黒の銃士、朝顔を買う ~明治入谷の朝顔祭り~
「三嶋君は園芸に興味はあるか?」
「は?」
唐突な問いに、三嶋一也はつい間抜けな返答をしてしまった。
問うた張本人は、日本人にはあり得無い青緑色の眼で彼を見据えている。
その人物――ヘレナ・アイゼンマイヤーの形の良い唇が再び開いた。
「園芸に興味はあるかと聞いているんだ。いや、無くてもいい。朝顔を見に行く気さえあればいいんだ」
「はあ、朝顔ですか。特に好きでも嫌いでもないですが」
「まあ君の気持ちなんてどうでもいいんだけどな」
「ひっど!?」
一也は抗議の声をあげかけたが、それは叶わなかった。
ヘレナが一枚のチラシを押し付けてきたからだ。
墨で書かれたそのチラシに目を通す。
「入谷朝顔祭りですか」
「ああ。第三隊の本拠地も殺風景だからな。季節の植物の一つくらいは増やしたいというわけだ。悪いが、明日行って一鉢買ってきてくれないか」
「悪いなあ、一也ん。ほんまは己が行けたら良かってんけど、明日はどうしても外せん用事があってな」
横から先輩の奥村順四朗が口を挟む。
長身を折り曲げて拝むような仕草で頼まれると、一也は嫌とは言えない。
上下関係が比較的緩いとはいえ、ここは警視庁特務課第三隊である。
上司であるヘレナや先輩である順四朗の頼みは、やはり一定の強制力があった。
「分かりました。どんな朝顔かはリクエストありますか?」
「リクエスト......ああ、英吉利語か。三嶋君は洒落た言葉を知っているな」
ヘレナの反応に、一也は一瞬どきりとした。
自分が二十一世紀からこの奇妙な明治時代に転移してきたことは、皆には秘密なのである。
自分にとっては当たり前の単語でも、周囲の人間にとってはそうではないことがあり得るのだ。
「いえ、たまたまですよ」
さらりと何でもない風を装い、一也は笑顔を作った。
「そうか。順四朗とは違って教養があるな」というヘレナの賛辞も、実のところ冷や汗ものである。
「あのなあ、隊長? 一也んが英吉利語話せることと、己の教養と何の関係があるん!?」
「複数の言語が話せた方がいいぞ。外国人が私のように日本語が話せるとは限らないんだからな。明治維新以来、居留地に流入する外国人も増えているんだし」
そこでヘレナはじっと順四朗を見据えた。
「や、ほら、己には関西弁という第二言語があるやろ?」と順四朗が弁解するが、ヘレナは聞く耳をもたない。
「お前、標準語しゃべれないだろ? 下手したら私よりしゃべれないだろ? 単一言語だけだと、この先苦労するぞ」
「その憐れむような目、ごっつ傷つくねんけど!?」
「いやいや、私は可愛い部下の行く末を思って忠告しているだけだからな。三嶋君はどう思う?」
「え、いや、どんな朝顔を買えばいいかしか考えていませんでした」
「......そうか」
一也の即答に、ヘレナは心なしか毒気を抜かれたようだった。
彼女が黙りこんだため、順四朗は「おおきに、一也ん」と一也の肩をぽんと叩く。
「いえ、特に何もしてないですけど。あ、そうだ。隊長、一つ聞いてもいいですか」
「ん、何だ?」
「小夜子さんも連れていっていいですか。彼女、帝都のお祭りは見たことがないと言ってましたから」
「私は構わないよ。朝顔さえ買ってきてくれればね」
「そら、ええ機会やわ。入谷の朝顔祭り言うたら、ごっつたくさんの朝顔並ぶから華やかやで。屋台も出るし、楽しんでき」
ヘレナの許可に説明を添えながら、順四朗はふいと視線を廊下の方にやる。
「お帰りみたいやで」という言葉と共に、部屋の扉がガチャリと開いた。
「ただいま戻りましたー。やー、梅雨が晴れたと思ったら、暑くなりましたねー」
「お帰りなさい、小夜子さん。あの明日なんですが、ちょっと時間もらえますか?」
