瑠奈と海
瑠奈と海
第一章
瑠奈の心の傷は、瑠奈が所属していた楽団の山岸先輩が原因だった。
彼はその楽団でピアノを弾いていた。
そして瑠奈はその楽団でチェロを弾いていた。
瑠奈はいつしかその先輩に憧れに似た恋心を抱いていた。
ある日、その先輩がフランスに留学するという話をいきなり聞かされて、
瑠奈は失意に陥った。
出発間際になって、瑠奈は突然その先輩に呼び出されると、
一年後、日本に戻って来たら、自分の彼女になって欲しいと告白された。
しかし、一年後、彼は戻って来なかった。彼は留学先のフランスで強盗に遭い、
瑠奈がお守りにと手渡したペンダントを取られまいとして、刺されて他界していた。
瑠奈はそのことを暫くしてから、楽団仲間から聞かされて、その喪失体験から、
人を好きなることに極度に臆病になってしまった。
ある日、瑠奈は音楽室の前を通った時に、そこから先輩が弾いている懐かしいピアノの音を耳にして、その教室に飛び込んだ。
しかし、それを奏でていたのは、あの先輩ではなかった。それは海という男子だった。彼は少し前に別の高校から転校してきたのだった。
海は、先輩がよく瑠奈に弾いてくれたショパンの「バラード1番」を弾いていた。そのタッチがどことなく先輩のそれと似ている感じがしたので、瑠奈はその場でその音に聴き入ってしまった。瑠奈は海に先輩の姿を垣間見て、海に近づき、そして話し掛けていた。
海はよくその教室でピアノを一人で弾いていた。瑠奈も海のピアノを聴きたくて、その教室を訪れた。
第二章
ある日、いきなり雨が降り出して、傘を持ち合わせていなかった二人は、しばらくピアノのある音楽室で時間をつぶすことになった。雨はどんどん激しくなり、雷が鳴ったと思った瞬間、停電になった。すると瑠奈の目の前に海が立っていて、瑠奈は海の熱い視線を感じた。海は瑠奈を引き寄せ、抱きしめようとしたが、瑠奈は体がこわばり、彼を拒絶した。
「僕のこと嫌い?」
瑠奈は海のことは嫌いではなかった。でも、その気持ちとは反対に、体は硬直したままだった。
「じゃあ、僕のことは、なんとも思っていないんだね」
瑠奈はそれも違うと思った。でも自分ではどうしようもなかった。どうしても自分が自由にならなかった。すると海は強引に瑠奈を抱きしめて、そのままキスをしようとした。
「いや」
瑠奈の口から、そう言葉がもれた。体も震えていた。それで海はそれ以上瑠奈を求めることはせず、瑠奈をやさしく離した。時はそのまましばらく流れた。
「ごめんなさい。私、怖くて」
「怖い? 僕が?」
「そうじゃなくて」
海は自分が怖いと言われたことにショックを受けた。瑠奈は自分の態度、言葉が海を傷つけたことはわかったが、それでも本当のことを言うことはできなかった。
第三章
しかし、それからも、毎日海はその教室でピアノを弾いていた。
そして瑠奈も海のピアノを聴きにそこにやって来た。
「俺、瑠奈が好きだよ」
海はその日から、必ずその台詞を口にするようになった。
「瑠奈が大好きなんだ」
瑠奈は海のその言葉を聞くと、涙が自然にあふれてきた。
海はその涙を見て、瑠奈も自分のことを好きなのだろうと思った。
しかし、そうだとすると、あの停電のあった日の態度はどうしてだろうと思った。
ある日、瑠奈は、どうして毎日ここでピアノを弾いているのかを海に尋ねた。
そういえばそのことを二人が話したことは今まで一度もなかった。
「留学するんだ。パリに」
海のその答えは、瑠奈の心の傷に強く触れた。
突然黙りこくってしまった瑠奈に海は戸惑った。
しかし、海は瑠奈にその理由を聞くことが出来なかった。
「ごめん。ちょっと立っていられない」
