雨よ、雨よ
指摘を頂きました箇所、2011.11.1修正しました。
ありがとうございます。
そこに意味はない
かつて可憐な花を咲かせようとも。
蕾に対する慈しみも、引き抜かれるであろう花に対する憐憫もあろうはずがなく。
そして言うのだ。
花は等しく咲いて散る、と。
その時、胸がちくりと痛んだ。
己の胸に爪を立てたわけではない。柔らかく濃い茶をした土を掘り起こそうとしただけだ。
ここに触れてはいけない、茶トラの猫はそう思った。ゆっくりと前足をおろし、地面に鼻を近づけてにおいをかいだ。土の中から柔らかいにおいがした。その理由を、猫は漠然とながら学んでいた。
立ち去らねばならない、誰に言われたわけではないのに猫は後ずさり、やがて踵を返した。
背後では無慈悲な死神が、泣き崩れる人間の母親を表情なく見下ろしているのだ。その母親は息子の魂を死神から救うためにこの土地にやってきたのだという。女はここに来るまでに様々な代償を支払い、今は両の目玉がなかった。目が見えないにもかかわらず、女は息子の命の花を探し出し、引き抜かないよう懇願したが、けれども死神はその命の花を引き抜いた。
猫は一部始終を見ていた。己は人間ではなかったけれども、同じ女として胸が痛んだ。泣けぬ目から涙がこぼれたかもしれない。
涙、ではなかった。
猫が空を見上げると、灰色の空から雨粒がぽたりぽたりと落ちてきているところだった。
このところ連日寒々とした小雨が降り続いていた。春の長雨は花を催すといわれている。
事実、死神の花畑には、明るい空へと自身を咲かせるために、希望を抱いている蕾が無数にある。
雨が上がったなら、地平線の果てまで続く花畑は色とりどりの花を一斉に咲かせるだろう。けれど彼女の息子の命の花、サフランははかなくうなだれていた。
猫はもう一度背後を振り返った。母親は顔を覆って未だ慟哭している。かつて目玉があった黒い空洞から透明な涙があふれていた。彼女を気の毒に思いはしたが、自分にはどうすることもできなかった。
死神はやはりどこまでも無表情だったからだ。
1
「どこにいくつもりだ」
顔を上げると、目やにで片目がつぶれた白猫が立ちはだかっていた。白猫は茶トラの猫を一周し、嘗め回すように見つめた。
冷たい風が吹いて木々がざわつく。
薄暗い森の主なのか、茶トラの行く手をふさぐ雄猫は挑発的な笑みを浮かべた。
彼は片目が潰れてはいたが、堂々たる体躯であった。反対に自分は、ここ数日水を満足に飲むことができず、自身の手入れも滞りがちであったため、土にまみれて、やせ細った貧相な体つきである。乳も出なくなった。いや、もう与える相手はいないのだが。
茶トラは雄猫の意図を察し、ふんと鼻を鳴らした。ひとりぽっちであり、そうでありたいと心底願った。
だが白猫は構わず後をついてきた。茶トラの猫が応じないと知ると、強引にのしかかってくる。茶トラは身体を揺すって振り払おうとしたが、雄猫は爪をたてて必死にしがみついてきた。にゃあ、茶トラは泣きたくなった。
ついに追いかけっこが始まり、筋力の落ちた茶トラはひょろひょろと駆け出した。けれど野の生活を送っていた白猫は、まるで弄ぶように茶トラに追いついたり離れたりを繰り返し面白がり追い詰めていった。
「もう、許してくださいな」
「いいや、許しはせん」
体力の尽きた茶トラは地面にへたり込んで、弱々しく懇願した。
雄猫から与えられた痛みを堪えながら、息も切れ切れ茶トラの猫は言った。
「私は行かなくてはいけないのです」
「どこへ行くつもりだったのだ」
さして興味もないだろうに、事が終わるとせせら笑いながら白猫が問いかけた。
「神のところへ。我が子を奪ったものに復讐をするのです」
その時ばかりは、茶トラの猫もまっすぐに白猫を睨みつけた。さながら目の前の雄猫が子供の敵であるように。そうであればどんなに簡単だっただろうか。爪を出し、何のためらいもなくとびかかり喉元を食いちぎってやる。