「何でしょう?」
一也に差し出された麦茶を飲みつつ、小夜子は首を傾げた。
頭の左側で結ったサイドテールが、それに合わせて揺れる。
「もし嫌じゃなければ、入谷の朝顔祭りに一緒にどうかなと」
「行きます」
「え。別に無理しなくてもいいんだけど」
「行きます」
「分かりました」
真顔で食い気味に即答する小夜子を前に、一也も頷くしかなかった。
そんな二人を、奥村順四朗は面白そうに眺める。
「やっぱりお祭りは若い二人が行くんが似合うよなあ。やあ、結構結構」
「順四朗。確かこういう場合に、ぴったりのことわざがあったと記憶しているんだが。そう、人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて脳味噌ぶちまけろ、だったかな」
「隊長」
「なんだ、間違ってるのか?」
「趣旨は合ってるけど、絵的にえげつなさ過ぎやで?」
順四朗が指摘しても、ヘレナは平気だった。
「概ね合っているなら問題ないだろ。独逸人だぞ、私は」とうそぶく。
そんな掛け合いはいざ知らず、三嶋一也と紅藤小夜子は、そそくさと帰り仕度を始めるのであった。
† † †
カランコロンと軽快に、一也の履いた下駄が鳴る。
その音に重なるようにどこか遠くから、豆腐売りの呼び声が聞こえてくる。
夏至を過ぎてまだ十日と少し、日が沈むにはまだ早い。
「あの、ごめんください。長屋の住人の三嶋です」
一軒の長屋の前で足を止め、一也は声をかけた。
すぐにしわがれた声が返ってくる。
「おやおや、珍しいのじゃね。五軒隣のお若い警官のお兄さんじゃのう。何かこの婆にご用かのう」
「はい、急なお願いで申し訳ありません。あの、もしよろしければ浴衣を一着貸していただきたいんです」
「浴衣をかね。まあ、まずはお入りんさい」
声に促され、一也は長屋の中に滑り込む。
夕陽が射し込む部屋の中、狭い部屋の中央には小柄な人影が一つ。
渋い矢絣の着物を着たその人影は、優しい視線で一也を認めた。
「急に済みません」
一也は軽く頭を下げる。
「いえいえ、いいんですよ。どれ、良い浴衣が合ったかね。三嶋さんが必要なら、一着貸すくらいはお安い御用じゃよ」
やれ、どっこいしょと声をあげながら、老婆は畳から腰を持ち上げた。
一也はこの老婆のことはよくは知らない。
だが長屋の住人からは、おひささんと呼ばれていることは知っている。
「明日、入谷の朝顔祭りに行くことになりまして。お祭りには浴衣で行かないとダメと、同行する人に強く勧められて」と、一也は事情を説明した。
おひささんは「ほうほう、それはそうじゃねえ」と柔らかい声で返しながら、ゆっくりと古い長持ちを開けている。
桐の香りが夕日に溶けて、ほぅと夏の熱を和らげる。
その小さな曲がった背中を見ていると、不意に一也の記憶に甦るものがあった。
一也が小さい頃、母方の祖母の家に遊びに行ったことがある。
正月だったからか、祖母は正装した着物姿であった。
"一也ちゃん、よお来たねえ"
そう微笑んで、お年賀の菓子とお茶を一也に出してくれたと記憶している。
そしてその祖母の家にも、古い桐の長持ちがあった。
普段は食べないような菓子を口にした後、その長持ちを触らせてもらったものだ。
――何だろう、全然顔は似ていないのに。
おひささんが長持ちから取り出した浴衣を受け取る。
――祖母は元気にしているだろうか。
胸の内に、急に懐かしい思いが去来した。
それに戸惑いながらも、一也は丁寧に頭を下げる。
「すいません、お借りします。ありがとうございます」
「ええよ、ええよ。浴衣なんて着てなんぼじゃからねえ。三嶋さんが着てくれるなら、この浴衣も嬉しいと思うんじゃね」
「あはは、それならいいですけど」
