言えない
雨野さんに声をかけられるようになってからの僕は、正直に言えば、学校に行くのが楽しみで仕方がなかった。毎日ではない。2日に1度、あるいは3日に1度。その気まぐれな頻度が、かえって僕の心を強く惹きつけていた。けれど、今日の僕は、校門をくぐるのが怖くてたまらなかった。もし、雨野さんがいつも通りに話しかけてきたら、僕はどうすればいいんだろう。答えはわかっている。「話しかけないでくれ」と言えばいいだけだ。そもそも僕はいつも小さな相槌を打つ程度で、自分から積極的に話しているわけじゃない。そんな僕が「話しかけないでくれ」なんて言えるわけがない。
(お願いだ。僕に話しかけないでくれ……)
僕はいつもとは正反対の願いをしながら教室に入り、自分の席に座って縮こまっていると、不意に背後から冷たい気配が近づいてきた。
「……分かってるよな?」
鹿島だった。彼はそれだけを短く告げると、僕の返事も待たずに教室を抜け出していった。このクラスに鳳たちはいない。朝礼が始まるまでの間、別の教室にいる彼らとつるみに行くのだろう。
時間は無情にも過ぎ、昼休みが訪れる。
僕はいつものように漫画を広げたが、文字は滑り、物語は一向に頭に入ってこない。ひたすら祈る。彼女が来ないことを。かつてはあんなに切望していた彼女の訪問を、今は地獄への招待状のように恐れている。
しかし、僕の祈りは残酷にも届かなかった。
「白井君! 今週の展開、驚きだったよね」
いつもの、鈴の音のような声。顔を上げると、そこには屈託のない笑顔で、最近よく話しているアニメの続きを熱心に語る雨野さんの姿があった。
(言わなきゃ……「話しかけないでくれ」って、言わなきゃいけないんだ……!)
僕は何度も唇を震わせた。けれど、目の前で本当に楽しそうに、瞳を輝かせて話す彼女を見てしまうと、その言葉は喉の奥で氷のように固まって溶けてくれない。結局、僕はずるずると、いつものように10分間の天国の時間を過ごしてしまった。
彼女が満足そうに笑って席を立ち、女子たちの輪へ戻っていく。その背中を見送り、小さく吐き出した息は、すぐに凍りつく。ドサリ、と。僕の肩に、ひどく重く不快な腕がのしかかってきた。見なくても分かった。鹿島だ。彼は僕の首元に腕を回し、クラスメートには仲の良い友人同士に見えるような、明るく気さくな声を作って僕に話しかけた。
「白井君、ちょっといいかな? 俺とも、楽しいお話をしようぜ」
僕の顔から、一気に血の気が引いていく。視界が真っ白になり、足がガクガクと震えた。けれど、僕に断る権利なんて最初から与えられていない。
「……あ、……っ」
声にならない声を上げながら、僕は強引に椅子から引き剥がされた。鹿島の力に抗うこともできず、僕は再び、暴力が支配する、逃げ場のない閉鎖空間へと連行されるのだった。
連れて行かれたのは、校舎の屋上だった。本来は立ち入り禁止で厳重に施錠されているはずの場所だが、鳳たちは自分たちの聖域にするために、鍵を壊して占拠していた。重い扉が開くと、吹き抜ける風と共に、壁に寄りかかって煙草をふかす鳳の姿が目に飛び込んできた。鳳は僕の姿を確認すると、蛇のような冷たい眼光で僕を射抜いた。
「おい。クリーニング代は持ってきたんだろうな?」
鳳の目的は、昨日突きつけてきた1万円のクリーニング代だ。貧しい家庭の僕にすぐに用意できるはずもなかった。けれど、何もしなければ殺される。僕は震える手で財布を取り出し、中にあるありったけの4千円を差し出した。
「これ……これで、許してください……」
鹿島が横からひょいと札を奪い取ると、中身を確認して鳳に投げ渡した。
「おい凱、4千円しかねーぞコイツ」
「チッ……明日まで待ってやる。もしも持って来なかったら殺すぞ」
鳳は札をポケットに突っ込み、凄みのある低い声で吐き捨てた。
「はい……っ」
と返事をするのが精一杯の僕の横で、鹿島がニヤニヤしながら鳳の肩を叩いた。
「それより凱、聞いてくれよ。コイツさ、昨日あんな目に遭ったのに、今日もまた雨野さんとデレデレと話しをしてやがったんだぜ。マジで舐めてると思わない?」
鹿島の言葉に、鳳の眉がぴくりと跳ねた。鋭い形相が僕を射抜く。
「へぇ……。お前、意外といい度胸してんじゃねえか」
「凱、どうする? またボコっとくか?」
猪瀬が退屈しのぎに拳を鳴らして近づいてくる。すると、横で座って見ていた蝶野が、面白そうに唇を歪めて口を挟んだ。
「待てよ。今ボコって派手な痣作ったら、午後の授業でセンコーにバレるだろ。……そうだ、いいこと思いついた。お前さ、次に雨野が話しかけてきたら大声でこう言えよ」
蝶野は僕の耳元に顔を寄せ、楽しげに悪魔の囁きを吐き出した。
「俺に声をかけるな、ブス……ってな」
その言葉を聞いた瞬間、全身の血が逆流するような感覚に陥った。鹿島がケタケタと手を叩いて笑い出す。
「ハハッ! それ最高じゃん。凱、これで行こうぜ。おい白井、次は絶対に約束を守れよ? 言えなかったら次はマジで病院送りだからな」
鹿島は仲の良い友達にでも接するように、僕の首に腕を回してぐいぐいと力を込めた。友情の形をした拷問だ。その時、昼休みを終える予鈴が鳴り響く。
「行くぞ」
鳳は立ち去り際、挨拶代わりに僕の腹を思い切り蹴り上げた。
「グフッ……!」
続いて猪瀬、鹿島、蝶野が、まるでゲームのノルマでもこなすかのように、倒れ込んだ僕の体に順番に蹴りを叩き込んで屋上を去っていった。笑い声が消えた後、僕は1人、冷たいコンクリートの上にうずくまって激痛に耐えていた。肉体の痛みよりも、蝶野の提案が呪いのように頭の中で反芻される。僕を人間として扱ってくれる唯一の存在を、この口で、最悪の言葉で傷つけなければならない。空はどこまでも青く晴れ渡っているのに、僕の目の前は、ただ真っ暗な絶望に塗りつぶされていた。




