ファントムハンズ
目を覚ますと、僕は再び現実世界に戻ってきていた。もちろん、ふかふかの雲の上で話していた人間の姿ではない。四本の脚でしっかりと床を踏みしめる、無機質な椅子である。あたりはすでに日が暮れて、夜の静寂が教室を支配していた。もうそこに鹿島の姿はない。僕の顔……すなわち座面にぶちまけられたあの不潔な物体は、一応は拭き取られた形跡があった。けれど、拭けば済むという話ではない。あの鹿島の、ドロドロとした欲望の塊が付着した椅子に、明日、雨野さんが座るのかと思うと、怒りと嫌悪感で鉄のパイプが折れそうなほどの苛立ちを感じた。
(なんとかして、もっと綺麗に清掃できないかな……)
僕がそう強く願った、その時だった。視界の端に、まるでRPGのゲーム画面のような、半透明のコマンド表示が浮かび上がった。
【 メインメニュー 】
クリーンモード
マッサージモード
九十九神が言っていた特別なスキルとは、このクリーンモードのことだったのだろう。きっと彼女は、鹿島のあの下劣な行動をすべて見ていて、この不潔な状態を打破するためにこのスキルを授けてくれたに違いない。
(本当はもっと、すごいスキルを期待してたけど……。でも、今の僕には何よりもありがたい!)
僕は迷わず、意識の中でクリーンモードを選択した。するとどうだろう。僕の身体が淡い光に包まれたかと思うと、座面の細かな傷や汚れ、そして目に見えない雑菌や鹿島の残留思念までもが、一瞬にして消し飛んでいったのだ。仕上がりは、まさに新品同様。いや、工場から出荷されたばかりの時よりも輝いている。もちろん、抗菌・除菌作用もばっちりだ。これなら明日、雨野さんが座っても何の問題もない。むしろ、最高に清潔な環境を提供できる。僕は椅子として、その結果に深く満足した。
静まり返った夜の教室。
人間の時なら、不気味で怖くてすぐに逃げ出したくなったはずの空間だが、椅子に転生した今の僕には、この静けさが心地よい。
(ふあぁ……なんだか、すごく眠い……)
恐怖を感じるどころか、とてつもない安らぎが襲ってくる。椅子というのは本来、人が座るための道具だ。人が座ることのない夜の時間、役割から解放された椅子は、自動的に停止モードへと落ちるようになっているらしい。 僕はクリーンモードで清潔になった身体で、明日の朝、雨野が登校してくるのを待ちわびながら、深い眠りへとついていった。
朝の光が教室に差し込む頃、僕の意識は自然と覚醒した。椅子としての本能が、主の訪れを察知したのだ。ガラリと扉が開き、現れたのはやはり雨野さんだった。彼女はいつものように鞄を机に置き、ルーティン作業を終えると、ゆっくりと僕の上に腰を下ろした。
(あぁ……やっぱり雨野さんの温もりは最高だ。この瞬間のために椅子になったと言っても過言じゃない……!)
その温もりを堪能していたいところだが、今の僕にはやるべきことがある。心地よい椅子に進化したことで得た、真価を試す時だ。僕は意識を集中させ、メインメニューから【マッサージモード】を選択した。
すると、僕の視界が切り替わり、4つの項目が並ぶスキル選択画面が現れた。
【 マッサージコマンド】
1. ボディ・スキャン 座った瞬間に、相手の体温、心拍数、筋肉のコリを瞬時に把握し、改善策を提案する。
2.バイブレーション 超微細な振動からリズムの良い叩きまで。太ももや腰の血行を促進する。
3. ファントムハンズ 椅子から見えない手が出現。全身をもみもみして極上の癒やしを与える。
4. ビリビリショック 椅子から電流を流す。慢性的な痛みや疲労を緩和する。
(なるほど、これが九十九神が言っていた力か……。まるで最新家電、いや、魔法だ)
僕はまず、雨野さんの健康状態を確認するためにボディ・スキャンを選択した。すると青い光のようなエフェクトが雨野さんの身体をなぞり、すぐさま詳細な分析データがモニターに表示される。
【ボディ・スキャン結果】
総合疲労度:88%(蓄積過多・危険域)
首・肩周り 同一姿勢の継続による、極度の筋肉緊張。
腰部 長時間の着席圧迫による、重度の血行不良。
ふくらはぎ: 激しい肉体運動による、乳酸の異常蓄積。
改善提案 疲労が限界に達しています。ファントムハンズ(中)による深層もみほぐしと、ビリビリショック(中)による疲労回復を推奨します」
(……雨野さん、こんなに身体がボロボロだったのか)
表示されたデータを見て、僕は胸が締め付けられる思いだった。 スキャン結果には、疲労の具体的な理由までは表示されない。でも、僕は知っている。彼女が生徒会の仕事と部活を完璧に両立しながら、勉強も一切手を抜かずに頑張っている姿を。彼女はテニス部で全国大会に出るほどの成績を収め、生徒会では副会長を務め、さらに学年の成績では常に上位3位を落としたことがない。いつも太陽のような笑顔を絶やさず、周囲に疲れた姿を見せたことなんて一度もなかったけれど、その内側で、彼女の身体はとっくに限界を迎えていたのだ。
(……雨野さん、君はどこまで一人で背負い込んでいるんだ)
かつて人間だった頃、クラスの誰からも相手にされず、透明人間のように扱われていた僕に、唯一、彼女だけは優しく声をかけてくれた。それなのに、僕は鳳たちが怖くて、酷い言葉を投げつけて彼女を傷つけた。……そんな僕が死んだ時、たった1人、僕のために涙を流してくれたのも彼女だった。
「……今度は、僕が彼女を助ける番だ」
かつての情けない自分への決別と、彼女への深い謝罪。そして何より、今の自分にできる精一杯の恩返し。 僕はマッサージコマンドの中から【ファントムハンズ】を選択した。




