カウントダウン
全ての始まりは約1年前、高校1年生の時だった。
5月の風が吹き抜ける教室は、僕にとって居場所ではなく、ただの箱だった。高校生活に淡い期待を抱いていなかったわけじゃない。けれど、生まれ持った人見知りと気の弱さが災いし、気づけば入学して2カ月が過ぎていた。
それはとある昼休み。
校庭からはサッカーに興じる男子たちの怒号に近い歓声が響き、教室のあちこちでは女子グループが華やかなおしゃべりに花を咲かせている。そんな喧騒の中で、僕は自分の席に縮こまり、1冊の漫画に没頭していた。それが僕の唯一の防壁であり、城だった。クラスメートにとって、僕は風景の一部、いや、動くことのないオブジェのような存在だった。
だから、その瞬間、耳元で響いた鈴の音のような声は、現実のものとは思えなかった。
「白井君、その漫画、とても面白いよね」
心臓が跳ねた。
顔を上げると、そこには信じられない光景があった。僕の真横には雨野 雫が居た。彼女は、入学してすぐにアイドル的な存在となったが、誰に対しても分け隔てなく接する彼女のことを知らない者はいない完璧な美少女だ。そんな彼女が、なぜか僕の机を覗き込んで微笑んでいた。
「……あ、あぁ……」
声が裏返った。言葉が喉に張り付いて出てこない。雨野さんは僕の困惑など気にする様子もなく、楽しそうに続けた。
「私も兄の影響で読んでるのよ。特に第3巻の、あそこの展開は熱かったよね! 白井君もそう思わない?」
彼女の瞳は濁りなく澄んでいて、僕のような日陰の存在を真っ直ぐに射抜いた。僕はただ、壊れた玩具のように小さく相槌を打つのが精一杯だった。そんな不器用な僕の反応にも、彼女は満足そうに小さく笑うと、「また漫画の話をしようね」と軽やかな足取りで女子たちの輪へ戻っていった。
それからというもの、彼女は数日に1度、昼休みに僕の席を訪れるようになった。時間にすれば、わずか10分足らず。彼女が楽しげに語る漫画の感想を聞き、僕がぎこちなく答える。それだけの時間。友達のいない僕にとって、その10分間は、透明な現実を忘れさせてくれる天国のような時間だった。けれど、僕は気づいていなかった。教室の隅で、こちらを睨みつける煮えくり返るような嫉妬の視線に。
その視線の主は、鹿島 翼だった。鋭く細められた瞳が僕を射抜いている。彼はクラスでも目立つグループに属しており、赤みがかった短髪と、着崩した制服がよく似合う、いわゆる陽キャだ。中学時代は俊足のセンターとして活躍していたらしく、その細身ながらも引き締まった体躯には、独特の威圧感があった。鹿島はアイドル的に人気のある雨野さんに人知れず想いを寄せる男子の1人だった。彼は自分の容姿や運動神経に自信を持っており、これまでも何度か雨野さんにさりげなく声をかけていた。彼女はその都度、いつもの慈愛に満ちた笑顔で応じてくれたが、それはあくまでクラスメートとしての挨拶の域を出ないものだった。雨野 雫が特定の男子生徒に自ら歩み寄り、プライベートな話題で何度も声をかける姿など、誰も見たことがなかったのだ。
鹿島にとって、白井 雲という存在は空気と同じだった。名前すら知らなかったし、そこに座っていることすら意識したことがなかった。だがある日、彼は見てしまった。自分の、そして男子生徒の憧れである雨野さんが、その空気のような奴に自分から声をかけ、あまつさえ、自分には一度も見せたことのないような、少女らしい無防備な笑顔を見せているのを。最初は、ただの驚きだった。何かの聞き間違いか、見間違いだろうと思った。 しかし、それが2度、3度と繰り返されるうちに、鹿島の驚きはドロドロとした黒い嫉妬へと変わっていった。
(……なんでだ。なんであんな、何の特徴もないゴミみたいな奴に、雨野が……!?)
自分のような選ばれた側の人間が手に入れられない彼女の特別な時間を、努力もせず、価値もないオブジェが平然と享受している。その事実が、鹿島の歪んだプライドを激しく焼き焦がした。オブジェがクラスのアイドルと親しげにしているという、彼にとっての許しがたい不敬。 彼が握りしめた拳が微かに震え、その憎悪の矛先が明確に僕へと定まったことに、僕はまだ何も気づいていなかった。
地獄へのカウントダウンは、この輝かしい天国からすでに始まっていたんだ。