「そうかい。では、礼の代わりに教えてやろう」
白猫は満足しており、そしてなにより神への道を知っていた。
代償として教えてもらった道を進み、茶トラの猫は神の地へとたどり着いた。
猫の身体はすでにボロボロであった。空腹に倒れそうになるものの、目的を遂げるまでは死んでも死にきれないと思った。
「綺麗」
猫は思わずそう洩らした。
広がる大地に隙間なく敷き詰められた花々たちは、どうしてか同じ種のものが集まって植えられてはいなかった。コスモスの隣はヒマワリであり、その隣はスミレとタンポポというように、背丈も色もばらばらである。けれど斑な色は全体を通して見れば斑ではなく、一枚の絨毯になっていた。
「おや、めずらしいね。今日はよくお客が来る」
くすんだ赤色のワンピースを着た老婆が、腰を屈めることなく声をかけてきた。猫は声のした方を見上げてこたえるように一声鳴いた。
「ずいぶん汚れているね。いったいなにをしに来たのだろうね」
抜けた前歯から息を洩らしながら老婆が笑った。猫は毛が逆立つのを感じた。
「神様にお願いを。我が子を返して、と。我が子を奪った黒い鳥達の命と引き換えに、我が子を生き返らせてと」
自分は神の地へたどり着くことができた。これは選ばれたからこそなしえたのだ。つまり、烏の死を願うのは正義だ。
「神――ね」
老婆は喉をひきつらせた。猫は底意地の悪い老婆の視線を受けて身構える。
「そうとも、ここは神の家だ」
猫はほっと胸を撫で下ろしたものだ。
「では、神様に会わせて下さい」
猫は丁寧にお辞儀をした。けれど老婆は鼻で笑った。猫は喉の奥まで出かかった言葉をぐっと堪える。
「お願いいたします」
「なに、あの方は丁度来客中だよ」
老婆は顎をしゃくった。見れば背が高く、白髪でぎょろりとした目の老人が花畑の真ん中に立っていた。彼は視線を落とし、何事か呟いている。よくよく見れば、老人の視線の先には青いサフラン――今にも枯れてしまいそうな――を庇うような姿勢で、老人を見上げている中年の女がいた。
猫は首を傾げた。老婆が指し示した老人は、骨と皮の貧相な老人で、猫が想像し探していた神とはかけ離れていた。神は慈愛溢れる方だったのではないか。
「お前が捜し求めている神様だよ。あの方は今、息子の命を救うために、魔女に子守唄を、野バラを抱きしめて温め、湖に真珠のような両の目玉を差し出してここにたどり着いた女と対面している。見えるかい、今にも枯れてしまいそうな青いサフランを。ここに咲く花はすべて命の花でね、あの息子の命の花がサフランなんだよ。あの女は神様にそのサフランを引き抜かせまいと守っている。神様もね、母親の情に驚きはしているさ。ねぇ、お前。神様はそれでも命の花を引き抜くと思うかい?」
猫は老婆を見上げた。
「神様なのでしょう? 慈悲深いお方ですわ、何の罪もない無垢な子供の命の花をむやみに引き抜くはずがありませんもの」
そう、神であれば女の祈りを聞き届けてくれるはずだ。故に自分は長い道のりを歩いてきたのではなかったか。我が子を死に至らしめた憎き鳥に復讐するために。試練は受けた。
猫は鳥が無残に雷に打たれて死ぬのを想像して笑った。
老婆は口角を上げたに過ぎない。
「なぜ命あるものは死ぬのか考えたことはあるかい」
老人をまっすぐ見つめる猫に、老婆がささやくように背後から言った。猫はゆっくりと振り返り、首を傾げる。
神がいる場所で死について語ることは相応しくないように思えた。だのに猫は老婆から目を離せなかった。
「考えるものではないわな。まったくその通りだ」
老婆の視線は恐ろしく冷ややかで、猫は視線を逸らした。心臓を鷲づかみされたように、きんきんと胸が痛み窮屈さに身体が強張る。
