服従こそが正解
「鹿島が好きな雨野に手を出すとは、いい度胸だな」
鳳が低く、温度のない声でそう述べた直後だった。視界が激しく揺れ、僕の腹部に鉄塊を叩き込まれたような衝撃が走った。
(……っ!)
声すら出なかった。あまりの激痛に、僕は無様に腹を抱え、泥だらけの地面を転げ回った。肺から酸素が追い出され、喉の奥からせり上がってくるのは猛烈な吐き気。地面を這いずり、苦悶する僕の姿を見て、鹿島が下品な笑い声を上げた。
「ガハハハハ! 見ろよ、コイツ、たった一発で地面を這いつくばってるぞ!」
鳳は何も言わず、口角を吊り上げてニタニタと笑いながら、今度は僕の腹を容赦なく蹴り上げた。
「グフッ!」
僕は耐えきれず、昼に食べたものが口から溢れ出した。意識が遠のく中、その吐瀉物が、鳳の履いていたズボンを汚したのが見えた。その瞬間、鳳の顔色が変わった。
「……テメェ」
鳳の顔が怒りで真っ赤に染まる。さっきまでの余裕は消え失せ、獣のような唸り声を上げると、彼は狂ったように僕の体を何度も、何度も蹴り飛ばした。ゴツッ、ボキッ、という嫌な音が体の中から響く。あまりの猛攻に、猪瀬が慌てて鳳の肩を掴んで制止した。
「凱、落ち着け! やりすぎだ、これ以上やるとバレるぞ!」
猪瀬の言葉で、鳳はようやく憑き物が落ちたように冷静さを取り戻した。荒い息を吐きながら、彼は鋭い、氷のような目つきで鹿島を睨みつけた。
「……鹿島。あとでコイツに、俺の制服のクリーニング代を請求しとけ」
吐き捨てるようにそう言うと、鳳、猪瀬、蝶野の3人は僕をゴミ屑のように残して倉庫裏から立ち去っていった。1人残った鹿島は、倉庫から持ち出したバケツに水道の水を汲んでくると、朦朧とする僕の頭から勢いよく浴びせた。
「……っ、がはっ!」
冷水で無理やり意識を引き戻される。まぶたを開けると、目の前にはこちらを激しく睨みつける鹿島の顔があった。
「おい、白井。凱のズボンのクリーニング代として1万円出せ」
「……いち、まん……そんなの、持ってない……」
「黙れ。 今持っていないのなら明日までに用意しろ」
鹿島は僕の胸ぐらを掴み、顔を至近距離まで寄せた。その瞳に宿る暗い悦びに、僕は身がすくむ。
「それとな……2度と、雨野さんと話をするな。分かったか?」
その一言で、全てを察した。鹿島たちに呼び出されて、ボコボコにされたのは、僕が雨野さんと過ごしているあの時間を奪うこと。
「……はい……」
僕は絞り出すように答えた。雨野さんが声をかけてくれるあの時間は、僕の人生で唯一の光だった。けれど、ここで「できません」なんて答えたら、次は殺されるかもしれない。こいつらは中学時代、1人の野球部員を自殺まで追い込んだ怪物だ。不祥事によって推薦は取り消されたが、それは部としての連帯責任であり、こいつら個人に少年院や保護観察といった罰則は一切なかった。現在はただの不運な野球少年として、のうのうとこの学校へ流れてきたのだ。僕は雨野さんとの天国の時間を諦めることにした。そうするしか、僕には生き残るための選択肢がなかったんだ。
鹿島の足音が遠ざかり、重苦しい静寂が倉庫裏に戻ってくると、堰き止めていたものが一気に崩れ出した。情けなくて、悔しくて、自分の弱さに涙が溢れてきた。
「僕は……なんて、無力なんだ……」
アイツらに歯向かう勇気なんて、最初から一欠片も持っていなかった。160センチの小柄な体躯。大きな声を出すことさえ苦手で、喧嘩なんて物語の中の出来事だと思っていた僕にとって、剥き出しの暴力の前でできることは服従だけだった。鹿島は帰り際、蛇のような目をしてセンコーにチクるなよと念を押していった。言われなくても分かっている。中学時代、あの野球部でいじめられていた生徒は、勇気を出して先生に相談した。けれどその結果、教師の不手際から相談したことがヤツらに漏れ、地獄はさらに激化したのだ。学校の先生なんて、いざという時には何の役にも立たない。自分の身を守るためには、この屈辱を飲み込み、沈黙を貫くしかないことを僕は痛いほど知っていた。
僕はボロボロの体を引きずるようにして、人目を避けて家に帰った。僕の母は幼い頃に病気で亡くなり、今は父と2人暮らしだ。父は長距離トラックのドライバーをしていて、週の半分は家を空けている。鏡を見ると、幸いなことに顔に目立つ傷はなかった。けれど、服を脱げば体中が赤黒いあざだらけだ。今日が父の帰ってこない日で、本当に助かったと思ってしまった。
浴室でシャワーを浴びる。温かいお湯があざに染みて激痛が走るけれど、心の痛みはその数倍も鋭かった。
「……っ……う、……」
もう二度と、雨野さんとの天国の時間は訪れない。漫画の話をして、彼女の笑顔を間近で見て、自分が人間であることを実感できたあの10分間は、今日、暴力によって奪い去られた。
僕は風呂場で膝を抱え、泣き声を押し殺しながら、ただひたすらにすすり泣いた。