瑠奈は急に動悸がして、激しい頭痛におそわれた。
海は瑠奈を自分の横に座らせると、左手で瑠奈の肩を支えて、右手でショパンの「ノクターン作品9の2」のメロディーだけを奏でた。
「辛かったら寄りかかっていいのに」
海は瑠奈にそう言ったが、瑠奈は首を横に振った。
「これは私の問題だから、私が解決しなければいけない問題だから」
瑠奈はそう言って、頑なに海に支えてもらうことを拒否した。
それでも、教室での二人の時間は毎日同じように続いた。
「瑠奈をいつまでも待ってる」
海の瑠奈への言葉はそう変わっていた。
「でも、それってずるい」
「ずるい? 誰が?」
「私がずるい」
「瑠奈はずるくなんかないよ。僕が勝手に瑠奈を待っているだけだから」
「それって、やっぱりずるいよ」
第四章
海が留学の準備で瑠奈の前に姿を現さない日が続いた。それで瑠奈は大きく体調を崩し、海を空港に見送りに行くことが出来なかった。海はそれが瑠奈の答えだと思った。
(あ、瑠奈からメールだ)
いよいよ飛行機に乗り込む直前だった。
瑠奈から来たメールには、体調がすこぶる悪く、どうしても見送りにいけなかったことが書いてあった。その時瑠奈が大きく体調を崩し入院していたことを知った。
海が渡仏して2ヶ月後、瑠奈はやっと退院することが出来た。しかし、心には大きな穴が開いていた。海のピアノを聴くことが出来ない大学はあまりにも虚しかった。心が折れてしまい、退学も考えたが、回りの説得で休学をすることにした。
それから約10カ月、体力作りと、自分のトラウマをなんとか克服しようと努力をした結果、なんとか海には会いたいという気持ちが芽生えてきた。
やがて海が留学をして一年が経とうとしていた。しかし、1年が過ぎても瑠奈の前に海は姿をあらわすことはなかった。瑠奈は山岸先輩の悪夢を思い出すことになった。
瑠奈は再び自分の心の中へ閉じこもってしまった。
それから2年が経ち、瑠奈は大学を休学していたものの、契約社員として、近くの楽器店で働いていた。そして、そろそろ大学への復学も考えていたところ、折しも以前から目をかけてくれていた教授から、ヨーロッパでの学会へ同行してみないかと声を掛けられた。瑠奈は二つ返事でそれを快諾した。
瑠奈はフランスへ着くと、忙しい合間を縫って海を捜した。
事前に海の情報を収集していたので、リヨンに彼が住んでいることはわかっていた。
教授に少し自由な時間をもらって、瑠奈は海に会いに行くことにした。
しかし、やっとのことで見つけた海は、以前の彼とは全くの別人になっていた。
あの頃のように、やさしい目で瑠奈を見ることはなかった。瑠奈は会いにこなければ良かったと後悔した。
二人はカフェに入った。
「瑠奈は何にする?」
「このお店のお勧めは?」
「じゃあ紅茶にしなよ」
「え? いつから紅茶になったの?」
「今日は特別さ」
しかし、運ばれて来た紅茶には海は全く手をつけなかった。
やっぱり海はコーヒー派なんだと思った。
ふと、海が時計を気にしたので、私はそろそろだと思った。
「じゃあ帰ろうかな」
「うん」
立ちあがる直前、海は今まで全く手をつけなかったカップに手を伸ばすと、
それを一気に飲み干した。
「こういう味なんだね」
「え? どんな味?」
「冷めた紅茶」
瑠奈は振り返りもしない海の背中を暫く見送ると、大きくため息をついてパリに戻った。
第五章
パリに戻ると瑠奈は学会の準備で大忙しになった。海のことを忘れることが出来ると思った。ところが学会当日、セレモニーとして、ピアノ演奏が行われることになり、そこへ海が現れたので瑠奈はびっくりした。