視線の先には老人の姿をした神と、中年の女がいた。
神は一言を女に投げかけた。女はわっと声をあげ、地面に突っ伏してサフランの花を抱きかかえる。
「神を疑ってはならないよ」
老婆の声が冷たく響いた。
猫は彼らから目を離せなかった。
神が腰を曲げ、手をあげると女がふわりと浮き上がって離れた場所に落ちた。
女は呆気に取られて神はどこかと探した。
神は――、
「あいにく、あの方はこうも呼ばれている」
老婆はとがった声で猫の耳元でささやく。けれども猫は老婆のしゃがれた声が遠くにあるものだと思っていた。
猫が見たものは、老人がぎょろりとした目で、なんのためらいもなく青いサフランを根元から掴み、一気に引き抜いている光景だった。
「あの母親の方は最初から気づいていたみたいだがね」
根についた土はほんの少しだった。引き抜かれた途端、サフランの花は干からびて茶色になった。
女が空洞の眼を開き声にならない声を上げる。
「――死神と」
老婆の声はまっすぐ猫の心臓に突き刺さった。そして猫は、女の悲鳴を聞こうが、花を引き抜こうが、まったく表情を変えない神――死神とも言われる老人の顔を、目を逸らすことなく見続けていた。
2
空を見上げるとどんよりとした灰色が広がっている。どれくらい空を見上げていただろう。今にも泣き出しそうであるのに、堪えているのか冷たい雨粒は落ちてこなかった。
猫はじっと女を見つめていた。
受けた衝撃はひどく猫の心をえぐった。
瞬きをするのさえ忘れた。
足は自然とそこだけ茶色がむき出しになった場所に向かう。
猫は死神と女の中間に座り込んだ。
そして猫は死神を見上げた。
「なんだ、お前は」
「なぜ、引き抜いたのです」
「なんだとっ」
途端死神は眉を吊り上げて叫んだ。
猫は毛を逆立て、体勢を低くしてうなってみせた。
これは救う神ではない。奪う死神だ。
「あなたが私の息子達の命を奪ったのですね、たやすく。まだ花は地面に根をしっかりと張っていなかったかもしれませんのに」
「どういう意味だ」
「花を咲かせ、種を落さず、どうして次の花が咲きましょう」
事実、女の息子の花が植わっていた場所は、土があるだけである。種がこぼれる前に球根が育つ前に引き抜かれたのだ。
睨み付けていなければ今にも飛び掛ってしまいそうであった。
「命の花であるならば、尚のこと。どうかお慈悲を、息子の命を返していただきたいのです」
「息子とな? ははっ、わしは毎日たくさんの花を引き抜いておる。どれが息子の命の花だったか覚えておらぬよ」
猫はにゃあと鳴いた。
神が命の花を引き抜き、あまつさえぞんざいな扱いをしていようと、誰が想像したであろうか。命は、大切に慈しまれなければならないはずだ。
「では、私の命と引き換えに、息子の命を助けてくださいまし」
死神は奇妙なものを見るような目つきで、猫を見下ろした。
「枯れた花をどうやって生き返らせるのだ。またどうして花を交換できる?」
「それは」
「わしは当然のことをしているに過ぎない」
背後にいる女が声を上げて号泣した。猫は首だけ振り返る。慰めの言葉すら思いつかない。
だが猫はもう一度死神に縋った。
「ここに、そのサフランを」
前脚で指し示したのは、死神が引き抜いたばかりのサフランであった。
「植えて水をあげれば根を張ります。今一度花を咲かせることだって可能でございましょう」
女が声を上げた。本来在るべき目の場所は、黒くぽっかりと穴が空いている。彼女はそうしてまで息子を追いかけてきたというのに。
死神は猫を凝視した。そして鼻をならす。
「匂いをかいでみろ」
猫は最初なにを言われたのかわからずきょとんとしたが、死神の視線の先を見て心臓が高鳴った。猫の懇願を聞き入れてくれたのかと思ったのだ。だが、それにしては匂いをかいでみろとはいったいどういうことだろう。