「色んな朝顔があるから、見るだけでも楽しめると思うんじゃよ。ふふ、若い人はええねえ」
「えっ、はあ、まあ」
おひささんのからかうような表情に、一也は曖昧な返答で逃げるしか出来ないのであった。
† † †
一也は入谷の朝顔祭りに訪れたことはない。
テレビで見たことがあるくらいである。
なので実際に間近で見るのは、これが初めてであった。
「予想よりも人がたくさん来るんだなあ」
あちらこちらを見ながら、そう呟く。
色とりどりの浴衣を着た人々が、あちらこちらへと歩きながら朝顔を見ている。
「ほんとに。吉祥寺村のお祭りとは違いますねえ。比べること自体が無理なのかもしれないですけれど」
「むしろお祭りあったんだと驚きそうになったよ」
「そ、そこまでど田舎じゃないですから!」
一也の冷静な突っ込みに、小夜子が反発する。
「ごめんごめん」と謝りながらも、一也に悪びれたところはない。
お互いに本気ではないことを知っているからこそである。
「しかし小夜子さん、浴衣似合いますね」
「え、えー、そ、そうでもないですよお。一也さんこそお似合いですよ。やっぱりお祭りは浴衣ですよね!」
「あんまり着たことないけど、今回は同意しますよ。周りの人、皆浴衣ですからね」
答えながら、一也は小夜子をちらりと見る。
薄紅の地に白い牡丹を散らした柄は、若々しさと可愛さを両立させている。
帯は濃紺であり、それが全体の雰囲気を引き締めて子供っぽさを消している。
"普段から着物で慣れているせいか、気付けもちゃんとしているしなあ"
翻って自分の浴衣を見る。
白と紺の長方形が交互に続く紺変わり市松という柄であり、幾何学的な模様であった。
帯は無地の黒であり、それを貝の口の帯結びにしている。
似合っているのだろうか。
平成にいた時は、あまり浴衣など着なかった。
「俺、ちゃんと着こなせてますか?」
ちょっと自信が無くなり、小夜子に問う。
小柄な少女はその問いに深々と頷いた。
「ものすごく似合っていますよ。一也さん背高いから、見栄えするんですよね。約五尺八寸あれば、大概の人より高いですもの」
「ありがとう。順四朗さんほどじゃないけどね」
返答しながら、心の中で174センチだよと付け加える。
そう答えても、小夜子には分からないだろう。
時代が違えば使っている度量衡も異なる。
一也もだいぶ慣れたが、それでも一瞬反応が遅れてしまうのは仕方ない。
その戸惑いを振り払い、一也は小夜子に声をかける。
「小夜子さんは朝顔好きなの?」
「割りと好きな花ですよ。実家でも毎年夏には咲いていました。でも、こんなたくさんの朝顔を見るのは初めてですね」
「俺も初めてだね」
小夜子の言う通り、朝顔と一口で言っても色々な種類と大きさがある。
青、白、紫、赤と色彩は多様に渡り、形もまた一重、八重、変わりだねでは桔梗咲きというものもあった。
朝顔売りの職人達が各々自慢の朝顔の鉢を並べ、客はそれに目を留めている。
「大きな朝顔だと、人の背丈近くあるな。持って帰れるの?」
「台車持ってきている人もいますね。ほら、あそこ」
小夜子が指し示した方を見る。
なるほど、通りの隅に木の台車を置いている客もいる。
大型の朝顔を運ぶには、確かにそれくらい必要なのかもしれない。
"こんなお祭りだったんだなあ"
小夜子が人にぶつからぬよう一歩先を歩きながら、一也はふいと先を見る。
通りの左右には、高い段に乗せられた朝顔もある。
そろそろ暗くなる頃合いでもあり、それらの朝顔が提灯に照らし出されていた。
「うわあ、朝顔の花が光の中に浮かび上がって綺麗ですねー」
小夜子が声をあげる。
「そうですね」と答えながら、一也もその風景をゆるりと眺めた。
まだ街灯が整備されていない時代である。
