白猫の前足
紅葉と月をレンズにおさめたくて、僕は車のキーを手に取った。
ふらりと出掛けることは僕にはよくあることだ。今日だって仕事が入っていたのだけれど、電話一つでさっくりお休み。受話器の向こうでは怒りの声が響いていたけれど、電話の電源を切っちゃえばおしまい。いいじゃん、僕が経営している会社なんだし。
どのくらいひとりで運転していたのだろうか。日光のひとつ手前の山道で、急に何かがわきから飛び出してきた。
僕は必然的にブレーキを踏む。幸いにも後続車はいないので追突の危険はない。車を路肩に停めて、ぶつかったらしいものに走り寄る。
アスファルトの上に転がっていたのは、真っ白な毛を持つ生き物らしかった。右前脚に怪我を負ったのか、うっすらと赤く染まっている。
「すまない。手当てをしてやる」
僕は白い生き物に声をかけ、驚かせないように距離を詰める。
だが、声をかけたのが悪かったのだろう。三角の小さな耳をピクッと動かすと、彼女はすっと立ち上がった。
白猫だ。長い尾を持ち上げて、くるりと身体の向きを変えた。
「君、怪我をしている。さぁ、怖くないからこっちへおいで」
僕は手を伸ばす。しかし彼女はつんとした態度で顔を背けると、出てきた方とは逆の場所へと駆けて姿を消した。
偶然とはいえ申し訳ないことをしてしまったなと思いつつ、僕は運転席に戻る。
目的の写真は無事に撮ることができた。真っ白な半月と、赤や黄で染まる山々とのコラボレーション。満足できる仕上がりだ。
引き伸ばした写真を、わざわざ買ってきた額に入れて悦に入っていると、呆れていた秘書が写真に近付いてくる。
「お。君にもこの写真の良さがわかるかい?」
「いえ、そうではなくて」
言って、彼女は指先で一点を示した。
「山の上の猫みたいな雲、面白いなって」
言われて覗けば、確かに猫のように見える。雲が形作っているから、その姿は白猫だ。
「へぇ、気付かなかったなぁ」
僕は冷や汗が流れた。何故なら、その雲の猫の右前脚部分だけ、赤みを帯びて見えたからだ。
「――おっと、急用を思い出した。僕はこれで早退するよ」
秘書が引き止める声を無視して、僕はあの現場に向かうことにした。
僕は悪くない。
それだけを心の中で繰り返す。
僕は彼女を助けようとしたんだ。なのに、彼女が拒んだから――。
自分の行いに間違いはなかったのだと言い聞かせる。
非なんてない。
*****
「――というところで終わっている日記なんですが、どうみます?」
「いやぁ、嘘つきの日記でしょう。ホラーにするには中途半端だ」
「しかし、この社長さん、実際に行方不明だそうですよ」
「あら怖い」
「でも、本当に怖いのは、ここですよ」
言って、日記帳に記された日付を指し示す。
「彼の秘書、彼が写真を撮りに行った日に殺害されているんで、この写真を引き伸ばしたときにはもういないはずなんですよ」
《了》