猫は恐る恐る花畑に脚を踏み入れ、命の花を踏まないように慎重に歩いた。
種類や丈のまったく異なった花々が、まるで猫の身体に吸い付くように纏わりついた。
花が引き抜かれた跡は、崩れかけた小さな穴が空いている。花の大きさに比べ、根はそれほど張らなかったようだ。もっと深く掘ってみよう、猫はサフランを埋めるため穴を大きくしようと思いついた。すれば今度はもっと根が広がっていくだろう。
だが、胸に痛みを覚えたのは穴に前脚をかけたときだった。
脚に虫でも当たったのだろう、猫は胸の痛みの原因を探ろうと鼻を近づけた。
「!」
懐かしいにおいがした。
猫は一歩後ずさり、その匂いはなんだったか思い出そうとした。乳のにおいだと気付くまで、そう時間はかからなかった。
3
雨が小降りになってきて、やがて止んだ。
「なにを見ている」
今日も赤いワンピースを着た老婆が、茶トラの猫の背に問いかける。猫は振り向かずに、相変わらずしっぽを地面にぱたぱたと打ち付けた。
猫は両の目をなくした女が花畑を立ち去った後も、幾日もその場に座り続けていた。視線の先には、サフランを抜いたくぼみがある。猫は微動だせず、そこを睨み続けていた。
やさしく温かいものに包まれているときに、必ず嗅いだ匂いだ。なぜ命が消えた場所からそんなやさしいにおいがするのだ。
老婆は喉奥から奇妙なせせら笑いで、猫に背を向けた。
彼女は背後で花の手入れをしている。そのまた向こうでは死神が、老婆と同じように花畑の中を歩き、水をやり、土をかぶせ、花柄をつんでいる。時に無造作に花に手を伸ばし、引き抜く。その時猫には、何者かの悲鳴や苦悶の声が聞こえた気がした。気のせいではないだろう。あれは命の花だ。死神が引き抜くたびに、誰かの命が消えていくのだ。
そうして猫の子どもも死んだに違いない。
「黙って見ているだけでは答えは見つからんだろうに。故にお前はここまで来たのではないかね」
言われて猫ははっとして顔を上げた。
空は猫の胸中を慰めるように澄み切った青色をしている。
「お手伝いいたしますわ」
猫は突然すくっと立ち上がった。老婆の後ろを歩き、真似る。
花はよく手入れが行き届いていた。どの花も花柄は除去されており、茶色く変色しているものはなく、害虫被害も見当たらない。土はふっくらと空気を含み、猫の体重でさえ、脚が沈む。
猫は老婆の指示通り、まずは口で花柄を摘んだ。むやみやたらに引っ張るせいで、健康な花も引きちぎりかけたが、とっさに口を離したのは、それが命の花だと知っているからだ。他人の命を預かっている、ふと思い出すとそれ以上、手伝う勇気がわいてこない。引け腰になり、その場にへなへなと座り込んでしまう始末である。
「花はただの花でしかないのだよ」
老婆が素っ気なく吐き捨てた。役立たず、そうも聞こえた。
死神は日に何度も花畑に現れた。花を一つ一つ丁寧に見ていき、枯れそうな花があれば容赦なく次々と引き抜いていく。
猫は死神の仕事をくまなく観察した。死神は休む暇なく動き回る。彼は常に無表情であったが、一瞬だけ緩むときがあった。それは濃い茶の土にひょっこりと現れた新芽をみかけたときだった。だがそこの言葉はない。それは芽が出た時の、花が咲いた時の単純な喜びであり、背景にある生命の誕生に伴う感動ではない。
死神は猫の働きぶりを冷ややかに見つめた。だが作業が徐々に慣れ、それが命の花であることを忘れかけた頃、それは突如ぶり返した。
咲き終わって半ば溶けかけた花を、猫は口にくわえてもぎ取ろうとしていた時だ。不意にしなびた灰色の大きな手が目の前を横切り、冷たい風が猫の身体を嬲った。とっさに身を翻す。
「あ」
猫はほんのわずかに声を上げた。
まだ蕾がたくさんついた、咲き切っていない若いスミレの株を、死神はたやすく引き抜いたのだ。
ぎぃいやああああああああっ。
