいちばんオクタヴィアを気にかけて、愛してくれた祖母は、一昨日、あっけなく死んでしまったのだから。
棺の中で最後に見た姿にはまだ現実味がない。それよりも、化粧を欠かさなかった優しい顔だとか、結婚指輪のある指だとか、庭園をゆっくりと歩くその足取りだとか、秘密を言い聞かせる声だとか――今にも奥の部屋から出てきて「またやっているの」と言い出す、そんな妄想のほうが現実味がある。
(悲しむな)
何度も言い聞かせられていた。自分のほうが必ず先に死ぬ。オクタヴィアのほうが先に死ぬような不幸はあってはならない。だからたくさんの色んなことを教わった。約束だってした。
もし、レーヌ伯爵家を継ぐことになったら。
もし、追い出されたら。
誰しも生まれは選べない。簡単に捨てられるものなら、家族だ血統だ貴族の義務だなどと、大仰に呼ばない。
だから不幸にならないよう、堂々と隠して生きなさい。
それがお前の自由なのだから。
「このままお前をここに置くことは、アンゲルス王家をたばかるのと同じことだ。私が次のレーヌ伯爵になることは、既に女王陛下もご承知のこと。女性も爵位を継げるなど、古くさい召喚状など今の時代には合わない。お前という不安要素は今後のこの家に災いをもたらすだろう」
「その古くさい召喚状を作ったのはアンゲルス王家なんだが、いいのかそんなこと言って。エリザ王女は怒るんじゃないのか?」
「姉上の名前を出して私がひるむと思うのか!」
そうやって怒鳴ると怖いんだなとわかってしまう。だがエリザは四十三人もいる女王の子どもたちの中で次代の女王にと望む声も高い、すぐれた王女だ。為政者らしい底知れなさもあると祖母から聞いている。色々あるのだろうと、あえて突っこまないことにした。
「女王陛下にはこう申し上げておく。オクタヴィアなる女性はレーヌ伯爵家にふさわしくなかった。姉上の目が曇っていたのだと!」
「まさか姉の悪口を母親に言いたくて婚約破棄するのか? いくらなんでも短慮に過ぎる気がするんだが」
「令嬢らしい振る舞いもできぬお前に言われたくない。姉上が気にかけているから目をかけてやったのに、期待外れにもほどがあった」
「期待……それは申し訳ない。わたしは、君はいい奴だとは思ってたのだが」
オクタヴィアの返事に、エドワードは嘲笑を浮かべた。
「今更、媚びを売る気か?」
「いや? 君が素直でいい奴なのは事実だ。四十三番目の王子だからとはいえ、なぜ自分が伯爵家なんかにという面倒そうな顔でおざなりな求婚をしにきて、わたしを見て舌打ちしたあとでジェシーを見て目を輝かせて。お祖母様も爆笑してらした。あれでは王宮では生きられないと」
「侮辱しているのか!」
「侮辱などしていないぞ。子作りの相手として悪くないと思っていた」
ぎょっとしたエドワードが勢いを止める。父親が顔を真っ赤にして怒鳴った。
「オクタヴィア、お前やはり!」
「でも、お祖母様との約束なんだ。子作りはちゃんと恋をした男としろと。そういうわけですまない」
「なぜ私が謝られるんだ!?」
「君では物足りないよ」
ひたと視線を定めて宣言すると、エドワードは息を呑んだようだった。父親が口泡を飛ばして叫ぶ。
「お、お、王子に向かってなんという無礼な!」
憤る父親を制してジェシーが尋ねる。
「お姉様は、どうされるつもりなの? 私がお父様とエドワード様を説得するから」
「大丈夫だ、王都にいけばお祖母様が遺してくれた屋敷がある。エリザ王女にも、こうなったときには顔を出すよう言われている」
「えっ」
間抜けな声をあげるだけの父親と、頬を引きつらせる元婚約者に、眉をひそめる異母妹。何を今更気にしているのかは知らないが、王都に祖母の屋敷が遺っていてそれをオクタヴィアが譲渡されたことも、祖母を通じてエリザ王女とオクタヴィアに面識があることも、周知の事実だ。
「あとはまかせたよ」
伯爵位にも、婚約者にも家族にも、未練はない。オクタヴィアは転がっている旅行鞄と帽子を拾い、玄関に向かって、背を向けた。
「……まっ」
最後に引き止めるような声をあげたのは誰だったのかにも、興味はなかった。
堂々と玄関を出て、旅行鞄を持ち直す。
外は快晴だった。青い空に向かって両手を伸ばす。
『本当にお前を追い出すとは』
胸に抱いていた帽子が喋った。真っ赤な三角の目とぎざぎざの口が現れる。オクタヴィアが物心つく前からの相棒だ。ハットという名前を、オクタヴィアは父はもちろん、祖母を呼ぶよりも先に覚えたと聞いている。
「驚きはしないだろう、ハット。お祖母様の予想どおりの展開だよ。君だってわたしが追い出されるほうに賭けていたじゃないか」
『まぁな。だが本当に追い出すとは……爵位の件も含め、今からあの婆様の遺産をわけるつもりだろう。葬儀の翌日から、ハイエナのように』
「あと一週間くらいは時間があるかとわたしも思ったんだがな」
情緒も何もない。祖母がまあ泣く暇もないだろうねと笑っていたのが思い出される。
『レーヌ伯爵家の本当の遺産が、全知全能たる俺様だともわからずに、愚かな』
「でもわたしは伯爵令嬢なんてガラじゃないから、ちょうどいい。お祖母様も時代は変わったとよく仰っていた。爵位などいっそないほうが自由かもしれないと」
歩きながら帽子を振って埃を落としてやる。乱暴に扱うなと苦情がきたが、ハットは普通の人間から見ればただの帽子だ。その目も口も見えないし、声も聞こえない。今は周囲に人気もないし、おかしな目では見られない。
『で、これからどうするのだ?』
「決まってる。お祖母様との約束を果たすんだ」
『具体的な手段は?』
「王都に行って、お祖母様の跡を継ぎ、探偵になる!」
悩ましい声と一緒に、ハットが斜めに伸びた。
『お前みたいなポンコツに探偵がつとまるとは思えんが……まぁ、エリザもお前に手を貸すだろうし、何より我らの力があればなんとでもなる。探偵は、さがしものをするにはうってつけの職業だしな。ここはおとなしく婆様の計画に従っておくべきか……』
「あとは婿さがしもだ。子作りをしないといけないからな」
『確かにそれもお前の使命だが、やめんかその言い方。結婚したいと言え。十七のうら若き乙女だろう』
「わかった。だが結婚の前に、お祖母様が言ってた悪い男にだまされるという経験もしてみたいんだが。いい女になるための必須事項だそうだ」
『ものすごく今後が不安になってきたぞ、俺様。全知全能なのに』
ハットはげんなりしているようだが、オクタヴィアの足取りが軽くなっていく。
花壇にはさまれた石畳の通路は、まっすぐ街の大通りにつながっている。そこで馬車をつかまえて、郊外にある駅へと向かう。確か蒸気機関車という乗り物があるはずだ。それを乗り継げば王都に出る。ちゃんと祖母の教えは胸にある。
でも、その先はオクタヴィアが知らない世界だ。
背筋を伸ばしてしゃんとして、進んでいかねばならない。
『ちなみにお前の思う悪い男ってどんなのだ』
ハットを――帽子をかぶり直して、オクタヴィアは答える。
「世界の転覆を目論む大悪党とか?」
『そんなのとは関わるな絶対に!』
叫ぶハットに、冗談だとオクタヴィアは笑った。