反撃
猪瀬の瞳は、まるで恋に落ちた乙女のように輝いていた。ときめきを宿したその視線は、しかし女性ではなく、無機質な椅子である僕に向けられている。この男は、もう人間ではなく椅子を愛する椅子愛好家へと成り果てた究極の変態魔だった。
鳳や蝶野は、端正な顔立ちで女子からもモテる。鹿島も明るいキャラでそれなりに女子からモテた。中学時代、彼らには恋人がいたが、猪瀬だけは違った。その巨体といかつい顔は、女子生徒から怖いと敬遠され続けてきたのだ。1人だけモテない猪瀬は、せめて女子の温もりを感じたいと、中学の時に好みのタイプの女子の椅子に触れた。それが始まりだった。いつしか彼は、好みの女性が座る椅子そのものを愛でるようになっていた。
猪瀬は僕の前にうやうやしく跪くと、そのまま顔を僕の座面に深く押し付けてきた。あまりの唐突さに、僕はスキルの発動が遅れた。そして、愕然とする。
(……ああ。僕の、僕のファーストキスが……!)
僕はもちろん童貞でキスもしたことはない。鹿島の時は、舌で舐め回すだけだったのでキスにカウントしていない。だが、猪瀬は唇を座面に付けて椅子にキスをしているのだ。僕のファーストキスが憧れの雨野さんではなく、この薄汚い巨漢の猪瀬だなんて……。僕は大声で泣き叫びたい気分だった。
すぐに【ビリビリショック】を叩き込もうかと迷う。だが、鹿島の例がある。この男は、鹿島から刺激の噂を聞いてここに忍び込んだのだ。下手に撃退しようとすれば、それは奴にとってご褒美になってしまう。
(僕は野郎を喜ばせるために転生したんじゃない。雨野さんのために……っ!)
葛藤する僕を置き去りにして、猪瀬の暴走は止まらない。顔を押し付けたまま、奴は湿った舌を伸ばし、座面をベロベロと舐め回し始めた。0距離で迫る猪瀬の毛穴まで見えるいかつい顔。僕は視界を閉じるようにして、ディープキスの如き執拗な舌捌きを成されるがままに耐え忍ぶ。悪臭、ざらつき、そしてまとわりつくネバネバとした感触。
(……もう、限界だ。我慢できない!!)
精神の崩壊を防ぐため、僕は自暴自棄に近い怒り抑えきれず【ビリビリショック(最強)】を叩き込んだ。
『――ガガガガガガッ!!』
最強の閃光が暗闇を走る。猪瀬の巨躯が、物理法則を無視して10cmほど宙に跳ね上がった。そして、ドスンッという地響きのような音を立てて床に尻もちをつく。仰向けに倒れ、天井を見上げる猪瀬。その顔は想定通り……いや、想定を遥かに超えるものだった。苦痛の欠片もない。ただ、宇宙の真理に触れたかのような、絶頂の快楽を得た至福の笑み。
「……ははっ、はははは……っ! これだ……鹿島が言ってたのは……これなんだぁぁ……!」
猪瀬の涎が、歓喜の叫びとともに溢れ出した。
「……もっとだ……もっと、俺に刺激をくれ!」
猪瀬は床に尻もちをついた状態から、むくっと不気味な動作で立ち上がった。その姿は、腐った肉体を引きずりながら獲物を求めるゾンビそのものだ。口の端からは淀みなく涎が流れ落ち、一歩踏み出すたびに床にはベチャリと不快な音を立てる涎だまりが出来上がっていく。僕の目前に立った猪瀬は、鹿島のような中途半端な真似はしなかった。迷いなく服をすべて脱ぎ捨て、完全なる全裸となる。その体はまるでオランウータンのように濃い体毛で覆われていた。
「俺の全てをあなたに捧げよう」
猪瀬はまず、その毛むくじゃらの胸厚を僕の座面に力任せに押し付けた。そして、ハァハァと荒い息を吐きながら上下に激しく体を揺さぶり始める。湿った体毛と、脂ぎった肉厚な感触が僕の全身を汚していく。
(……汚い。不潔だ。助けてくれ)
僕は怒りと嫌悪感で狂いそうだった。 そして、反射的に、以前鹿島を沈めた【ファントムハンズ(最強)】で、こいつの急所を握りつぶしてやろうとコマンドに手をかけた。
(待て……。ダメだ、それだけは……!)
脳裏にあの、鹿島のヌルリとした最悪な感触が蘇る。指先に残るあのおぞましい肉塊の感触。あれをもう一度、しかもこの猪瀬という変態の大王を相手に味わうなんて、考えただけで僕の意識が崩壊しそうだった。
(もう2度と、あんな感触はごめんだ!別の方法で、こいつを地獄へ送る方法は……これだ!)
僕は震える手で【ボディ・スキャン】を選択した。
【ボディ・スキャンの結果】
電気刺激を快感に変換する特殊な回路を持つ体質ですので、ビリビリショックは推奨できません。
推奨方法【天柱の深部刺激】後頭部の生え際にあるツボ。極度の興奮状態で全裸になっている今、この一点を【ファントムハンズ(最強)】の超高精度指圧でピンポイントに突くと、副交感神経が異常作動します。あまりの急激なリラックス効果に脳が対応できず、強制的なシャットダウンを引き起こします。
(……見つけた。そこが、お前の地獄への入り口だ)
猪瀬が僕の座面で悦びに浸り、脂ぎった体毛を擦り付けている今、彼の無防備な首筋は僕の射程圏内にある。どんなに変態的な脳を持っていても、生命維持装置に直結するこのツボのバグだけは制御できない。
(僕のファーストキスを奪った報いを受けろ)
僕は【ファントムハンズ(最強)】のコマンドを選択して、見えない手を伸ばした。狙いは後頭部の天柱。
(……食らえ、超極上ツボ押し!!)
見えない指が、猪瀬の首筋にあるツボを深く、鋭く突き刺した。
「……あ、……え……?」
絶頂の声を上げる暇さえなかった。猪瀬の脳は、過剰すぎるリラックス信号に焼き切られ、処理限界を超えた。白目を剥いた巨漢は、糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ち、動かなくなった。