ひたりと満ちる宵闇の中、提灯の淡い光と無数の朝顔の花は可憐かつ妖艶な空気を醸し出していた。
「朝顔ってどうしても朝の花の印象あるから、ちょっと不思議だね」
「ですね。こんな風に夜の朝顔見るなんて、思いもしなかったですよ」
小夜子の声が弾む。
「連れてくるような形になったのですが、喜んでくれて良かった」
「一也さんのおかげですね、ありがとうございます。お礼といってはなんですけれど、りんご飴いかがですか?」
「喜んで頂戴します」
少し冗談めかして、一也は答える。
「じゃ、買ってきますね!」という言葉よりも早く、小夜子は屋台へと向かっていた。
薄紅の浴衣姿が、素早く人混みの中を縫う。
「小さいのによく食べるよなあ、小夜子さんって」
ぽつりと漏らした一也の呟きが、朝顔の花の中に消えていった。
すぐに戻ってきた小夜子から、りんご飴を一本受けとる。
「これ、一度食べたかったんですよね!」
「吉祥寺村には無かったんですね」
「うちの村にそんな洒落たものあるわけないじゃないですか?」
あっけらかんとした小夜子に苦笑しつつ、一也はりんご飴を一口舐めた。
作り方は明治も平成も変わらぬらしく、子供の頃に食べた味と同じであった。
少し郷愁的になるのも仕方ないことだろう。
「お祭りらしくていいですね――ん、あれは」
一也の目が別の屋台の方を向く。
次の瞬間には、そちらへと足が向いていた。
「あっ、一也さーん、どこ行くんですかー」
「射的とあっちゃ、銃士の俺が見逃せるわけないだろ?」
そう、一也が見つけたのは射的の屋台だったのだ。
サバイバルゲーム部に所属していた彼にとっては、見逃せない。
転移時に着ていたBDUの色から、黒の銃士という中々気恥ずかしいあだ名を頂戴している。
そのサバゲーマニアの本能が反応したという訳だ。
"一回はやりたいよな"
心がうずく。
射的を成功させれば景品がもらえるのだろう。
肝心の銃を観察してみる。
なるほど、木製の玩具の銃を使うようだ。
「ほんと好きなんですね」
「好きでなきゃやってないですから」
小夜子に答えながら、一也は小銭を店主に払う。
その引き換えに、初老の店主は銃と弾を一也に渡してくれた。
「弾は三発。あの紙を狙いな。当たれば紙に書いてある景品が貰えるって寸法だ」
「分かった。弾はこれですか」
「おうよ、鉛で表面だけ覆った紙弾だ。発条仕掛けの力で飛ぶ仕組みだ。お兄さん、ずいぶん自信ありげだね?」
すぐには答えず、一也は銃把を握った。
標的である紙までは、凡そ二間と半分か(一間=約1.8メートル、約4.5メートル)。
普段なら造作も無い距離だが、この粗末な銃ではどうかと自らに問う。
「自信が無きゃ、手前の標的を狙いなよ。もちろんその分、景品はしょぼくなるけどな」
「一也さん、大丈夫ですか?」
店主と小夜子の声が聞こえるが、それも右から左に聞き流す。
とぅん、と祭りの喧騒が遠くなる。
くん、と周囲の景色が消えていく。
標的はただ一つ。一番奥の紙だ。
景品が何かは知らない。
興味も無かったので、紙の表面に書かれた文字を読みすらしなかった。
「狙わせてもらうよ」
独白と共に引き金を引いた。
ごく軽い手応えが指にあり、弾は僅かに右に外れた。
誤差がある。
けれどそれはごく小さいことも分かった。
小夜子の「惜しいですね」という声も、聴覚の表面を滑って消えていく。
二発目、僅かに左。
けれどもこの射的は全部で三発だ。
一発目と二発目から得た情報を基に、三発目の射角を割り出す。
"これで当てる"
玩具の銃だけに重量が軽く、ちょっとしたことですぐにぶれる。
けれど、片手で真っ直ぐに構えた一也の姿勢は、その僅かなぶれさえも許さなかった。
必中の心構えで放たれた三発目の弾は、見事に紙切れを撃ち落とした。