思わず猫は、聞こえた悲鳴に耳を伏せ後退した。
それはとてつもなく大きな悲鳴で、かつ絞り出すようなうめきであり、聞いただけで痛みを感じた。茶トラの猫は毛が逆立ち、瞳孔を開いた。
死神は根についた土を乱暴に振り払う。
猫は声も出せず、動くこともできず、唯一心臓だけが呼吸を妨げるほど強く大きく動いた。
とっさに猫は身体を丸め、その場にうずくまった。出てきそうなほどの勢いで心臓が脈打つ。浅く速く呼吸し、猫はかろうじて生きていた。
猫の目に映っていたのは、もはや抜かれたスミレの株ではない。目の前は闇であった。
黒が一面に広がっており、その中で日常の光景を見出すことはとても困難なように思えた。闇の中で、ぐちゅぐちゅと粘着質な液体をかき混ぜる音が響いている。さらに呼吸が浅くなる。
「坊や」
まだ、目も開き切っていない弱弱しく愛らしい存在。
乳の匂いをまとい、小さな手で大地に立ち、これからの未来を歩いていく者。
猫は固い大地を蹴った。牙を剥くことは忘れているのに、必死で走った。
無意識に唾を飲み込み、ある覚悟をした。
残酷な黒い赤が飛び散っていることの、覚悟だ。
「ぼうやっ」
たどり着いたとき、三匹の子猫たちは無残な塊と化していた。頭上では黒く大きな鳥が、肉塊を足とくちばしをつかって器用についばんでいた。
猫は呆然と鳥を見上げた。瞬間、目が合う。
その目は、ぎょろりと大きく飛び出している。いくら威嚇をしても動じない鳥は、猫に敗北と屈辱を植えつけた。
猫は地面に視線を落とした。
点々と続く赤の雫の先に、ころりと転がっている小さな丸があった。目が突付きまわされ、潰され、舌を出したままの、汚れた、それは、自分の。
「―――っ」
虚ろな黒い目がこちらを見つめている。
母猫は動けなかった。
今すぐにでも駆け寄りたい衝動があるのに、我が子の頭上を飛び回る黒い鳥は、いやらしくこちらを見下す。その目には侮蔑の色が滲んでいた。母猫の勇気のなさを蔑んでいた。
脚がすくんだ。震えて一歩が出ない。
尚も鳥は子猫をついばんでいる。
赤い液体が目の前を飛び回る。
猫は一切をあきらめた。どうして動けよう。
4
雨の匂いがした。
花は待っている。全身を潤し、自分を艶やかに演出するための小道具を。
これから成長していくための糧を。
夢を――見た。
動悸が治まらない。猫は低くうめく。
「どうして息子たちは召されてしまったのでしょう」
目の前にはぽっかりと穴が空いている。死神が花を抜き去った直後の光景だった。
「いいえ、いいえ」
死神は、ただ花を引き抜いたに過ぎない。
猫は踵を返し、花畑の中を全速力で走り始めた。あの憎き黒い鳥を脳裏によみがえらせれば、命の花がたやすく見つかるような気がした。
地の果てまで続きそうな花の中を、乱暴に猫は駆け抜けた。土が身体に降りかかり、軟らかな茎が何本か折れたかもしれない。花びらも多数散った。だが猫はそんなことに構っていられなかった。たかだか、そんなこと。そう、そんな簡単なことだから自分でもできる。ここではあの黒い鳥より、自分の方が強いのだ。
猫はうっすらと笑っていた。
息が切れるころ、ようやく猫は目的の花のひとつを探し当てた。広大な花畑に、何日もかかるかと思ったが、意外に早く見つけたことに猫は声高く鳴いた。
その花は黒い鳥とは似つかわしくなく、小さく可憐なカスミソウであった。花芽がいくつもつき、雨が降ればいよいよ満開になるだろう。猫はその小さな株に向かって低くうなった。
「よくもっ」
猫は間を置かず飛び掛った。茎の根元に牙を食い込ませ、首を振って力いっぱい引き抜こうとした。けれど、根はしっかりと大地をとらえているのか、また茎には傷一つつかずその場に居座っている。猫はうなって何度もその細い茎に噛み付いた。
「なぜっ」
身体は土にまみれていた。上下左右にいくら引っ張っても抜けないのだ。猫は鼻の奥がつんとしてきた。
