椅子生
あの時、僕の最期に聞こえた不思議な声。あれは、きっと神様だったのだろう。「椅子になりたい」なんて、今思えば我ながら突飛すぎる願いだったけれど、後悔はしていない。あの日、絶望のどん底で僕が絞り出した、唯一の純粋な望みだったから。
猪瀬、鹿島、蝶野の3人がそれぞれの席につき、騒がしかった教室にようやく担任の声が響く。
「……全員揃ったな。実は、皆に伝えなければならないことがあります」
担任の神妙なトーンに、さすがのクラスメートたちも私語を止めた。
「ニュースで知っている人もいるかもしれませんが、昨日、白井君が、電車内で暴漢に襲われ……亡くなりました」
一瞬の静寂の後、教室が蜂の巣をつついたような騒ぎになった。けれど、それは決して死を悼む声ではなかった。
「うわ、マジかよ」
「自業自得じゃね? 雨野さんに酷いこと言うような奴だし」
「正直、いい気味だわ。あんな奴、死んで当然でしょ」
あちこちから漏れ聞こえてくるのは、罵声に近い無慈悲な言葉ばかりだ。椅子になった僕は、その反応を冷静に受け止めていた。怒りすら湧かない。雨野さんを罵倒したあの日から、ずっと僕は嫌われ者だった。僕が死んで喜ぶ人の方が多いのは百も承知だった。
だが、その時。
僕の顔にあたるであろう座面の前に、ポツリ、と輝かしい雫が落ちた。
(……えっ?)
何だろうと思い、視点を自分の座面へと移動させる。そこには、俯いて顔をくしゃくしゃに歪ませた雨野さんがいた。
「……っ……白井、君……」
誰にも聞こえないようなか細い声で、彼女は僕の名前を呼んでいた。あんなに酷いことを言って傷つけたのに。1年生の時に、クラスメートが僕を責めた時にも彼女は僕を庇おうとしてくれた。そして、彼女は今、大粒の涙を流して悲しんでいる。
泣き顔ですら絵になるほど美しい彼女。けれどその涙は、1年前、僕がブスと言い放った時の涙と同じだった。
(ごめん、雨野さん。……また、君を泣かせちゃったね)
彼女だけが僕の死を悼んでくれていることが、震えるほど嬉しかった。同時に、彼女を泣かした罪悪感が、木と鉄でできた僕の体を激しく締め付ける。椅子の僕には、彼女の涙を拭う指も、謝るための口もない。ただ、彼女から零れ落ちる温かな雫を、見つめることしかできなかった。
「さあ、1限目の準備をしろ。教科書を出せ」
担任は、教室内で僕への罵倒が続いていることなど意に介さず、淡々と告げた。注意するどころか、僕という生徒がこの世から消えたことに対して、悲しみの欠片も見せない。僕の死はこのクラスに何の影響も与えず、ただ邪魔者が1人消えたという事実だけを飲み込んで、世界は冷酷に回り続ける。雨野さんは慌ててハンカチで涙を拭うと、鼻をすすりながら、震える手でカバンから教科書を取り出した。まだ赤くなった瞳で、必死に前を向き授業を受ける。
さあ、ここからだ。
白井雲としての人生は終わったが、僕は転生して椅子となり椅子生が始まったのだ。