海は瑠奈の好きだったショパンの「バラード1番」を弾きだした。それを聴いて、瑠奈は涙を流した。と同時に、このような美しい音を奏でることのできる海は、以前の海と何も変わっていないのだと知った。きっと何かの理由によって今は心が閉ざされているだけなのだと思った。
瑠奈は教授とは一緒に帰国せず、海のいるリヨンにとどまり、彼のアパートを訪ねることにした。管理人に日本から来た婚約者ですと言うと、彼がいない部屋にすんなり入れてくれた。
しかし、そこで瑠奈が目にしたものは、海とあの山岸先輩が一緒に写っていた写真だった。かつて二人は同じ高校の先輩後輩で、山岸先輩がフランスに留学した時に、海はその先輩を旅行がてら訪ねたことがあった。山岸先輩は、海を観光案内している時に、突然強盗に襲われ、海をかばい、刺されたのだった。海はその先輩の意志を継ぐべく、先輩と同じリヨンの音楽学校に留学をしたのだった。
「前にここに住んでた人は知り合いなんです」
海はかつて山岸先輩が借りていたアパートに住んでいた。
そのアパートに入居する時に、海はその管理人に、そうあいさつをした。
「いい人でしたよね」
管理人は目を潤ませてそう答えた。
ある時、管理人が山岸先輩の忘れ物だと言って、何通かの手紙を海に渡した。
「これだけどうしても捨てられなくて私が預かっていたんだけど、お知り合いなら、あなたから彼のご家族に渡して頂けるかしら」
海は、その手紙の差出人の名前を見た。
すると、そこに書かれていたのは、瑠奈の名前だった。
第六章
(山岸先輩と瑠奈が知り合い?)
海は思い悩んだ末、その中身を開けてしまった。そして山岸先輩と瑠奈との関係を知ってしまったのだった。
瑠奈は二人が写った写真の横のレターケースに目が止まった。そしてそこに見覚えがある封筒を見つけた。
(あれって・・・)
それは、自分が先輩に送った手紙だった。
(どうしてあれがここに?)
瑠奈は思わずその手紙を手に取った。
そこに海が帰って来た。
瑠奈の来訪におどろいた海は、続けて瑠奈が手にした手紙を見た。
「どうして瑠奈、君がここに?!」
「海、あなたがどうしてこの手紙を持ってるの?」
「先輩の死は俺が原因なんだ」
「え? どういうこと?」
「君を不幸のどん底に蹴落としたのは俺だったんだよ!」
「海、何を言ってるの?」
「知りたくなかった」
「何のこと?」
「知ってしまったら恐くなった。君に会うのが怖くなった」
「山岸先輩と海は知り合いだったの?」
「俺の目の前で先輩が刺されて死んだんだ」
「え!」
その時瑠奈は、海が音楽室でピアノを弾いていた光景が目に映った。
そしてあの音は、まるでレクイエムのようだったことに気がついた。
「君を傷つけたのは俺さ」
「違う。それは私の問題だから」
「だから二度と君の前に姿を出せなかった。日本にも戻れなかった」
「私、ずっと海に会いたかったよ」
「会わせる顔なんてなかったよ」
「私、海がいればそれでいいから。他に何もいらないから」
「嘘、君から大事な人を奪ったのは俺だぜ」
「海、大事なのはあなたなの」
その時、一瞬海が笑ったように見えた。
「私…海がどうしようもなく好きなの」
「やっと言ってくれたね」
海の顔が優しい顔に変わった。そして瑠奈を愛しむ目で見つめた。瑠奈はやっぱり海は変わってなかったと思った。
「ありがとう、瑠奈」
瑠奈は海が自分に歩み寄って、優しくキスをしてくれるのを待った。すると海はいきなり瑠奈の横を駆け抜け、そのまま窓まで走り寄り、そこから身を投げてしまった。
それはあっと言う間だった。
呆然とする瑠奈がおそるおそる窓から下を見ると、石畳の上に折れ曲がった海の姿が小さく見えた。