すると不意に目の前に黒い影がさした。猫は動きを止める。
「神様」
荒い呼吸の中、猫の表情は輝いた。ようやくここで、死神、否、神は猫の願いを聞き届けてくれる。
長く骨ばった手がぬっと差し出される。猫は邪魔にならないように、一歩脇に避けた。
瞬間。
強い衝撃が身体を突き抜けた。目の前が白くなる。
猫は身を翻す暇なく、身体をしたたかに地面に打ち付けた。猫はおそるおそる顔を上げると、口をへの字にまげ、眼光鋭い死神が拳を固く握りしめ立ちはだかっていた。
猫はその恐ろしさと理不尽さに歯を食いしばった。
なぜ、は言い尽くした。ではあとはどの言葉を出せば運命は変わるのだろうか。
猫は地面に顔を押し付けた。
死神は踵を返し去っていった。遠くで何事もなかったかのように作業を進めている。
猫は慰めの言葉が見つからないほど慟哭した。
「雨が、降る」
打ちひしがれた猫に、老婆が声をかける。見上げれば、いつの間にか濁った雲が空を覆っていた。
湿り気を帯びた空気が、ひりつく喉奥をやさしく包んだ。いつのまにか自分は老婆の腕の中であった。背をさすられ、慰められている。猫は嗚咽が込み上げるのを必死で堪え、その優しさに縋った。
ぽつぽつと灰色の雲から雫が落ちてきた。
「暖めてやろう、お前はよく働いてくれたね」
猫は目を閉じ、老婆の懐に強く頭を押し付けた。
春の雨は花を促す。あのカスミソウは、明日にでも咲くだろうか。
「いいものを見せてやろう」
老婆は猫を抱いたまま立ち上がって歩き出した。
しばらく歩き続けて、やがて老婆はある場所で止まった。人間の女の息子の花が植わっていたところである。
穴が空いていた跡地はすっかり平らになり、なによりひとつの小さな双葉が顔を出していた。
「ああっ」
猫は老婆の腕から飛び降り、そろそろと芽に近付いた。
くんと鼻を近づければ思わず涙ぐみそうになる。ああ、乳の匂いがする。
「死神はね、花を引き抜かなければならなかったんだよ」
老婆は優しく声をかけた。
「そうでなければ、新しい命は一体どこに生まれればよいか?」
猫は涙の代わりに何度も何度も若葉を舐めた。いとおしいという気持ちが自然に湧いてくる。
私の赤ちゃん!
そして自分の腹をいとおしく見つめる。この中には、あのときに出会った片目のつぶれた白猫と自分の子がいる。猫はその新芽がまさしく我が子の命の花だということを知った。かつて人間の女が息子の命を見つけたように、確信を持って。
いよいよ雨足は強くなり、見れば若葉は少しずつ背丈を伸ばしていった。
腹には我が子の命が。
込みあがるものは、温かい感情だった。猫はゆっくりゆっくりと歩き出す。
「あの方は当然のことをしているだけさ。つまり、芽を育て、間引きをし、水をやって肥料をやる。花柄を摘み、枯れた葉を取り除いてやるのさ。それがたとえ命の花であっても、花に変わりはないだろう? 少々、世話に対するセンスは悪いがね。神だ、死神だといわれる所以はあっても自覚はないだろうさ。
だれが彼を慈悲深いと言ったんだい? ああ、花にかける愛情は果てしないさ」
神を疑ってはならない、老婆はもう一度言った。
神の愛を疑ってはならないのだ。
たとえそれが求める種類の愛とは違っても。
そしてそれは、そこかしこに散らばっている。
死神は花を引き抜く。
しかしながら、命の花を育て咲かせるのもまた死神ではなかったか。
猫はいとおしさと切なさと、そしてこれから生まれてくるわが子のために、今一度空に向かってにゃあと鳴いた。
初めましての方、以前、erryで投稿した時に見かけた方、また助言をくださった方、こんばんは。
以前のものを少し手直しして、登場人物を絞り込みました。まだまだ未熟なところが目立ちますが、どうぞ忌憚のない感想などを頂けたらと思います。