「わ、流石は一也さんですね!」
「はあ、大したもんだね。ほんとに当てちまうとは」
「一応、専門職なんでね」
小夜子と店主の称賛を受け止めながら、一也は玩具の銃を店主に返した。
再び祭りの喧騒が自分を包んでいく。
その感覚にぼうっとしている内に、店主が屋台の奥から景品を取り出してきた。
「まさかあの的に当てる客がいるたあな。ほらよ、持っていきな。英吉利製のぬいぐるみっつー西洋の人形だ」
「お、こりゃ可愛いな。小夜子さん、いる?」
「えっ、いただけるんですか! 欲しいですっ!」
景品は、ちょうど手のひらに乗る寸法の熊のぬいぐるみだった。
小夜子が目をきらきらさせているので、そのまま渡してやる。
もふもふとした感触を楽しみながら、小夜子は満面の笑顔であった。
「ありがとうございます、一也さん! 大切にしますね!」
「俺が持っていても仕方ないからね」
こんなもので喜んでくれるなら、安いものだと思う。
喜ぶ小夜子を連れて、一也は再び喧騒の中に足を踏み入れた。
「忘れる前に買わないとな」と朝顔の鉢へと目をやった。
提灯の光の中で、朝顔の花弁がふわりと誘うように咲き乱れていた。
† † †
あー、楽しかったですねえ。
朝顔祭りも堪能出来ましたし、一也さんからぷれぜんとも戴いてしまいましたし!
プレゼントっていっても、屋台の景品だけどね。
そんな喜ぶほどのものかな。
いいんですよぉー、この熊さん可愛いじゃないですか。それに。
それに?
いえ、何でもないですっ。
ところで一也さん、どうして二鉢も朝顔買ったんですか?
ヘレナさんに頼まれたなら、一つで十分ですよね?
うん、おひささんにね、一つあげようと思って。
この浴衣貸してもらったし。
あ、なるほど!
さすが一也さんです、優しいですね!
はは、そうでもないけど。
ちょっとお年寄りには親切にすべきかなと思ってね。
いい心がけですねっ。
私もたまには村に戻って、お祖父ちゃんに会ってこようかなー。
それもいいんじゃないかな、うん。
あ、小夜子さん。焼き鳥買っていく?
もう十分食べましたよっ!?
私、そんなに食いしん坊じゃないですーっ!
† † †
「おはようございます、三嶋です」
「はいはい、おや、浴衣をお貸ししたお兄さんじゃね。朝顔祭りは楽しかったかの?」
翌朝、一也は早朝におひささんの部屋を訪ねた。
今日も暑くなりそうだが、おひささんは元気そうである。
何となくホッとしながら、一也は足元に置いておいた朝顔の鉢を持ち上げた。
「これ、昨日のお祭りで買ってきました。せっかくなので、浴衣のお礼にと思いまして。浴衣は後日洗濯してからお返しします」
「おやおや、ご丁寧に申し訳ないねえ。ほうほう、こりゃ見事な朝顔じゃねえ。それじゃ、ありがたくいただきますよ」
おひささんは嬉しそうに笑う。
一也も少し表情を緩めた。
「浴衣久しぶりに着たんですけど、良かったです。今度自分でも買おうと思います」
「一着くらいは持ってた方がええですねえ。もし見立てに迷ったら、こんな婆で良かったら何でも聞いてくださいな」
「分かりました。あの、今回は色々とありがとうございました」
「ええんですよ、そんなにかしこまらなくても。また何かあったら、寄ってくださいな」
「はい、助かります。それじゃ、これから出勤なんで」
背を向け、一也はおひささんと別れた。
空はすでに青く、朝の清涼さは日光に蹴散らされそうである。
このままでは、今日も日中の日ざしが思いやられそうだ。
うんざりしそうであったが、軽く頬をはたいて気合いを入れた。
"平成に戻ったら、一回くらい祖母ちゃんと朝顔祭りに行ってみるか"
その為にも今日をしっかりと生きていかねばならない。
噛み締めたその覚悟が、ふわりと明治二十年の夏の朝に溶けていった。